Monthly Archives: 11月 2010
愛しい君へ
深夜に、泣きながらこの文章を書いています。 君が亡くなったというニュースを聞いたときも、胸が詰まる思いでした。 だけど、今日は、今日のニュースは、また違う種類の悲しみを、 僕の胸に届けるものでした。 「いじめと自殺の因果関係は認められない」 僕にとって、それはあまりに衝撃的な言葉でした。 校長先生は、どんな思いでその言葉を口にしたのかな。 いじめた子どもたちに、心の傷を残さないための配慮だったのかな。 担任の先生だけに、責任を負わせないための配慮だったのかな。 僕たちにはわからない“何か”を守るためのものだったのかな。 君の笑顔は……少しでも頭のなかに思い浮かべてくれてたかな。 遺書は、なかった。 この事実がわかったとき、彼らはどんな思いだっただろう。 ひとりの尊い命が奪われてしまったという事実も忘れ、 ホッと胸をなでおろしていたんじゃないか。 僕には、そんな気がしてならないよ。 もしかしたら、やさしい君は、そんなこともわかっていて、 何かを言い残すことなく旅立ってしまったの? でも、それはきっと間違いだよ。 そんな君のやさしさを、まわりはただ利用しているだけ。 「いじめが直接的な原因かはわからない」 また、涙がこぼれてきた。 悔しいよ…。 救ってあげることができなかった自分の不甲斐なさを、 鋭い痛みとともに、強く、強く感じています。 かけがえのない命を失わせてしまった。 君のような苦しい思いで、この世を去っていく子どもが、 一人でもいなくなるように――。 僕にできる精いっぱいのこと、力を尽くしていくからね。 乙武洋匡
馬上からの景色
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、用賀小学校時代のめずらしい思い出をつづった 第3回「馬上からの景色」をお送りします! 第3回『馬上からの景色』 「ピイーッ、ピッ!」 僕が6年間通った世田谷区立用賀小学校。正門前にある横断歩道では、毎朝、警官が交通整理をしてくれていた。そしてその警官が乗っているのは、パトカーでも白バイでもなく、“馬”だった――。 用賀小から徒歩十分ほどの距離にある馬事公苑は、東京ドーム約4個分という広大な敷地を誇るJRA運営の公園。春には桜が咲き誇り、区民の憩いの場となっている。騎馬警官は、毎朝、この馬事公苑からやってきていた。 十一月。勤労感謝の日に向けて、各学年が日頃からお世話になっている方々に作文を書くことになり、僕ら五年生は騎馬警官に感謝の思いを伝えることとなった。すると、「作文のお礼に」と、五年生全員が馬事公苑で馬に乗せてもらえることになった。 冬の澄んだ青空。白い鉄柵に囲われた黒土の放牧場。僕らは列をつくって、茶褐色の美しい馬体にまたがる順番を待った。友達が気持ちよさそうに場内を一周する姿を見上げながら、「いったい馬上から見える景色はどんなだろう」などと思いをめぐらせる。少しずつ僕の番が近づくたび、鼓動が速まっていった。 「よし、じゃあ次はヒロだ」 担任の先生に抱えられて、5段ほどの木製の階段を上がる。これで、ようやく澄んだ目をしたサラブレッドと同じ高さになる。職員の両脚に挟み込まれるようにして、馬上へ。目線は2階にいるような高さ。ぐらり。ゆっくりと動き出したが、思いのほか揺れが大きい。怖い。でも、何だか誇らしい気分。あっという間の数分間だった。 カポッ、カポッ。馬の蹄が路面を叩く音とともに登校していたあの頃。騎馬警官は、いまでも用賀小の子どもたちを見守ってくれているという。
祭りのあと
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、小学校時代の友人との思い出をつづった 第2回「祭りのあと」をお送りします! 第2回『祭りのあと』 小学校低学年くらいまでは、「親に連れられて歩く場所」だった用賀の街は、高学年になると「友達との遊び場」へと変わっていった。 「なあ、明日の朝早く、用賀神社に行かないか?」 そんな相談を持ちかけてきたのは、悪友のススムだった。縁日があった翌朝に神社の境内に行くと、小銭がたくさん落ちているというのだ。「いいね。面白そう!」僕らは近所に住むミノルを誘って、翌朝に出かける約束をした。 用賀神社には「あばれ獅子」と異名をとる一対の獅子頭があり、明治の初めには、秋祭りになると五穀豊穣・悪疫退散を祈願し、若者が獅子をかついで村中を練り歩く風習があったという。いまでは神輿がそれに取って代わり、そう広くはない境内に所狭しと露天がならぶ。秋祭りは、僕ら“用賀っ子”の楽しみのひとつだった。 翌朝、十月のひんやりした朝の空気を感じながら神社へ。悪ガキ3人を、立派な石造りの鳥居が出迎えてくれる。まさに祭りの後といった閑散とした境内だったが、僕らの目には、宝探しの会場としか映っていない。3人のハンターは目を輝かせながら境内へと散らばっていった。しばらくすると、「あった!」というミノルの声。ススムと二人で駆けつけると、たしかに草むらのなかにキラリと光るものが。「おおーっ!」と興奮したススムが拾い上げたのは、ただのビール瓶の王冠だった。 「まったく、祭りの翌日にはお金がいっぱい落ちてるとか言い出したのは誰だよ」 「おかしいなあ。たしかに兄貴がそう言ってたんだけど……」 境内の石段に腰かけ、仏頂面を三つならべたあの日から二十数年。ススムは札幌で、ミノルは中国・大連でそれぞれ仕事をしている。いつか、3人で用賀神社の散策でもした後で飲みたいものだ。
父との時間
今年9月、東京新聞『わが街わが友』というコーナーで、 全12回の連載を担当させていただいていました。 なんと、今回、東京新聞さんのご好意により、全12回のコラムを 当サイトにも掲載させていただけるようになりました! 掲載は、11月中の月曜、水曜、金曜を予定しています。 どうぞ、お楽しみに(^O^)/ では、まずは第1回「父との時間」から。 第1回 『父との時間』 僕にとって、「生まれ育った街」と言われて真っ先に思いつくのは、世田谷区用賀。砧公園や馬事公苑など、緑豊かな土地であるだけでなく、多くの幹線道路に囲まれた交通の便にも恵まれた街だった。 いまや用賀のランドマークにもなっている地上28階建ての駅ビルも、完成したのは僕が新宿区へ転居した翌年(93年)のこと。当時は、“用賀村”と呼ばれるほど、のんびりとした街だった。 現在は駅ビルの地下にある優文堂書店。当時は、駅からすぐそばにある路面店だった。日曜日、父に連れられて自宅から本屋までふたりで出かけていくのが、週に一度の楽しみだった。父が仕事から帰宅するのは夜遅く。平日はあまり話をすることができなかったから、その一週間に学校であった出来事などを話す約20分の道のりは、僕にとってとても待ち遠しい時間でもあった。 いざ本屋に着くと、しばし別行動。僕の車いすをマンガ売り場まで押していくと、建築家だった父は、美しい建物が載る雑誌をぱらぱらとやりに行った。わが家には「マンガ本を買うのは月に一冊」というルールがあったから、毎回、欲しかった『ドラえもん』を買ってもらえたわけではなかったけれど、僕はそれでもふくれ面をすることはなかった。大好きな父と一緒に出かけられるだけで、それだけで十分に幸せだったから。 あれから20年以上が経ち、僕にもふたりの息子ができた。気づいたことがある。父は、別に毎週のように本屋に用事があったわけではないのだ、ということ。平日は僕にかかりきりで、自分の時間など持つことができなかった母に、わずかなからも休息の時間をつくってあげたかったのだろう。さて、息子よ。僕たちはどこに出かけようか。
「どうやって?」シリーズ
さて、ツイッターをやっていると、みなさんから 「乙武さんは、どうやって○○をするのですか?」という ご質問をよくいただきます。 そこで、今日はそのなかでも、特によくいただく質問について、 写真付きで回答していきたいと思います! Q.1 どうやって、パソコンを打っているのですか? A.1 みなさんの肘よりも、やや短い腕の先を使って打っています。 こう見えて、なかなか打つのが速いんですよ! Q.2 外出時は、どうやってツイートしているのですか? A.2 首からぶらさげた携帯電話のボタンを口先で押しています。 iPhoneは僕の手では操作が難しいので使っていません。 Q.3 字はどうやって書いているの? A.3 このように、ほっぺたと腕の間にペンをはさんで書きます。 ちなみに、このサインは筆記体で「OTO」と書いています♪ いかがでしょう? みなさんのギモン、少しは解けたでしょうか!? 機会があれば、またやってみたいと思います♪