24時間テレビへの思い
今年も24時間テレビが終わった。放送前、Twitterで「24時間テレビを放送するのと、パラリンピックを24時間放送するのと、どちらが障害者理解が進むのか」とつぶやき、みなさんから多くの反響をいただいた。だが、まだ僕自身の考えを述べていないことに気がついた。僕は、「どちらも一方では進まない」と考えている。
もう十年以上前の話だ。「24時間テレビでメインパーソナリティーを務めてほしい」という話をいただいた。今年で言えば、嵐のポジションだ。「ビジネス」として考えれば、それはオイシイ話だったのかもしれない。だが、僕は断ってしまった。あの番組による障害者に対する扱いが、一面的であるように感じたからだ。
もちろん、意義はあると思っている。募金による寄付額には無視できないものがあるし、何より「知ってもらう」ことのきっかけにもなる。だが、それでも、障害者を「かわいそうな人たちが、こんなに頑張っている」と扱ってしまうことに違和感を覚えたし、何よりその番組の“顔”となることに抵抗があった。
僕が子どもの頃、番組はいまよりも「貧困」に焦点を当てていたように思う。当時は僕も貯金箱の中身を持って、コンビニに募金しに行った。だが、いつからかずいぶん番組のテイストが変わってきた。そこに登場する障害者は、あきらかに憐憫の情で見られている気がした。僕は、番組を見なくなった。
だが、パラリンピックを放送すれば障害者理解が進む、とも思えない。彼らは、日々の研鑽を積み、大舞台で活躍する権利を得たアスリート。一般的な障害者像を体現しているわけでは、けっしてない。だから、パラリンピックを観戦した視聴者が得た「障害者って、こんなにすごいんだ!」という感想は、障害者の全体像を見誤らせる危険性をはらんでいる。
「健常者とはこういう人」とひとくくりにできないように、障害者にだって様々な人がいる。いまだ苦しみのなかにいる人もいれば、障害を受け入れ、克服し、まわりに勇気を与えるような生き方をしている人もいる。どちらが「いい」「悪い」という話ではない。どちらも「いる」という“現実”が大事なのだ。
僕に対して、「あなたのように恵まれている障害者ばかりではない」「おまえは特別だ」との批判もある。そのとおり。僕だって、あくまで“ほんの一例”に過ぎない。だから、僕の生き方、考え方が障害者を代表しているとは思ってほしくないし、ましてや「乙武さんだって、こう言ってる」「乙武さんはあんなに頑張っているのに」と他の障害者に押し付けてほしくない。
「乙武さんは、24時間テレビが嫌い」
そんな言説が流布しているけれど、「嫌い」という感情とも違う。ただ、障害者に対する扱いがあまりに一面的だとは思う。だから、何とか異なる手法でもプレゼンできないかと、十代の頃からずっと考えてきた。それが、『五体不満足』出版にもつながった。いわば、24時間テレビは、僕の原動力でもあった。
みなさんがこれまで抱いてきたであろう障害者に対する固定概念を、何とか打ち破ってやろう、違うスパイスを加えてやろう、そんな思いで出版した『五体不満足』。それが、あまりに多くの人が読んでくださったおかげで、今度は「乙武のような障害者ばかりじゃない!」と言われる“逆転現象”が起こり、困惑もした。
とかく、人はレッテルを張りたがるものだ。日本人はこういう人、女性とはこういう性格、障害者とはこういう存在――それが無意味なことは、わかっているくせに。障害者だって、同情されたくない人もいれば、同情されたい人もいる。泣きたい人もいれば、泣きたくない人もいる。本当に、いろいろな人がいる。
24時間テレビを見た方には、ぜひパラリンピックも観てほしい。NHKの『バリバラ』という番組も観てほしい。そうして、いろいろと知ってほしい。感じてほしい。考えてほしい。もちろん、そこでの感じ方、受け取り方は、各自の自由だ。
コーンスープともやしサラダ | 『「神の雫」とワインな1時間』 |
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