だるまの目入れは差別か
「だるまの目入れは差別か」――http://t.co/mNlwAA0j 視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全という偏見意識を育てることにつながりかねない」というクレームがあったことで、選挙事務所からだるまが姿を消しつつあるという。
この記事を読んだ多くの方々の感想は、「考えすぎ」「そんな意図はないはず」。たしかに、だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、「ブラインドタッチ」「目が節穴」という言葉さえ使ってはならないのだとか。いずれは、「視野が広がる」なども使えなくなってしまうのだろうか。
これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。
障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。
だが、ここで忘れてはならない視点がある。彼らはなぜ、「それしきのことで」差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。そうした事柄に対する是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある。
僕はよく障害をネタにしたジョークをつぶやく。笑ってくださる方もいれば、凍りつく方もいる。なかには、「そんなこと笑いのネタにするものではない」とご立腹なさる方もいる。その反応は、様々だ。だが、こちらのまとめ( http://t.co/QIkUdX1g )を読んでいただければわかるように、僕は自分の障害を“負”だととらえていない。僕自身はみずからの障害について、ただの特徴だと思っているから、「それにいちいち目くじらを立てられても……」と困惑するのだ。
しかし、僕がそう思えるのは、僕にとって障害はただの特徴で、けっして“負”ではないと思えるのは、その生い立ちが大きく影響しているように思う。『五体不満足』をお読みの方はご存じのとおり、僕はいじめを受けたこともなければ、障害によって大きな制限を受けたこともない。両親に愛され、健常者とともに楽しく過ごし、成長してきた。そこには様々な理由があるだろうが、結果として僕は障害を“負”と感じることなく、むしろそれを笑い飛ばすようになった。
だが、そうした障害者ばかりではない。いや、むしろ、僕のように恵まれた環境で育った障害者は少数派かもしれない。親にも受け入れられず、幼少期にいじめに遭い、苦しみとともに育ってきた方に、「乙武のように障害なんて笑い飛ばせ」と言っても無理があるし、僕らが「それしきのこと」と感じることにも敏感に反応したり、「やめてくれ」と思ってしまうその感情も、無理からぬことかもしれない。
「いやだ」という人に、「そんなの気にしすぎだ」と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。そして、幼少期に「障害がある」という理由だけでつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい。
「だるまの目入れは差別か?」という記事から、ずいぶん長くなってしまいました。みなさんにとっての考えるきっかけとなれば幸いです。以上、エロだるまがお送りしました。
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