複眼的な視点
前回、前々回と、いま教育界を騒がせている教科書問題について触れてきました。いやあ、読み返してみたら、文章がカタイ! 今回は、もう少しやわらかく、僕らしい文章でいこうと思います。
さて、「つくる会」vs「反対派」。たがいに相手を「自虐史観」、「皇国史観」と非難しあっていることは、これまでのメールで説明してきました。つまり、「国際社会のなかの日本」を意識した歴史観なのか、「あくまで日本を中心とした」歴史観なのか。
これ、どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではないと思うんです。視点をどこに置くかによって、歴史の見え方、伝え方はいくらでも変わってくる。でも、それって歴史に限ったことではありませんよね。
たとえば。
A君が、突然、B君に殴られた――。これだけを聞けば、B君は完全に「悪玉」です。A君は、さぞ困惑したことでしょう。
ところが、もし日頃からA君がB君をいじめていて、そのいじめに耐え切れなくなったB君が、報復行為としてA君に殴りかかったという背景があったとしたら……。立場は、たちまち逆転。今度はA君が「悪玉」。B君には同情を寄せたくなってしまいます。
この事件を知ったC先生は、二人を呼んで事情を聞きます。A君は「あいつが突然、殴ってきた」としか言わないでしょうし、B君はこれまで受けてきた苦しみを切々と訴えるでしょう。先生は、きっと「どちらが悪い」と一方的に断罪することができず、頭を悩ませるはずです。
たぶん、そういうことなんだと思います。いや、もちろん、他にも考慮しなければならない複雑な事情、根深い問題もあることでしょう。でも、この教科書問題の本質は、こうしたところにあるのかな、と。
では、なぜ扶桑社の教科書は、わずか0.039%という低い採択率(前回)に留まったのか。どちらの歴史観も間違ったものでないなら、もう少し扶桑社の教科書を採択する自治体が現れてもよさそうなものですが……。
これは、「どちらの歴史観が正しいのか」という議論と、「どの教科書が、より中学生の学習にふさわしいのか」という議論が、まったくの別問題であることを示しているように思います。
視点を変えれば、歴史の見え方も違う。だから、「どちらの歴史観が正しいか」という議論は不毛なものだと思っています。では、質問を変えてみましょう。
「どちらが一般的で、中学生が学習しておくべき歴史観か」
すると、たちまち、「99.961」vs「0.039」という数字になってしまうのです(教科書としての完成度など、そのほかの要素も影響しているとは思いますが)。
「でも」と、僕は考えてしまいます。
扶桑社版の教科書は、中学生の学習にまったく役に立たないものなのでしょうか。少なくとも、日本がつねに悪玉として描かれてきた教科書で教育を受けてきた僕には、「なるほど、そういう考え方もあるのか」と考えさせられる箇所がいくつかありました。
扶桑社版に反対する人々は、「これだけ国際社会になったのに、こんな日本に偏った教科書をつくって」と口にしています。ですが、これまでの教科書は「近隣諸国から見た日本」ばかりが強調され、「日本からの視点」はあまりに無視されてきたように思います。
国際社会の一員となる子供たちだからこそ、それぞれの立場によった多角的な物の見方を身につける必要があるのではないでしょうか。
そこで、こんなアイデアを思いつきました。
教科書を2冊とも使ったらどうだろう。
いや、ふざけて言っているのではありません。もちろん、普段の授業から2冊を並行して授業を進めていくことは難しいでしょう。でも、たとえば前回のメールにも書いたような「視点の異なる箇所」に関しては、それぞれの教科書を読み比べたらいいと思うのです。
たとえば、「韓国併合」。扶桑社版とそれ以外の教科書では、ずいぶんと書かれ方が異なっています。それは、「この歴史的事実をどの国から見つめるか」という視点の違いから来ています。
だったら、どちらの国からも見てみよう!――というのが僕の考え方です。2冊の教科書を読み比べてみれば、「なぜ日本が韓国併合を行ったのか」「それを韓国はどう受け止めたのか」という、双方の主張・立場がわかる。この複眼的な物の見方こそが、これからの国際社会を生きる人間に必要なものだと思うのです。
こうした学習をもとに、子供たちを日本・韓国それぞれの立場に分けて、ディベートをさせてもいいかもしれません。歴史の授業だけで時間が足りないようであれば、「総合的な学習の時間」を活用する手もあります。
「歴史を学ぶ」から「歴史から学ぶ」へ。拒むことばかり考えるのではなく、うまく活用する道も考えてみたらどうでしょうか。
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