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イスラム教は悪?

 アルジェリア人質事件。日本人7名を含む人質37名の死亡が確認されました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、まだ安否のわかっていない方々の無事を祈るばかりです。自分たちの主張を通すために無関係の人々の命を脅かし、奪うという非道な手法に、激しい憤りを覚えます。  一方で気になるのは、ただでさえ日本人にとってなじみが薄く、「なんだかよくわからない宗教」と位置づけられてしまっているイスラム教に対する偏見や嫌悪感が、今回の事件を機に、より増長されてしまうのではないかということです。それは絶対にあってはならないことだし、避けなければならない。  じつは、先週まで北アフリカにあるモロッコという国に一週間ほど滞在していました。今回の事件が起こったアルジェリアのすぐとなりにある国です。モロッコに住むほとんどの人々は、イスラム教徒。でも、彼らはやさしく、穏やかで、車いすで旅する異邦人の僕に、とても親切に接してくれました。  もともとイスラム教は戒律に対して厳格な国が多く、人々は理性を保つためにアルコールは口にせず、また盗みが大罪であるという意識が強いことから、窃盗事件も起こりにくいと聞きます。実際、モロッコでもスリなどの被害に遭う観光客は少なく、僕もその点では欧州より安心して過ごしていました。  しかし、なかにはイスラム復興主義(一般的には原理主義)という思想を信仰している人々もいます。これは、現在のイスラム世界は教典『クルアーン(コーラン)』に基づいたものではなく、原点回帰すべきだとする考え方です。そのため、近代的または西洋的な価値観とは相容れない面も大きい。  この自分たちが理想とする伝統的なイスラム社会を実現するために、暴力や破壊的活動を行う人々がいます。これが、イスラム過激派と呼ばれる人々です。つまり、今回の事件を起こしているのは、「イスラム教徒」のなかの「イスラム復興主義者」のなか「過激派」という、ごく一部の人々なのです。  こうした背景を押さえることなく、メディアが、そして僕らが「イスラム勢力によるテロ」と単純化して表現してしまうことで、あたかもイスラム教そのものが危険な思想であるかのような誤解を与えてしまうとともに、イスラム教を信仰する人々への差別や偏見を生みだしてしまいかねません。  それは、サッカーの試合会場で暴力的行為を行うフーリガンを指して、「サッカーファンは低俗だ」「サッカーとは野蛮なスポーツだ」と論じてしまうことの無意味さ、滑稽さと通じるところがあります。一部の人々の思想や行為を、全体がそうであるかのように錯覚してしまう危険性がここにあります。  このことは、『五体不満足』を出版し、多くのメディアで発言する僕を見て、つまり、「障害者の一部に過ぎない」僕を見て、「障害者は誰しも前向きに生きられるはず」と、ほかの障害者にまで明るく振る舞うこと、努力することを求める人が多くいたこととも似ているかもしれません。  テロリストたちの卑劣な行為に対しては、絶対に許すことができません。どんな思想、どんな信条であれ、暴力によって他者の命を奪うことなど、あってはならないことです。ですが、今回の事件によってイスラム教やそれを信仰する人々への偏見が生まれないことを切に願っています。了


「わたしたち」を主語に

 衆院選が終わりました。選挙の前々日、みなさんに投票を呼びかけるため、こんなブログを書きました。みなさんが広めてくださったおかげで、若い世代を中心に多くの方から「この文章を読んで、選挙に行くことにしました」という声が寄せられました。本当に感謝しています。  ところが、フタをあけてみれば、投票率は59.32%。これは、戦後の衆院選で過去最低の数字なのだとか。Twitterなど、ネット上ではかなり「選挙に行くぞ」という気運の高まりを感じていたために期待していた部分もあったのですが、結果は期待外れ…というより、むしろ最悪の結果でした。  まだまだネット社会と社会全体には乖離があり、けっして「ネット上の声=世論」ではないということを強く感じました。でもね、だからといって、ネット上でメッセージを発信していくことをあきらめたわけではありません。僕らの声が、いつかネットの枠を超えて社会全体に届くことを信じて、僕はこれからも発信を続けていきます。  だからこそ、言いたいこと。昨夜は、日本テレビ系『ZERO×選挙2012』に翌朝4時まで生出演させていただいたのですが、そのなかで気になることが。それは、番組が20代、30代に対して行った「あなたは、今後、日本がよくなっていくと思いますか?」というアンケート。その結果について。  日本はよくなるか――「良くなる」22%、「悪くなる」33%、「変わらない」40%。この結果に、僕はなんだか複雑な気持ちになってしまった。もちろん、設問が違えば、まだ違った回答になったのかもしれない。それでも、僕はこの結果に、「社会というのは、だれかが良くしてくれるもの」という他者依存の意識が透けて見えた気がしたのだ。  そもそも選択肢になかったのかもしれないけれど、僕なら「良くする」と答える。「良くなる」でも、「悪くなる」でもなく、「良くする」。だれかが――ではなく、僕が、僕らが、この社会を、この国を良くしていくのだ。そうした意識と覚悟を持つことが、いま僕らに求められているのではないかと思うのだ。  もちろん、どんな社会を良しとし、そのためにはどんな手立てを講じるのがいいのか、そこは人によって意見が分かれることだろう。だが、そこについては大いに議論すればいい。まずは、一人ひとりが「どんな社会にしたい」と自分なりの思いを抱き、その思いを実現するために行動することが大事。  「え、いったい僕らにどんなことができるの?」  いきなり、「自分なりに考え、行動しろ」と言われても、戸惑ってしまう人も多いだろう。たとえば、友人・駒崎弘樹君のブログにもこんな記事があるので、参考にしてもらえたら。もちろん、ここに挙げられていないことでも、「僕らにできること」は山ほどあるはずだ。  社会を良くするのは、なにも政治家だけの仕事ではないはず。彼らは、社会をより良いものにしていく上で「政治」という役割を担っているだけで、僕らには僕らで、また異なる役割があるはずだ。選挙結果に希望を持ったり、落胆したり。そんな感情をひとしきり消化できたら、さあ、こんどは僕らの番!  政治家に対して、「あいつら、どうせ信用できない」と思っている人は多いと思う。ならば、自分を信じてみよう。他人に依存するのはやめにして、自分でできるかぎりの努力をしてみよう。政治家や、だれかが動いてくれるのを待つんじゃない。「わたし」を、「わたしたち」を主語にしようよ。


選挙に行かない君へ

 昨日、Twitter上で「#選挙に行かない理由」というハッシュタグをつけて意見を募集したところ、さまざまなご意見を寄せていただきました。回答してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みなさんの意見を読んでいて、僕にも思うところがあったので、少し長くなるかもしれないけれど、書かせてください。  みなさんも知ってのとおり、選挙というのは、政治家を選ぶためのもの。じゃあ、政治家というのは、そもそも何をするための人なのでしょう。わかりやすく言うと、「税金の使い道を決める人」。国民から集めた税金を、福祉に使うのか、教育に使うのか、はたまた国防に使うのか――そんなことを話し合い、決定するのが政治家の仕事です。  さらに、政治家は法律をつくったり、憲法を変えたりすることもできます。たとえば、いまの日本では、憲法によって戦争をすることができない状態にありますが、その憲法を改定し、いつでも戦争ができるようにすることもできます。それだけ、政治家の仕事というのは重大なものなのです。  さて、ここで昨日から寄せられたみなさんの意見に戻ってみましょう。まず、みなさんの声でいちばん多かったのは、「だれに入れたって同じ」「結局は何も変わらない」。たしかに、これまでの経験を振りかえると、そうした考えになってしまいますよね。期待しては裏切られ、また期待しては裏切られ――の繰り返し。でも、本当に「だれに入れても同じ」なのでしょうか。  たとえば、上でも述べたように、他国の言いなりにならぬよう、憲法を改正して、戦争ができる国にしようと考えている政党があります。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、憲法を変えてはならないと主張する政党もあります。これが、「同じ」と言えるでしょうか。憲法についてだけでなく、ほかの政策においても、各党によって大きな「ちがい」があります。  みなさんは、政権が代わることで、「がらっと世の中が良くなる」と妄信してはいないでしょうか。だから、そこまで大きな変化が感じられないと、「ほら、やっぱり何も変わらない」となる。でも、きちんと評価してみれば、変わった点だってある。今回、自民党から民主党に政権が移ったことで変わったこと、いくつもあるんですよ!  もちろん、それを「良い変化」ととらえるか、「悪い変化」ととらえるかは、個人によると思いますが、とにかく「何も変わらなかった」わけではない。その変化を望んだのは僕らだし、その変化を実現させたのも僕ら。僕ら一票、一票の積み重ねが、その変化を生みだしたのです。  次に多かった声は、「入れたいと思う政党や候補者がない」。とくに支持している特定の政党や候補者でもいないかぎり、たしかに僕たちの目には「政治家というのは、なんだか信用できない存在」と映ってしまいますよね。ですが、それはメディアによる影響も大きいと思うのです。  たとえば、僕には、いくつかの党にバッジをつけた数人の知人・友人がいますが、なかにはみずからの身を削り、まっとうな感覚を持って仕事をしていると感じられる議員がいます。もし、彼らが僕の選挙区にいたなら、僕はきっと彼らに投票するだろうと思います。  でも、僕はそんな彼らに対しても、全面的に賛同するということはないだろうと思っています。憲法改正やTPP、原発や経済、年金や教育、福祉――国政にはさまざまな局面があり、各党はそれぞれの課題についての意見を持っています。そのすべてが自分の意見と一致することなど、まずありえません。  だったら、せめて「いちばん考えの近い」候補者に託すしかないと思うのです。最近では、「日本政治.com」など、自分の考えにいちばん近い政党や候補者を見つけてくれるサイトもいくつか登場しています。これらのサイトを利用して、「いちばん考えの近い」候補者に一票を投じてみてはどうでしょうか。  それでも、「自分の思いを託したい」と思う政党・候補者が見つからないこともあるでしょう。そうした場合、「絶対にここだけはイヤだ」と思う政党・候補者以外に投票するという考え方はどうでしょう。僕も、今回の選挙はどこに、だれに投票するかかなり迷っています。ですが、ひとつだけ「絶対にイヤ」な政党があります。だから、その政党に少しでも対抗してくれそうな選択肢はどこかと、必死に頭をめぐらせています。  以前にも書きましたが、いまの政治は、おもに投票してくれる高齢者に向けた政策が重視されています。政治家もバカではないから、そんなことばかりしていたら国がパンクすることはわかっているのに、やっぱり票が欲しいから高齢者のほうばかり向きます。でもさ、このままだと、マジでやばいぜ。若者の負担、どんどん増えていくばかりだよ。 「どうせ変わらない」  たぶんね、今回の選挙結果だけでは、すぐに変わらない。みんなの言うとおりだよ。でも、安西先生も言ってたじゃん。 「あきらめたら、そこで試合終了ですよ…?」  若者にも政治に関心があること、若者も票を持ってることを、今回の選挙で少しでも見せてやろうぜ。そうしたら、少しずつ、政治家の目もこちらに向いてくる。若者にも目線を向けた政策を考えてくれるようになる。その次の選挙で、僕らはそうした候補に票を入れていく。そして、またその次の選挙で――。  すぐには、むずかしいと思う。でもさ、オレはあきらめたくない。だってさ、オレたちの国じゃん。無関心じゃいられないよ。「どうせ変わらないから、指くわえて見てろ」だって? 俺にはくわえる指もないからさ、こうやってあがいて、さけんで、勉強していくよ。  なんだか、最後には文体も変わっちゃった。まあ、いいや。少しでも、みんなにこのメッセージが届いたなら、うれしいな。


だるまの目入れは差別か

 「だるまの目入れは差別か」――http://t.co/mNlwAA0j 視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全という偏見意識を育てることにつながりかねない」というクレームがあったことで、選挙事務所からだるまが姿を消しつつあるという。  この記事を読んだ多くの方々の感想は、「考えすぎ」「そんな意図はないはず」。たしかに、だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、「ブラインドタッチ」「目が節穴」という言葉さえ使ってはならないのだとか。いずれは、「視野が広がる」なども使えなくなってしまうのだろうか。  これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。  障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。  だが、ここで忘れてはならない視点がある。彼らはなぜ、「それしきのことで」差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。そうした事柄に対する是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある。  僕はよく障害をネタにしたジョークをつぶやく。笑ってくださる方もいれば、凍りつく方もいる。なかには、「そんなこと笑いのネタにするものではない」とご立腹なさる方もいる。その反応は、様々だ。だが、こちらのまとめ( http://t.co/QIkUdX1g )を読んでいただければわかるように、僕は自分の障害を“負”だととらえていない。僕自身はみずからの障害について、ただの特徴だと思っているから、「それにいちいち目くじらを立てられても……」と困惑するのだ。  しかし、僕がそう思えるのは、僕にとって障害はただの特徴で、けっして“負”ではないと思えるのは、その生い立ちが大きく影響しているように思う。『五体不満足』をお読みの方はご存じのとおり、僕はいじめを受けたこともなければ、障害によって大きな制限を受けたこともない。両親に愛され、健常者とともに楽しく過ごし、成長してきた。そこには様々な理由があるだろうが、結果として僕は障害を“負”と感じることなく、むしろそれを笑い飛ばすようになった。  だが、そうした障害者ばかりではない。いや、むしろ、僕のように恵まれた環境で育った障害者は少数派かもしれない。親にも受け入れられず、幼少期にいじめに遭い、苦しみとともに育ってきた方に、「乙武のように障害なんて笑い飛ばせ」と言っても無理があるし、僕らが「それしきのこと」と感じることにも敏感に反応したり、「やめてくれ」と思ってしまうその感情も、無理からぬことかもしれない。  「いやだ」という人に、「そんなの気にしすぎだ」と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。そして、幼少期に「障害がある」という理由だけでつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい。  「だるまの目入れは差別か?」という記事から、ずいぶん長くなってしまいました。みなさんにとっての考えるきっかけとなれば幸いです。以上、エロだるまがお送りしました。


開園のお知らせ

 お知らせ  昨年4月1日、地域の方々とともにこどもたちを見守り、育てていくことをコンセプトに「まちの保育園 小竹向原」を開園した私たちですが、来る12月1日、東京都港区六本木一丁目に、私たちが運営する新しい「まちの保育園」を開くこととなりました。50人定員の認可保育所となります。  開園する六本木一丁目エリアは、日本で初めての私立美術館ができた場所であり、大使館が多く、文化的且つ、国際的なエリアです。また、いわゆる“六本木”と呼ばれるにぎやかなエリアとは雰囲気が異なり、緑豊かで落ち着いた場所であり、子育てにも適した環境ではないかと考えました。今回、港区や森ビル様との素晴らしいご縁をいただいたことにより、私たちにとって初となる認可保育所として、“まちの保育”を実践できる機会をいただけたことを大変うれしく思っています。  新たに開園する「まちの保育園 六本木」でも、小竹向原で培ってきた経験をもとに、これまで同様の理念・方針で保育実践を組み立てていきたいと思います。また、近隣住民の方々との交流に加えて、地域の特性を生かし、大使館や近隣文化施設・商業施設との連携、オフィスワーカーとの取り組みなどを視野に入れていきたいと考えています。  まずは、こども・保育者・家庭を中心としたコミュニティをしっかり築きあげ、そこから具体的な実践へと取り組んでいく所存です。今後とも、“まちの保育”に対するご支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。 園名:「まちの保育園 六本木」(http://machihoiku.jp/) 住所:東京都港区六本木一丁目9番10号アークヒルズ仙石山森タワー1階/定員50名)                       ナチュラルスマイルジャパン株式会社                             代表取締役 松本理寿輝 取締役 乙武洋匡


愛情のパイプ、詰まっていませんか?

 新刊『ありがとう3組』を書いた理由として、前作には盛り込めなかった「発達障害」と「親子の関係」という2つの事柄について伝えたかったことは昨日触れた。発達障害についてはすでに「ストライクゾーンという幻想」にまとめたので、今日は「親子の関係」について。  小学校教員を3年間経験して、皮肉にも感じたのは「やっぱり家庭が大事」ということ。学校での言動に顕著な変化のあった子に話を聞いてみると、家庭で何らかの環境の変化があったケースがほとんど。大人から見ればささいに思えるようなことでも、子どもたちは大きく精神的なバランスを崩していた。  愛情に包まれ、安定した家庭のなかで育つ子もいれば、親自身が自分のことで精いっぱいで、子どもに愛情が向けられていない家庭もあった。そうした機能不全とも言える家庭のなかで育つ子どもは、どこか不安定だったり、自分に自信が持てなかったり。スタートラインでの不平等さを痛感させられた。  だが、それ以上にもどかしく感じたのは、「親の愛情がうまく伝わっていない」ことだった。そして、このケースがいちばん多いのも事実だった。「ねえ、好きって言ってよ」「バカ、言わなくてもわかるだろ」――こうした「言わなくてもわかる」という文化は、恋愛にかぎらず、親子間にも存在する。  教師という立場で、家庭が抱える問題を解決することは難しい。だが、親子の間をつなぐ“愛情”というパイプの詰まりを掃除し、流れをよくすることならできる。子どもを愛していないなら仕方ないが、そこに愛があるのに伝わっていないのはもどかしい。僕は、あらゆる手立てでパイプ掃除役に徹した。  『ありがとう3組』でも、主人公・赤尾はねじれた親子関係を目の当たりにして苦悩する。そうした親子の問題に直面するうち、赤尾は自分自身の親とも向き合うこととなる。それは、赤尾の物語であり、僕の物語でもあった。最終章は、小説ではなく、ノンフィクションを書いている感覚に近かった。  子育て中のみなさん、「言わなくてもわかる」と、愛を伝えることをサボっていませんか? 「私は愛されてこなかった」と感じているみなさん、それはうまく伝わっていなかっただけではないですか? 照れや、意地や、思い込み――そんなつまらないものが愛情のパイプを詰まらせてはないでしょうか。  「親子」という関係を経験せずにきた人など、だれもいない。きっと、『ありがとう3組』のなかで赤尾とともに「親子問題」の解決に奔走していくことで、おのずと自分自身の親子関係を見つめ直すことになる。書いている僕自身が、そうだったように。それが、今回のタイトルにもつながってくる。  前作『だいじょうぶ3組』では、学校における問題を描くだけで手いっぱいだった。でも、子どもの育ちを語る上で、家庭を、親子の関係を無視するわけにはいかない。だから、今作ではどうしてもそのことを軸に据えたかった。この物語を通じて、いま一度、みなさんにもご自身の親子関係を振り返っていただければ。


ストライクゾーンという幻想

 新刊『ありがとう3組』が、ついに発売となりました。なぜ、映画化まで決まった『だいじょうぶ3組』の続編を書こうと思ったのか。それは、前作にはどうしても盛り込めなかった内容が2つあったから。ひとつは、「発達障害」。ひとつは、「親子の関係」。今日は、「発達障害」について書いてみたいと思います。  まずは、こちらをお読みください。「発達障害について、正しい認識を(http://togetter.com/li/297720)」――これは今年5月、大阪維新の会による家庭教育支援条例(案)に対して僕が感じた疑問と、発達障害の当事者やご家族の方々からのコメントをまとめたものです。  お読みいただいてわかるように、いまの日本の社会において、発達障害に対する正しい理解・認識はそれほど高くありません。それだけに、その当事者やご家族は、この社会にかなりの息苦しさ、生きづらさを抱えていることでしょう。それは、僕が3年間の教員生活のなかでも、強く感じていたことです。   現在の教育現場では、診断を受けていないケースや軽度も含めれば、各クラスに1~2人は発達障害のお子さんが在籍しています。もちろん、僕のクラスにもユニークな特性を持つお子さんが何人かいました。彼らとどう向き合い、どんな指導をしていくのか。これは現場で喫緊の課題だと感じていました。   新刊『ありがとう3組』には、泰示という発達障害のある転入生が登場します。強烈な個性の出現に、周囲は面食らい、ドン引きし、拒否反応を示します。ある意味、それは自然なことだとも思います。でも、そのまま彼を孤立させるわけにもいかない。だけど、彼の欲求にすべて応えれば、秩序が乱れていく――。   これは主人公・赤尾だけの悩みではなく、現場に立つすべての教師の悩みと言っても、過言ではありません。まさに、今日の教育現場における大きな課題と言っていい。でも、課題と認識されはじめてから日が浅く、研究もそこまで進んでいるとは言いがたい。だからこそ、「正解」はなく、教師一人ひとりが悩みながら、暗中模索している。   主人公・赤尾も、彼なりのやり方で泰示と向き合い、周囲との溝を埋めていこうと努力します。これは赤尾の手法であり、教師としての僕の手法でもありました。でも、職員室のなかでは、僕と(赤尾と)正反対の対応をする先生もいました。いまでも、どれが正解なのかはわかりません。けれど、これだけは言いたい。   大人は、社会は、勝手にストライクゾーンを作り出し、そこに子どもたちをはめこもうとする。そして、どうにもその枠にはまらない子に対しては、眉をひそめたり、声を荒げたり。発達障害の子どもたちは、そうしたストライクゾーンから最も遠くに位置する存在。彼らの生きづらさは、想像を絶します。   でも、よく考えてみれば、そのストライクゾーンは、大人たちが効率のいい社会にするために勝手に作り出したもの。発達障害のある子どもたちは、決して「悪い子」なんかじゃない。ただ大人たちにとって、「都合の悪い子」であるだけなのです。「困った子」ではなく、当事者自身が「困っている」のです。   以前から繰り返し述べているように、障害者は「劣っている」のではなく、「違っている」のだと思っています。それは、発達障害に関しても同じ。日本が真に成熟した社会となっていくには、この「違い」に対して寛容になることが重要だと思っていますが、発達障害者への意識、対応は、まさにその試金石。   新刊『ありがとう3組』が、当事者やご家族の苦悩を知るきっかけとなり、みなさんが発達障害に対する考えを深める端緒となれば、これ以上の幸せはありません。また、当事者やご家族の方にもお読みいただき、ご意見をいただければうれしく思います。  『ありがとう3組』(講談社) http://ototake.com/books/209/


幸せの定義

 先日、映画『夢売るふたり』を観た。『ゆれる』や『ディア・ドクター』等の作品で知られる西川美和監督の最新作。同時期に観賞した『最強のふたり』とは対照的な作品で、笑いや涙を誘うような場面はない。ただ、人間の弱さをじっくりとあぶりだし、観賞後に「幸せって何だろう?」と考えさせる良作だった。  松たか子と阿部サダヲ演じる夫婦が、火事で焼失してしまった小料理屋を再開するため、結婚詐欺を働く。だから、物語には騙される様々なタイプの女性が登場する。彼女たちには、共通点があった。彼女たちは、「幸せ」を追っていた。「幸せ」に飢えていた。でも、何が「幸せ」なのかをわからずにいた。  Twitter上で、フォロワーの方々からよく質問を受ける。先日も、「幸せの定理とは?」と問われた。どんな状態を「幸せ」と感じられるのかは、人それぞれ。万人に当てはまる答えなどない。なのに、多くの人が「幸せ」の定義を他者に任せる。もしくは、巷間言われる「幸せ」のカタチを、盲目的にみずからの解とする。  女性で言えば、結婚・出産。この2つを通らなければ「幸せ」にたどり着けないと妄信する人が、あまりに多い。たしかに夫と子どもに恵まれ、よき妻、よき母となることは、わかりやすい「幸せのカタチ」だ。だが、それはあくまでひとつのケースに過ぎない。それが唯一絶対の幸せでは、決してない。  自分にとっての「幸せ」とは何か。そこに思いを巡らせる行為を怠り、世間一般の「幸せのカタチ」を鵜呑みにすることほど、危険なことはない。ほんの一例にしか過ぎない「結婚・出産」という列車に乗り遅れそうだと焦り、あわてて飛び乗ってみれば、「こんなはずじゃなかった…」とほぞを噛む。  「幸せとは何か」――もちろん、たやすく答えが出るものではない。でも、少なくとも他者にその答えを求めるのはやめにしよう。世間体とやらに幸せを預けるのもやめにしよう。自分で悩み、考え抜いたって、たどり着けるかはわからないのに、他者から与えられた答えを追って、何になるというのか。  結婚しなければ、幸せになれない――。  子どもを産めないなんてかわいそうに――。  手足がないなんて不幸な人生だ――。  そんなの、ぜんぶ、決めつけ。オレの幸せは、オレが決める。あなたの幸せは、あなたが決めればいい。だれの人生でもなく、あなたの人生なのだから。これはほかでもない、僕の人生なのだから。  「幸せの定義」を他者任せにして人生を歩んでいると、大きな落とし穴が潜んでいる。その落とし穴を、西川監督は「結婚詐欺」として表現したのかもしれない。そして、松たか子さん演じる主人公は、確固たる「幸せ」の定義を持っていたから、まるで揺るがないし、凛として見える。そこに、僕らが幸せを手にするヒントがある。  自分にとっての幸せとは、何だろう。親に言われたから結婚しようとしていないか。友人たちの出産ラッシュに焦りを感じていないだろうか。自分の人生には、本当に出世レースが必要なのだろうか。映画『夢売るふたり』は、あらためてそんなことを考える機会を与えてくれる作品でした。みなさんも、ぜひ。


パラリンピックをなくしたい!

「乙武さんはパラリンピック出場を目指したことはありますか?」  つい先日、こんな質問を受けた。結論から言うと、これまでに一度もない。でも、五輪になら出場したいと考えていた時期がある。“氷上のチェス”とも呼ばれるカーリングなら何とか僕にもできないだろうか、リュージュやスケルトンならどうだろうか…などと本気で考えていた。  幼い頃から、みんなと同じことをしただけでほめられることが多かった。歩く、食べる、字を書く――それだけで「すごいね」と称賛された。なぜ、みんなと同じことをしているだけなのに、僕だけがほめられるのか。そこには、「障害者だから、どうせできない」という前提があるのだろう。そう考えると、ほめられていながら、どこか下に見られているような気がして、複雑だった。  だから、「障害者にしては」と評価されることがイヤだった。勉強でも、字のきれいさでも、どんな分野でも、純粋に、クラスで一番になりたかった。だから、パラリンピックではなく、五輪に興味があった。身体障害者が、健常者も出場する大会で“てっぺん”獲ったら、世界中が驚くだろうな、と。  もちろん、「オリンピック>パラリンピック」と考えているわけではない。その価値は同等であり、出場者およびメダル獲得者は、どちらも称賛されるべきだと思っている。また、その大舞台に至るまでの過程において彼らが積んできた努力を思うと、それが障害者であれ、健常者であれ、尊敬に値する。  それでも、あえて誤解を恐れずに言うならば、将来的にパラリンピックはなくなってほしいと思っている。もちろん、障害者アスリートが活躍できる檜舞台をなくせと言っているわけではない。オリンピックとパラリンピックが統合され、いずれ、ひとつの大会として開催されることを望んでいるのだ。  たとえば、柔道。五輪でも、男女とも体重によって7つの階級に分けられている。それは、同じ競技とは言え、あまりに体重が異なる選手同士が試合を行うのは不公平だからだ。ならば、100m走に、「一般の部」「視覚障害の部」「聴覚障害の部」「車いすの部」など、様々な“階級”があってよい。 今回、義足ながらオリンピック男子陸上にも出場して物議をかもしたオスカー・ピストリウス選手のように、障害がありながらも「一般の部」に出場する選手がいたっていい。  もちろん、パラリンピックはリハビリの一環として始まったもので、本来、五輪とは趣旨も、目的も違っていた。だが、パラリンピックもここ数大会で一気に競技性が高まり、五輪、またIOC(国際オリンピック委員会)との結びつきも強まってきた。もう、統合を考えてもいい時期に来ているように思う。 いずれにせよ、日本はパラリンピックを軽視しすぎだろう。先日も指摘した放送数の少なさだけでなく、銀座でのパレードもなぜパラリンピック終了を待たず、五輪終了後にそそくさと行ってしまうのか。五輪招致を目指す国としては、そうした国際感覚とのズレを認識し、見直す必要があるように思う。  パラリンピックは障害の状況によってクラス分けが細分化されており、メダルひとつの価値が低くなる、という指摘もある。五輪と統合すれば、ますますクラス分けは複雑化し、そうした声も大きくなるだろう。また、ただでさえ五輪の肥大化が問題視されているなかでパラリンピックとの統合を行えば、宿泊施設の確保など、ハード面でクリアしなければならない課題も山積みとなるだろう。  だが、それらの課題を真正面から検討し、いずれひとつの大会となることを望んでいる。


24時間テレビへの思い

 今年も24時間テレビが終わった。放送前、Twitterで「24時間テレビを放送するのと、パラリンピックを24時間放送するのと、どちらが障害者理解が進むのか」とつぶやき、みなさんから多くの反響をいただいた。だが、まだ僕自身の考えを述べていないことに気がついた。僕は、「どちらも一方では進まない」と考えている。  もう十年以上前の話だ。「24時間テレビでメインパーソナリティーを務めてほしい」という話をいただいた。今年で言えば、嵐のポジションだ。「ビジネス」として考えれば、それはオイシイ話だったのかもしれない。だが、僕は断ってしまった。あの番組による障害者に対する扱いが、一面的であるように感じたからだ。  もちろん、意義はあると思っている。募金による寄付額には無視できないものがあるし、何より「知ってもらう」ことのきっかけにもなる。だが、それでも、障害者を「かわいそうな人たちが、こんなに頑張っている」と扱ってしまうことに違和感を覚えたし、何よりその番組の“顔”となることに抵抗があった。  僕が子どもの頃、番組はいまよりも「貧困」に焦点を当てていたように思う。当時は僕も貯金箱の中身を持って、コンビニに募金しに行った。だが、いつからかずいぶん番組のテイストが変わってきた。そこに登場する障害者は、あきらかに憐憫の情で見られている気がした。僕は、番組を見なくなった。  だが、パラリンピックを放送すれば障害者理解が進む、とも思えない。彼らは、日々の研鑽を積み、大舞台で活躍する権利を得たアスリート。一般的な障害者像を体現しているわけでは、けっしてない。だから、パラリンピックを観戦した視聴者が得た「障害者って、こんなにすごいんだ!」という感想は、障害者の全体像を見誤らせる危険性をはらんでいる。  「健常者とはこういう人」とひとくくりにできないように、障害者にだって様々な人がいる。いまだ苦しみのなかにいる人もいれば、障害を受け入れ、克服し、まわりに勇気を与えるような生き方をしている人もいる。どちらが「いい」「悪い」という話ではない。どちらも「いる」という“現実”が大事なのだ。  僕に対して、「あなたのように恵まれている障害者ばかりではない」「おまえは特別だ」との批判もある。そのとおり。僕だって、あくまで“ほんの一例”に過ぎない。だから、僕の生き方、考え方が障害者を代表しているとは思ってほしくないし、ましてや「乙武さんだって、こう言ってる」「乙武さんはあんなに頑張っているのに」と他の障害者に押し付けてほしくない。  「乙武さんは、24時間テレビが嫌い」  そんな言説が流布しているけれど、「嫌い」という感情とも違う。ただ、障害者に対する扱いがあまりに一面的だとは思う。だから、何とか異なる手法でもプレゼンできないかと、十代の頃からずっと考えてきた。それが、『五体不満足』出版にもつながった。いわば、24時間テレビは、僕の原動力でもあった。  みなさんがこれまで抱いてきたであろう障害者に対する固定概念を、何とか打ち破ってやろう、違うスパイスを加えてやろう、そんな思いで出版した『五体不満足』。それが、あまりに多くの人が読んでくださったおかげで、今度は「乙武のような障害者ばかりじゃない!」と言われる“逆転現象”が起こり、困惑もした。  とかく、人はレッテルを張りたがるものだ。日本人はこういう人、女性とはこういう性格、障害者とはこういう存在――それが無意味なことは、わかっているくせに。障害者だって、同情されたくない人もいれば、同情されたい人もいる。泣きたい人もいれば、泣きたくない人もいる。本当に、いろいろな人がいる。  24時間テレビを見た方には、ぜひパラリンピックも観てほしい。NHKの『バリバラ』という番組も観てほしい。そうして、いろいろと知ってほしい。感じてほしい。考えてほしい。もちろん、そこでの感じ方、受け取り方は、各自の自由だ。


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