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ウソだよーん♪


東京都教育委員就任にあたって

 今月8日(金)、東京都教育委員の辞令交付式があり、猪瀬直樹都知事から発令通知書を受け取った。1956年に現行制度となって以来、史上最年少での就任となるそうだ。ここで、あらためて活動への思いを記しておこうと思う。    まず大切にしたいのは、5年間にわたる教育現場での経験だ。2005年からは2年間、東京都新宿区教育委員会非常勤職員「子どもの生き方パートナー」として、区内の小・中・特別支援学校を訪問した。2007年からは3年間、杉並区立杉並第四小学校教諭として、23人の子どもたちを担任した。  教育界は、現場の状況を顧みずにあれもこれもと欲張るきらいがある。IT教育も必要だ、英語教育も必要だ、道徳教育も必要だ――もちろん、その通りなのだが、それらを子どもたちにしっかりと指導する人材や予算を十分に確保しないまま、「やらなければならないこと」だけを次々と増やしてしまう傾向にある。  あるベテラン教師の言葉だ。  「昔の教師は、子どもたちと向き合うのが仕事だった。それがいまの教師というのは、書類と向き合うのが仕事になってしまっている」  現場の教師たちは、本来のキャパシティ以上に多くの荷物を背負わされ、悲鳴をあげている。おそらく、委員のなかでこうした状況を理解できている人は少ない。現場にいたからこそ持つことのできる視点は、忘れずに発信していきたい。  次に生かしたいのは、マイノリティとして生きてきた経験だ。僕は生まれつき手足がない身体障害者として生きてきた。多くの人とは異なる肉体を与えられたことで、つまり「少数派=マイノリティ」として生きてきたことで、多くの人には必要とされない特別な努力や工夫を求められる場面が多くあった。  だが、マイノリティとは身体障害者のみを指すわけではない。身体以外に障害のある子どもたちや、言語や国籍において少数派である子どもたち。さらには性同一性障害などセクシャリティの問題もある。学校という場所は、「大多数」に合わせてつくられているため、少数派には生きづらい場所でもある。  本来ならば、先述したような特性はたんなる「違い」であり、数の多い少ないという問題に過ぎないはずだ。だが、いまは「違い=ハンデ」となってしまっている。少数派であることで生きづらさを抱える子どもたちの心に少しでも寄り添い、その苦しみに目を向けていくことができる存在でありたい。  そして、忘れてならないのは保護者としての視点。僕が任命されるまでの委員は、70代が1名、60代が3名、50代が1名という構成だった。そこに30代の僕が加わることとなる。5歳と2歳の息子がいる「現役子育て世代」であるからこそ、見えてくるもの、意識が向くことがあるはずだ。  教育委員という責務の大きさに、あらためて身が引き締まる思いでいる。「元小学校教師として」「マイノリティとして」「現役子育て世代として」――他の委員にはないであろう3つの視点を意識して、東京の教育と向き合っていくつもりだ。


ピストリウス逮捕に思う

 以前にも書いたように、僕はいずれオリンピックとパラリンピックが統合され、ひとつの大会となることを願っている。 (Togetter「パラリンピックをなくしたい!」  参照)。  多くの人が「無理だ」「現実味がない」と考えるだろうが、そこに一人のアスリートが登場した。  パラリンピックのみならず、オリンピックにも出場し、さらには好成績を収めた義足のランナー、オスカー・ピストリウス選手(南アフリカ)の登場は、僕らに大きな衝撃を与えた。彼の出現は、ただ「障害があるのに頑張っている」という精神論に留まらない、じつに重要な議論を巻き起こした。  カーボン製の競技用義肢を使用するピストリウス選手がオリンピックに出場することに対して、「五輪という舞台に障害者が参加できることは素晴らしい」と称賛する声がある一方、「義肢を改造すれば、いずれ健常者より速く走れてしまうのではないか」と、その公平性に疑問を投げかける声も上がった。  どちらも、傾聴に値する意見だ。オリンピック・パラリンピック両大会の統合を願う僕としては、「どちらが正しい」「どちらが間違っている」ではなく、こうした議論が起こること自体が重要だと考えている。また、今回こうした形で問題提起をしてくれたピストリウス選手には、心から敬意を表したい。  そのピストリウス選手が、恋人を自宅で射殺した罪で、殺人容疑に問われている。本人は誤射だと供述しているが、検察側は計画的殺人だと主張している。さらには、自宅から筋肉増強剤と注射器が見つかった。殺人とともにドーピング疑惑も浮上。障害者界のスーパースターは、一気に窮地へと陥った。  僕は「同じ障害者だから」「彼の功績は偉大だから」という理由で、盲目的に彼を擁護するつもりはない。今後の捜査の進展を、慎重に見守っていくつもりだ。だが、たとえ彼の容疑が確定したとしても、ピストリウス選手が殺人を犯していたとしても、それは示唆に富んだ事例になるだろうと思っている。  彼らは清らかな存在で、けっして悪いことなど考えるはずがない――『五体不満足』出版以来、僕もこうしたステレオタイプな障害者観に苦しみ、窮屈な思いをしてきた。もしも、ピストリウス選手が殺人を犯し、筋肉増強剤を使用していたとなれば、そうした障害者観に大きなヒビを入れることになる。  今後、ピストリウス選手は無実が証明されるかもしれないし、獄中に入ることになるかもしれない。いずれにせよ、彼の存在、彼の言動は、これからも一面的な障害者観に一石を投じることになるだろう。そしてまた、僕自身もそうした存在でありたいと思う。いい意味で、期待を裏切っていきたいと思う。  障害者にだって、飲んべえや、エロや、ろくでなしもいる。肉体というものは、言ってみれば“容器”なのだ。その中にどんな中身が詰まっているかなんて、開けてみなければわからない。その容器だけを見て、蔑んだり、期待したり――それがいかにバカバカしいことか、僕らはそろそろ気づくべきだ。  そんなわけで、今日も僕は僕らしく、肉体にとらわれることなく、自由に生きていきます。みなさんも、肉体にかぎらず、さまざまなカテゴライズに縛られることなく、自由に生きてみてください。もしかしたら、この世界はもっと広く、その人生はもっと楽しいものかもしれませんよ。


それ行け、だるま先生!

 無料通話・メールアプリ「LINE」のスタンプにもなっている明光義塾のキャラクター「だるま先生」がやけに僕に似ていて、とても親近感を覚える。人気子役タレント・はるかぜちゃんも「ホントだ!」と共感してくれ、以来、だるま先生を気に入ってくれた。  昨日、たまたま彼女のツイッターでLINEが話題になったことから、彼女は「乙武先生とだるま先生は似ている」とつぶやいた。これに対して、多くの方から「それは不謹慎な発言だから控えるべき」「不快な発言だ」とのリプライが殺到した。その経緯と彼女の反論については、こちらにあるのでお読みいただければ。  では、いったい彼女の発言のどこが不謹慎なのだろう。まず、「だるま先生と僕が似ている」と言いだしたのは、ほかでもない僕自身であり、さらに僕とはるかぜちゃんは年齢こそ離れているものの、たがいに信頼しあう友人である。だから、彼女が僕を揶揄しようとしての発言でないことも理解している。  そうした事情は彼女もツイッター上で懸命に説明したが、それでも「不特定多数の見ている場所で、誤解を与えるような発言をすべきではない」「この発言を読んで不快になる人もいる」と食い下がる方が多くいた。つまり、「僕以外の四肢のない人が読んだら、傷つくのではないか」という先回りした配慮である。  もし、彼女が「四肢のない人全般」を指して、「だるまみたい」と無邪気に発言したのなら、「それは気をつけたほうがいいかも……」と思わないでもない。でも、彼女は不特定多数を指したのではなく、あくまでも「“乙武先生が”だるま先生に似ている」と言ったのだ。話を、僕個人に限定しているのだ。  以前にも書いたが、「背が高いですね」というのは、一般的にはほめ言葉として捉えられる。でも、もし背が高いことを気にしている人に「背が高いですね」と言えば、その人を傷つける可能性がある。つまり、「だるま」という言葉が、「背が高い」という言葉が、それぞれ誰に向けられたものであるかを考えることが重要だと思うのだ。  今回の騒ぎは、「障害者」を「障がい者」を表記する流れと良く似ている。「害」という字は、障害者が不快に思うのではないか――障害者がすべて同じ心境であると「一括りにした」「先回りの」配慮。それは僕からすると「臭いものにはフタ」と受け取れなくもない。そうした思考自体が、誰かを不快にしていることだってある。  先回りの配慮をありがたく思う障害者もいれば、そうした配慮を不快に思う僕のような障害者もいる。少しでも相手を傷つける可能性のある言葉を見つけて、鬼の首を取ったように「不謹慎だ」と正義の味方を気取る人々の姿は、とても滑稽だ。ならば、「背が高い」という言葉だって誰かを傷つける可能性があるのだから、もう二度と使えない言葉ということになってしまう。  ずいぶん長くなったので、このへんで。最後にどうしても伝えたいのは――  「結果的に大々的な宣伝になったのだから、明光義塾は何かくれ(笑)!」  ちがった……「思考停止にもとづく安易な配慮こそが、誰かを傷つけていることもある」ということ。心の隅に留めていただければ。エロだるまより。


イスラム教は悪?

 アルジェリア人質事件。日本人7名を含む人質37名の死亡が確認されました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、まだ安否のわかっていない方々の無事を祈るばかりです。自分たちの主張を通すために無関係の人々の命を脅かし、奪うという非道な手法に、激しい憤りを覚えます。  一方で気になるのは、ただでさえ日本人にとってなじみが薄く、「なんだかよくわからない宗教」と位置づけられてしまっているイスラム教に対する偏見や嫌悪感が、今回の事件を機に、より増長されてしまうのではないかということです。それは絶対にあってはならないことだし、避けなければならない。  じつは、先週まで北アフリカにあるモロッコという国に一週間ほど滞在していました。今回の事件が起こったアルジェリアのすぐとなりにある国です。モロッコに住むほとんどの人々は、イスラム教徒。でも、彼らはやさしく、穏やかで、車いすで旅する異邦人の僕に、とても親切に接してくれました。  もともとイスラム教は戒律に対して厳格な国が多く、人々は理性を保つためにアルコールは口にせず、また盗みが大罪であるという意識が強いことから、窃盗事件も起こりにくいと聞きます。実際、モロッコでもスリなどの被害に遭う観光客は少なく、僕もその点では欧州より安心して過ごしていました。  しかし、なかにはイスラム復興主義(一般的には原理主義)という思想を信仰している人々もいます。これは、現在のイスラム世界は教典『クルアーン(コーラン)』に基づいたものではなく、原点回帰すべきだとする考え方です。そのため、近代的または西洋的な価値観とは相容れない面も大きい。  この自分たちが理想とする伝統的なイスラム社会を実現するために、暴力や破壊的活動を行う人々がいます。これが、イスラム過激派と呼ばれる人々です。つまり、今回の事件を起こしているのは、「イスラム教徒」のなかの「イスラム復興主義者」のなか「過激派」という、ごく一部の人々なのです。  こうした背景を押さえることなく、メディアが、そして僕らが「イスラム勢力によるテロ」と単純化して表現してしまうことで、あたかもイスラム教そのものが危険な思想であるかのような誤解を与えてしまうとともに、イスラム教を信仰する人々への差別や偏見を生みだしてしまいかねません。  それは、サッカーの試合会場で暴力的行為を行うフーリガンを指して、「サッカーファンは低俗だ」「サッカーとは野蛮なスポーツだ」と論じてしまうことの無意味さ、滑稽さと通じるところがあります。一部の人々の思想や行為を、全体がそうであるかのように錯覚してしまう危険性がここにあります。  このことは、『五体不満足』を出版し、多くのメディアで発言する僕を見て、つまり、「障害者の一部に過ぎない」僕を見て、「障害者は誰しも前向きに生きられるはず」と、ほかの障害者にまで明るく振る舞うこと、努力することを求める人が多くいたこととも似ているかもしれません。  テロリストたちの卑劣な行為に対しては、絶対に許すことができません。どんな思想、どんな信条であれ、暴力によって他者の命を奪うことなど、あってはならないことです。ですが、今回の事件によってイスラム教やそれを信仰する人々への偏見が生まれないことを切に願っています。了


「わたしたち」を主語に

 衆院選が終わりました。選挙の前々日、みなさんに投票を呼びかけるため、こんなブログを書きました。みなさんが広めてくださったおかげで、若い世代を中心に多くの方から「この文章を読んで、選挙に行くことにしました」という声が寄せられました。本当に感謝しています。  ところが、フタをあけてみれば、投票率は59.32%。これは、戦後の衆院選で過去最低の数字なのだとか。Twitterなど、ネット上ではかなり「選挙に行くぞ」という気運の高まりを感じていたために期待していた部分もあったのですが、結果は期待外れ…というより、むしろ最悪の結果でした。  まだまだネット社会と社会全体には乖離があり、けっして「ネット上の声=世論」ではないということを強く感じました。でもね、だからといって、ネット上でメッセージを発信していくことをあきらめたわけではありません。僕らの声が、いつかネットの枠を超えて社会全体に届くことを信じて、僕はこれからも発信を続けていきます。  だからこそ、言いたいこと。昨夜は、日本テレビ系『ZERO×選挙2012』に翌朝4時まで生出演させていただいたのですが、そのなかで気になることが。それは、番組が20代、30代に対して行った「あなたは、今後、日本がよくなっていくと思いますか?」というアンケート。その結果について。  日本はよくなるか――「良くなる」22%、「悪くなる」33%、「変わらない」40%。この結果に、僕はなんだか複雑な気持ちになってしまった。もちろん、設問が違えば、まだ違った回答になったのかもしれない。それでも、僕はこの結果に、「社会というのは、だれかが良くしてくれるもの」という他者依存の意識が透けて見えた気がしたのだ。  そもそも選択肢になかったのかもしれないけれど、僕なら「良くする」と答える。「良くなる」でも、「悪くなる」でもなく、「良くする」。だれかが――ではなく、僕が、僕らが、この社会を、この国を良くしていくのだ。そうした意識と覚悟を持つことが、いま僕らに求められているのではないかと思うのだ。  もちろん、どんな社会を良しとし、そのためにはどんな手立てを講じるのがいいのか、そこは人によって意見が分かれることだろう。だが、そこについては大いに議論すればいい。まずは、一人ひとりが「どんな社会にしたい」と自分なりの思いを抱き、その思いを実現するために行動することが大事。  「え、いったい僕らにどんなことができるの?」  いきなり、「自分なりに考え、行動しろ」と言われても、戸惑ってしまう人も多いだろう。たとえば、友人・駒崎弘樹君のブログにもこんな記事があるので、参考にしてもらえたら。もちろん、ここに挙げられていないことでも、「僕らにできること」は山ほどあるはずだ。  社会を良くするのは、なにも政治家だけの仕事ではないはず。彼らは、社会をより良いものにしていく上で「政治」という役割を担っているだけで、僕らには僕らで、また異なる役割があるはずだ。選挙結果に希望を持ったり、落胆したり。そんな感情をひとしきり消化できたら、さあ、こんどは僕らの番!  政治家に対して、「あいつら、どうせ信用できない」と思っている人は多いと思う。ならば、自分を信じてみよう。他人に依存するのはやめにして、自分でできるかぎりの努力をしてみよう。政治家や、だれかが動いてくれるのを待つんじゃない。「わたし」を、「わたしたち」を主語にしようよ。


選挙に行かない君へ

 昨日、Twitter上で「#選挙に行かない理由」というハッシュタグをつけて意見を募集したところ、さまざまなご意見を寄せていただきました。回答してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みなさんの意見を読んでいて、僕にも思うところがあったので、少し長くなるかもしれないけれど、書かせてください。  みなさんも知ってのとおり、選挙というのは、政治家を選ぶためのもの。じゃあ、政治家というのは、そもそも何をするための人なのでしょう。わかりやすく言うと、「税金の使い道を決める人」。国民から集めた税金を、福祉に使うのか、教育に使うのか、はたまた国防に使うのか――そんなことを話し合い、決定するのが政治家の仕事です。  さらに、政治家は法律をつくったり、憲法を変えたりすることもできます。たとえば、いまの日本では、憲法によって戦争をすることができない状態にありますが、その憲法を改定し、いつでも戦争ができるようにすることもできます。それだけ、政治家の仕事というのは重大なものなのです。  さて、ここで昨日から寄せられたみなさんの意見に戻ってみましょう。まず、みなさんの声でいちばん多かったのは、「だれに入れたって同じ」「結局は何も変わらない」。たしかに、これまでの経験を振りかえると、そうした考えになってしまいますよね。期待しては裏切られ、また期待しては裏切られ――の繰り返し。でも、本当に「だれに入れても同じ」なのでしょうか。  たとえば、上でも述べたように、他国の言いなりにならぬよう、憲法を改正して、戦争ができる国にしようと考えている政党があります。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、憲法を変えてはならないと主張する政党もあります。これが、「同じ」と言えるでしょうか。憲法についてだけでなく、ほかの政策においても、各党によって大きな「ちがい」があります。  みなさんは、政権が代わることで、「がらっと世の中が良くなる」と妄信してはいないでしょうか。だから、そこまで大きな変化が感じられないと、「ほら、やっぱり何も変わらない」となる。でも、きちんと評価してみれば、変わった点だってある。今回、自民党から民主党に政権が移ったことで変わったこと、いくつもあるんですよ!  もちろん、それを「良い変化」ととらえるか、「悪い変化」ととらえるかは、個人によると思いますが、とにかく「何も変わらなかった」わけではない。その変化を望んだのは僕らだし、その変化を実現させたのも僕ら。僕ら一票、一票の積み重ねが、その変化を生みだしたのです。  次に多かった声は、「入れたいと思う政党や候補者がない」。とくに支持している特定の政党や候補者でもいないかぎり、たしかに僕たちの目には「政治家というのは、なんだか信用できない存在」と映ってしまいますよね。ですが、それはメディアによる影響も大きいと思うのです。  たとえば、僕には、いくつかの党にバッジをつけた数人の知人・友人がいますが、なかにはみずからの身を削り、まっとうな感覚を持って仕事をしていると感じられる議員がいます。もし、彼らが僕の選挙区にいたなら、僕はきっと彼らに投票するだろうと思います。  でも、僕はそんな彼らに対しても、全面的に賛同するということはないだろうと思っています。憲法改正やTPP、原発や経済、年金や教育、福祉――国政にはさまざまな局面があり、各党はそれぞれの課題についての意見を持っています。そのすべてが自分の意見と一致することなど、まずありえません。  だったら、せめて「いちばん考えの近い」候補者に託すしかないと思うのです。最近では、「日本政治.com」など、自分の考えにいちばん近い政党や候補者を見つけてくれるサイトもいくつか登場しています。これらのサイトを利用して、「いちばん考えの近い」候補者に一票を投じてみてはどうでしょうか。  それでも、「自分の思いを託したい」と思う政党・候補者が見つからないこともあるでしょう。そうした場合、「絶対にここだけはイヤだ」と思う政党・候補者以外に投票するという考え方はどうでしょう。僕も、今回の選挙はどこに、だれに投票するかかなり迷っています。ですが、ひとつだけ「絶対にイヤ」な政党があります。だから、その政党に少しでも対抗してくれそうな選択肢はどこかと、必死に頭をめぐらせています。  以前にも書きましたが、いまの政治は、おもに投票してくれる高齢者に向けた政策が重視されています。政治家もバカではないから、そんなことばかりしていたら国がパンクすることはわかっているのに、やっぱり票が欲しいから高齢者のほうばかり向きます。でもさ、このままだと、マジでやばいぜ。若者の負担、どんどん増えていくばかりだよ。 「どうせ変わらない」  たぶんね、今回の選挙結果だけでは、すぐに変わらない。みんなの言うとおりだよ。でも、安西先生も言ってたじゃん。 「あきらめたら、そこで試合終了ですよ…?」  若者にも政治に関心があること、若者も票を持ってることを、今回の選挙で少しでも見せてやろうぜ。そうしたら、少しずつ、政治家の目もこちらに向いてくる。若者にも目線を向けた政策を考えてくれるようになる。その次の選挙で、僕らはそうした候補に票を入れていく。そして、またその次の選挙で――。  すぐには、むずかしいと思う。でもさ、オレはあきらめたくない。だってさ、オレたちの国じゃん。無関心じゃいられないよ。「どうせ変わらないから、指くわえて見てろ」だって? 俺にはくわえる指もないからさ、こうやってあがいて、さけんで、勉強していくよ。  なんだか、最後には文体も変わっちゃった。まあ、いいや。少しでも、みんなにこのメッセージが届いたなら、うれしいな。


だるまの目入れは差別か

 「だるまの目入れは差別か」――http://t.co/mNlwAA0j 視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全という偏見意識を育てることにつながりかねない」というクレームがあったことで、選挙事務所からだるまが姿を消しつつあるという。  この記事を読んだ多くの方々の感想は、「考えすぎ」「そんな意図はないはず」。たしかに、だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、「ブラインドタッチ」「目が節穴」という言葉さえ使ってはならないのだとか。いずれは、「視野が広がる」なども使えなくなってしまうのだろうか。  これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。  障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。  だが、ここで忘れてはならない視点がある。彼らはなぜ、「それしきのことで」差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。そうした事柄に対する是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある。  僕はよく障害をネタにしたジョークをつぶやく。笑ってくださる方もいれば、凍りつく方もいる。なかには、「そんなこと笑いのネタにするものではない」とご立腹なさる方もいる。その反応は、様々だ。だが、こちらのまとめ( http://t.co/QIkUdX1g )を読んでいただければわかるように、僕は自分の障害を“負”だととらえていない。僕自身はみずからの障害について、ただの特徴だと思っているから、「それにいちいち目くじらを立てられても……」と困惑するのだ。  しかし、僕がそう思えるのは、僕にとって障害はただの特徴で、けっして“負”ではないと思えるのは、その生い立ちが大きく影響しているように思う。『五体不満足』をお読みの方はご存じのとおり、僕はいじめを受けたこともなければ、障害によって大きな制限を受けたこともない。両親に愛され、健常者とともに楽しく過ごし、成長してきた。そこには様々な理由があるだろうが、結果として僕は障害を“負”と感じることなく、むしろそれを笑い飛ばすようになった。  だが、そうした障害者ばかりではない。いや、むしろ、僕のように恵まれた環境で育った障害者は少数派かもしれない。親にも受け入れられず、幼少期にいじめに遭い、苦しみとともに育ってきた方に、「乙武のように障害なんて笑い飛ばせ」と言っても無理があるし、僕らが「それしきのこと」と感じることにも敏感に反応したり、「やめてくれ」と思ってしまうその感情も、無理からぬことかもしれない。  「いやだ」という人に、「そんなの気にしすぎだ」と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。そして、幼少期に「障害がある」という理由だけでつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい。  「だるまの目入れは差別か?」という記事から、ずいぶん長くなってしまいました。みなさんにとっての考えるきっかけとなれば幸いです。以上、エロだるまがお送りしました。


開園のお知らせ

 お知らせ  昨年4月1日、地域の方々とともにこどもたちを見守り、育てていくことをコンセプトに「まちの保育園 小竹向原」を開園した私たちですが、来る12月1日、東京都港区六本木一丁目に、私たちが運営する新しい「まちの保育園」を開くこととなりました。50人定員の認可保育所となります。  開園する六本木一丁目エリアは、日本で初めての私立美術館ができた場所であり、大使館が多く、文化的且つ、国際的なエリアです。また、いわゆる“六本木”と呼ばれるにぎやかなエリアとは雰囲気が異なり、緑豊かで落ち着いた場所であり、子育てにも適した環境ではないかと考えました。今回、港区や森ビル様との素晴らしいご縁をいただいたことにより、私たちにとって初となる認可保育所として、“まちの保育”を実践できる機会をいただけたことを大変うれしく思っています。  新たに開園する「まちの保育園 六本木」でも、小竹向原で培ってきた経験をもとに、これまで同様の理念・方針で保育実践を組み立てていきたいと思います。また、近隣住民の方々との交流に加えて、地域の特性を生かし、大使館や近隣文化施設・商業施設との連携、オフィスワーカーとの取り組みなどを視野に入れていきたいと考えています。  まずは、こども・保育者・家庭を中心としたコミュニティをしっかり築きあげ、そこから具体的な実践へと取り組んでいく所存です。今後とも、“まちの保育”に対するご支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。 園名:「まちの保育園 六本木」(http://machihoiku.jp/) 住所:東京都港区六本木一丁目9番10号アークヒルズ仙石山森タワー1階/定員50名)                       ナチュラルスマイルジャパン株式会社                             代表取締役 松本理寿輝 取締役 乙武洋匡


愛情のパイプ、詰まっていませんか?

 新刊『ありがとう3組』を書いた理由として、前作には盛り込めなかった「発達障害」と「親子の関係」という2つの事柄について伝えたかったことは昨日触れた。発達障害についてはすでに「ストライクゾーンという幻想」にまとめたので、今日は「親子の関係」について。  小学校教員を3年間経験して、皮肉にも感じたのは「やっぱり家庭が大事」ということ。学校での言動に顕著な変化のあった子に話を聞いてみると、家庭で何らかの環境の変化があったケースがほとんど。大人から見ればささいに思えるようなことでも、子どもたちは大きく精神的なバランスを崩していた。  愛情に包まれ、安定した家庭のなかで育つ子もいれば、親自身が自分のことで精いっぱいで、子どもに愛情が向けられていない家庭もあった。そうした機能不全とも言える家庭のなかで育つ子どもは、どこか不安定だったり、自分に自信が持てなかったり。スタートラインでの不平等さを痛感させられた。  だが、それ以上にもどかしく感じたのは、「親の愛情がうまく伝わっていない」ことだった。そして、このケースがいちばん多いのも事実だった。「ねえ、好きって言ってよ」「バカ、言わなくてもわかるだろ」――こうした「言わなくてもわかる」という文化は、恋愛にかぎらず、親子間にも存在する。  教師という立場で、家庭が抱える問題を解決することは難しい。だが、親子の間をつなぐ“愛情”というパイプの詰まりを掃除し、流れをよくすることならできる。子どもを愛していないなら仕方ないが、そこに愛があるのに伝わっていないのはもどかしい。僕は、あらゆる手立てでパイプ掃除役に徹した。  『ありがとう3組』でも、主人公・赤尾はねじれた親子関係を目の当たりにして苦悩する。そうした親子の問題に直面するうち、赤尾は自分自身の親とも向き合うこととなる。それは、赤尾の物語であり、僕の物語でもあった。最終章は、小説ではなく、ノンフィクションを書いている感覚に近かった。  子育て中のみなさん、「言わなくてもわかる」と、愛を伝えることをサボっていませんか? 「私は愛されてこなかった」と感じているみなさん、それはうまく伝わっていなかっただけではないですか? 照れや、意地や、思い込み――そんなつまらないものが愛情のパイプを詰まらせてはないでしょうか。  「親子」という関係を経験せずにきた人など、だれもいない。きっと、『ありがとう3組』のなかで赤尾とともに「親子問題」の解決に奔走していくことで、おのずと自分自身の親子関係を見つめ直すことになる。書いている僕自身が、そうだったように。それが、今回のタイトルにもつながってくる。  前作『だいじょうぶ3組』では、学校における問題を描くだけで手いっぱいだった。でも、子どもの育ちを語る上で、家庭を、親子の関係を無視するわけにはいかない。だから、今作ではどうしてもそのことを軸に据えたかった。この物語を通じて、いま一度、みなさんにもご自身の親子関係を振り返っていただければ。


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