OTO ZONE

Oto’s Mail

武田双雲さん

書道家・武田双雲さんと。


心のフィルター

Twitterで何気ない行動をつぶやくたび、 「乙武さん、○○はどうやってするの?」という質問が相次ぐ。 「食事に行った」と書けば、「どうやって食事を?」 「カラオケに行った」と書けば、「どうやってマイクを?」 それも少数派ではなく、かなり多くの質問ツイートが届く。 べつに、僕はこうした質問を受けることが苦ではないし、 できるかぎり答えていきたいとは思っている。 先日も、「どうやってシリーズ」と題して、みなさんから 多く集まる質問に、写真付きでお答えしたばかりだ。 ただ、そうしたみなさんからの質問に、ひとつ引っかかることが。 「その質問、あなたは面と向かってもできますか?」 実生活でも、仕事・プライベートを通じて様々な方とお会いするが、 上記のような質問を受けることはほとんどない。 聞いてくるのは、子どもか、よっぽど無邪気なキャラの人だ。 じゃあ、なぜ大人は聞いてこないのか。 「そんなこと聞いたら、失礼かな…」 おそらく、障害のある僕を目の前に、そんな意識が働くのだろう。 もちろん、僕に何度かあったことがある友人・知人であれば、 僕がどうやって身の回りのことをするのか知っているだろうから、 「どうやって…」という質問をする必要がないのはわかる。 でも、初対面の方や、講演会での質問タイムでも、 「どうやって…」と聞かれることは、まずない。 おそらく、そこには“遠慮”があるのだろう。 なのに、それがTwitterとなると、多くの方から、 「乙武さんは、どうやって…」という質問が多く寄せられる。 なぜか。 そこに、「顔が見えないから、いいか」という意識はないだろうか。 面と向かってなら気を遣って言わないようなことも、 ネット上で、顔の見えない相手ならば言えてしまう。 つまり、「こんなこと言ったら、失礼かな…」というフィルターが、 ネット上ではいとも簡単に外れているように感じるのだ。 さっきも書いたように、僕はこうした質問を失礼だとは思わない。 ただ、気軽なやりとりだからこそ、相手との距離感を見誤り、 相手がこのコメントを読んだらどう思うだろうという配慮を欠くと、 いとも簡単に相手を傷つけてしまうのではないかと思ったのだ。 便利で、手軽に楽しめるインターネットだからこそ。 「心のフィルター」、いま一度、確認してみませんか。 僕も、自戒の念を込めて。


内川選手&長野アナ

内川聖一選手&長野翼アナ、ご結婚おめでとうございます!!


金メダル!!

サッカー女子日本代表・澤穂希選手、おめでとう!!


桜の木の下で

東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、担任していた子どもたちとの別れをつづった 第12回「桜の木の下で」をお送りします!   第12回『桜の木の下で』 素直な子どもたち。理解ある保護者の方々。「車いすに乗った手足のない教師」という異質な存在を、高円寺の街はあたたかく受け入れてくれた。 いよいよ退職の日を迎えた3月31日。子どもたちはすでに春休み。学校には教職員しかいない。ロッカーや机上の荷物整理を終え、ちょっぴり感傷的な気持ちになりながら職員室を出ようとしたそのとき、校庭側の窓ががらりと開き、そこからふたりの少女が顔をのぞかせている。 「先生、ちょっと校庭まで出てきてよ。早く、早く!」 あわてて車いすを校庭まで走らせると、なんとそこには2年間受け持った子どもたちと、その保護者の方々が待ち受けていた。驚きで目を丸くする僕を、あたたかな笑顔がぐるりと取り囲む。 「先生、2年間、本当にお世話になりました!」 「いや、先生のほうこそ、ありがとう。みんなと過ごした毎日、本当に楽しかったよ!」 校庭の隅では、ただ一本だけ植えられた桜の木が、4月の声を待ちきれずにその蕾を開いている。僕らはその薄紅色の屏風をバックに記念撮影をした。 うれしかったこと。苦しかったこと。子どもたちが校門まで見送ってくれるその間、3年間で経験したすべてが、走馬灯のようによみがえってくる。杉並区と契約した3年という年月は、過ぎてしまえばあっという間だった。もっと続けたいという後ろ髪ひかれる思いももちろんあったが、同時に教育現場で得た貴重な経験を伝えていきたいとの思いもあった。 今月出版された『だいじょうぶ3組』(講談社)は、そんな子どもたちと向き合った3年間の思いを、たっぷりと詰め込んで描いた初の小説だ。ご一読いただき、感想などいただければ幸いだ。


バンド練習

2週間に一度くらいのペースでゆるーく活動中♪


オトフォン

東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、教員時代の保護者との思い出をつづった 第11回「オトフォン」をお送りします!   第11回『オトフォン』 以前から教育に深い関心があった僕は、スポーツライターから小学校教師へと転身することを志した。手足のない人間の「教員になりたい」という非常識な願いを叶えてくれたのが杉並区。「3年間の任期付き」という条件で僕を採用してくれたのだ。赴任先は杉並区立杉並第四小学校。JR高円寺駅から徒歩5分ほど。ねじめ正一氏の直木賞受賞作『高円寺純情商店街』の舞台にもなっている街だ。 教員2年目、初めて担任を任された。3年2組。このかわいらしい23人の子どもたちをよりよい方向に導いていくには保護者との信頼関係が不可欠と考えた僕は、その手法について考えをめぐらせた。結果、「ブッチホン(小渕元首相による唐突な電話)」ならぬ「オトフォン」をかけまくることにした。 担任から電話がかかってくるとなれば、何か子どもがトラブルを起こしたときと相場が決まっている。ところが、僕は子どものことを褒めるために電話をかけまくった。 「今日の体育の時間、○○ちゃん、ずっと苦手な逆上がりの練習をしていたんですよ」 「○○君、いつもは引っ込み思案なのに、今日は△△委員に立候補してくれたんです」 最後まで逆上がりができなくてもいい。投票の結果、委員が別の子に決まったっていい。たとえ結果に結びつかなくても、その子の頑張りを評価してあげたいし、親としても通知表で示される数値だけでなく、わが子のそうした頑張りを知りたいと思うのだ。 初めのうちこそ「え、ウチの子が何かしたのでは……」と戸惑っていた保護者の方々も、次第に「オトフォン」を楽しみにしてくださるようになっていった。車いす先生は、こうして高円寺の街との関係を深めていった。


救われた命

東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、長男誕生までの思い出をつづった 第10回「救われた命」をお送りします!   第10回『救われた命』 梅の名所として知られる、世田谷区立羽根木公園。その南西に広がる閑静な住宅街が梅丘だ。仕事の都合により、この街に転居することになって一ヵ月。妻のおなかに命が宿っていることがわかった。結婚7年目のことだった。 それは僕ら夫婦にとって、「待望の」なんていう言葉では表せないほどに大きなよろこびだったが、いざ妊娠してみると、決して手放しではよろこべない状況だということがわかってきた。妊娠中は、決して重いものを持ってはいけないというのだ。それまで入浴やトイレなど、僕に関するすべての介助を妻が担ってきた。重いものを持ってはいけない、つまり、僕のことを抱えてはいけないとなれば、僕らの生活は成り立たなくなってしまう――。 そんなピンチを救ってくれたのが、僕の友人たちだった。毎晩、入れ替わり立ち替わり梅丘にあるわが家を訪れては、身重の妻に代わり、僕を抱えて風呂に入れてくれたのだ。なかにはベロベロに酔っ払いながらも、「今日はオレの番だから」と介助に来てくれた友人までいた。彼らの助けがなかったら、おなかにいる子どもは大きな危険にさらされていたかもしれない。 だから、その数ヵ月後、長男が無事に誕生してきてくれたときには、こう思ったのだ。 「この子は僕ら夫婦の思いだけでなく、ここまで支えてくれた多くの人の思いを受けて生まれてきてくれたのだ。この命、大切に、大切に育てていかなければ――」 その後、僕らは「やっぱり祖父母のサポートが得やすい場所に引っ越したほうがいいだろう」との理由から、わずか4ヶ月半でこの梅丘を離れてしまった。だが、いまでもこの街を訪れると、当時の記憶が鮮明によみがえってくる。友人への感謝の思いとともに。


歌舞伎町の教育者

東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、歌舞伎町を舞台に活躍する親友への思いをつづった 第9回「歌舞伎町の教育者」をお送りします!   第9回『歌舞伎町の教育者』 親友・手塚真輝が歌舞伎町で経営するホストクラブへは、週一回ほどのペースで飲みに行くようになった。ホストというと世間では眉をひそめられるような存在だが、彼の店の従業員はどの子も礼儀正しく、清々しさを感じさせた。 「ホストなんてそう長くやれる職業じゃない。だから、せめて僕の店にいる間に、社会人としてしっかり仕事ができるような人材として社会へと送り出してあげることが僕の役目なのかなって」 だが、それぞれ地元でワルだったような青年たち。そうひと筋縄でいくような相手ではない。手塚は知恵を絞った。 「ワルって、目立ちたいからわざと他の人と違うことをするんですよ。でも、歌舞伎町にはそんな人種ばかりが集まっている。だから、『いままで通りにしていたら、まったく目立たなくなるぞ』と言って脅したんです」 効果はてきめんだった。時間を守る。挨拶をする。掃除をする――これまでできなかった「当たり前のこと」が次第にできるようになってきた。その後、小学校の教師として十歳前後の子どもたちと向き合うことになる僕と、ホストクラブのオーナーとして二十歳過ぎの若者たちと向き合う手塚。立場こそ違えど、「教育」に興味のある者同士、大いに語り合った。 この夏、彼の店の従業員はそろってソムリエ試験を受けた。「ホストクラブにソムリエがいたらカッコイイ」という手塚の思惑もあったが、もちろん、それだけではない。 「ほとんどの子が、勉強から逃げてこの歌舞伎町という街に流れてきた。そんな彼らに、自分を奮い立たせて勉強するという経験をさせてあげたかったんです」 最終結果が出るのは、今秋。彼の店から、いったい何人のソムリエが誕生するだろう。 ※見事、6人の合格者が誕生しました!


夜鳥の界

東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、歌舞伎町で活躍する親友との出会いについてつづった 第8回「夜鳥の界」をお送りします!   第8回『夜鳥の界』 日本一とも言われる新宿・歌舞伎町。ネオンがきらびやかに輝く、眠らない街。多くの飲食店や風俗店とともに、この街のあちこちに看板を出しているのがホストクラブだ。じつは数年前から、僕はこっそりホストクラブ通いをしている。というのも、僕の親友が歌舞伎町でホストクラブのオーナーを務めているのだ。 手塚真輝と出会ったのは、いまから6年近く前のこと。自身もテレビ出演するほどに人気のあるカリスマホストだった手塚だが、25歳のときに独立し、ホストクラブ『スマッパ!』を開店。みずから従業員を抱える身となった。以来、ホストクラブ3軒、バー5軒を新規開店。経営者としての手腕もなかなかのものだが、彼の本当の魅力は、そのユニークな社会的活動にある。 2004年に起こった新潟県中越地震。手塚はタクシーを飛ばして新潟県庁まで駆けつけると、ぽんと百万円を寄付した。「目立ってやろう」との思いからだったが、その後訪れた被災者が集まる体育館で、「本当にありがとね」と涙ながらに手を握られ、目が覚めた。 「いままでホストなんて何をやっても認められるはずないと思っていたけど、ホストという職業をいちばん色眼鏡で見ていたのは僕自身だったのかもしれない」 東京に戻ると、手塚はボランティア団体を立ち上げた。『夜鳥の界』――月一回、スーツ姿でキメたホストたちが深夜の歌舞伎町を清掃する活動は、すぐに話題となった。 「おまえたちがこの街のゴミだ、なんて言葉を聞かされたこともある。それでも、僕にはこの街に育ててもらったという感謝の思いがあるから」 そんな思いを熱く語ってくれた手塚とは、年も一つしか離れていないこともあり、すぐに意気投合。毎週のように酒を飲む間柄となった。


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