「障害」=「個性」?
今日は、『誰だって波瀾爆笑』という番組に出演させていただきました。
とても反響が大きく、あらためてテレビというメディアのもつ影響力の
大きさに驚かされているところです。
以前は、テレビや新聞など「マス」メディアが発信することがすべて。
でも、ブログやツイッターといった「個人」メディアの登場によって、
そんな状況にも少しずつ変化が見られてきたように思います。
僕は、両者をこんなふうに使い分けています。
「広く」伝えたいときには、テレビや新聞などのマスメディア。
「正確に」伝えたいときには、ブログやツイッターといった個人メディア。
もちろん、マスメディアが不正確だと言うつもりはありません。
ただ、細かい言葉のニュアンス、言い回しなどにこだわる僕には、
どうしても第三者に言葉を委ねることになるマスメディアよりも、
一字一句を自分の言葉で伝えることができる個人メディアのほうが、
より安心感をもって、正確に伝えられる気がするのです。
メディアに言葉を託したことによって、誤解が生まれ、
その言葉だけが独り歩きしてしまった最たる例があります。
「障害は個性です」と語る乙武さん――。
みなさんも、どこかで見聞きしたことのある文言かもしれません。
でも、じつは、僕は一度もこのセリフを口にしたことがないんです。
個性とは、「その人らしさを形成する上で、必要不可欠な要素」。
だから、本来の意味で言えば、障害も個性なのかもしれません。
でも、やはり日本で「個性」という言葉が使われるとき、そのほとんどが
肯定的な意味であることが多いように思うんです。
それでも、「障害=個性」と言えるのか?
ならば、障害という個性があこがれられたりもするのか?
たぶん、答えはNOだと思います。
だから、僕自身は「障害=個性」と言いきってしまうことに、
少なからず抵抗を感じてしまうのです。
Twitterでそんなことを書いていたら、こんなツイートをいただきました。
「じゃあ、乙武さんにとって障害とは?」
僕にとって障害とは、「二児の父」「メガネをかけている」――
そうした要素とならんで、乙武洋匡を形成する数ある特徴のひとつ。
そして。
性格や能力、そして障害も含めた僕自身を形成するすべての特徴を
振り返り、それらを生かして、「自分にしかできないこととは……」と
考えたとき、そこに初めて「個性」が生まれると思っているのです。
僕は、この手足がないという特徴を生かして、多くの人々に
「みんなちがって、みんないい」というメッセージを伝えていきたい。
それは、『五体不満足』から一貫して強く思っていることです。
そうした信念で活動していくことが、僕の「個性」だと思っているから。
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