わかりあう。わかりあおうとする。
Twitterのタイムラインを読んでいたら、こんなブログが目に留まりました。
頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。
読んで、まず、胸がぎゅっと苦しくなった。
「正直、不幸になってくれたら嬉しい」
この言葉は、とくに、心に突き刺さった。
そのうえで、僕らはどうあるべきかを考えた。
「どうせわからない」なら、無関心でいるほうがいいのか。
あくまで「わからない」ことを前提に、それでも思いを馳せ、
わずかな声を、力を届けていく。それじゃ、ダメなのか――。
そもそも、人と人が関わりあって生きていくって、どういうことなんだろう。
本人の気持ちには、もちろんなれない。でも、想像することならできる。
相手の立場になって、心を寄り添わせ、うれしいだろうなと思う言葉を
かけたり、行動をしたり、ただ何も言わず見守っていたり。
もちろん、その想像が間違っていて、相手を傷つけたり、怒らせてしまう
こともあると思う。でも、そうなることを恐れ、何も働きかけないことが、
はたして善なのか。
被災者と非被災者。親と子。妻と夫――。
それぞれ立場は違えども、わかりあおうと努力し続けることが
“共生”ってことなんじゃないだろうか。
たとえば。
手足のない僕の気持ちは、きっと誰にもわからない。
でも、家族は、友人は、「あいつなら、こうなんじゃないか」って。
いつも、考えてくれた。それは、とても幸せなことだと感謝している。
それが、たとえ的外れだったとしても、ね。
だから、僕も立場の異なる相手に対し、少しでも心を寄り添える人で
ありたいと思う。
僕が言いたいのは、「被災地の方々に対して、『頑張れ』と言ったって
いいじゃない」という話じゃない。被災者の気持ちにはなれないけれど、
「どうせわからない」と無力感に苛まれ、無関心になるのではなく、
わかろうという努力を怠らずにいたいな、と。
これは、僕自身へのメッセージでもあるんです。
僕の文章を読んでくれた花*花のこじまいづみさんが、
こんなメッセージを寄せてくれた。
相手が大事だと思うなら「分かってたまるか!」と言われても、
「分かんない!でも大事!」と言い返す気持ちでいたいね^^
「分かるから大事」なんじゃなくて、「大事だから分かり合いたい」
んだもんね。
うん、そうなんだ。
大事に思うから、「分かりたい」という気持ちが生まれてくる。
それって、すごく大切なことだと思うんだ。
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