OTO ZONE

わかりあう。わかりあおうとする。

2011年4月8日

Twitterのタイムラインを読んでいたら、こんなブログが目に留まりました。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。
読んで、まず、胸がぎゅっと苦しくなった。

「正直、不幸になってくれたら嬉しい」

この言葉は、とくに、心に突き刺さった。
そのうえで、僕らはどうあるべきかを考えた。

「どうせわからない」なら、無関心でいるほうがいいのか。
あくまで「わからない」ことを前提に、それでも思いを馳せ、
わずかな声を、力を届けていく。それじゃ、ダメなのか――。
そもそも、人と人が関わりあって生きていくって、どういうことなんだろう。

本人の気持ちには、もちろんなれない。でも、想像することならできる。
相手の立場になって、心を寄り添わせ、うれしいだろうなと思う言葉を
かけたり、行動をしたり、ただ何も言わず見守っていたり。

もちろん、その想像が間違っていて、相手を傷つけたり、怒らせてしまう
こともあると思う。でも、そうなることを恐れ、何も働きかけないことが、
はたして善なのか。

被災者と非被災者。親と子。妻と夫――。
それぞれ立場は違えども、わかりあおうと努力し続けることが
“共生”ってことなんじゃないだろうか。

たとえば。

手足のない僕の気持ちは、きっと誰にもわからない。
でも、家族は、友人は、「あいつなら、こうなんじゃないか」って。
いつも、考えてくれた。それは、とても幸せなことだと感謝している。
それが、たとえ的外れだったとしても、ね。

だから、僕も立場の異なる相手に対し、少しでも心を寄り添える人で
ありたいと思う。

僕が言いたいのは、「被災地の方々に対して、『頑張れ』と言ったって
いいじゃない」という話じゃない。被災者の気持ちにはなれないけれど、
「どうせわからない」と無力感に苛まれ、無関心になるのではなく、
わかろうという努力を怠らずにいたいな、と。

これは、僕自身へのメッセージでもあるんです。
僕の文章を読んでくれた花*花こじまいづみさんが、
こんなメッセージを寄せてくれた。

相手が大事だと思うなら「分かってたまるか!」と言われても、
「分かんない!でも大事!」と言い返す気持ちでいたいね^^
「分かるから大事」なんじゃなくて、「大事だから分かり合いたい」
んだもんね。

うん、そうなんだ。
大事に思うから、「分かりたい」という気持ちが生まれてくる。
それって、すごく大切なことだと思うんだ。


朝日新聞「逆風満帆」(下) 誰かの役に立っている
朝日新聞「逆風満帆」(下)
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