OTO ZONE

Monthly Archives: 4月 2013

おちんちんのついた女の子

 先日、友達が新宿二丁目にオープンしたお店に飲みに行った。二丁目と言っても、いわゆるゲイバーではなく、お客様が女装を楽しめるという風変わりなお店だ。普段から女装が趣味の人もいれば、ノリで女装を楽しむ人もいれば、そうした雰囲気を味わいに来るだけの人もいる。客層は、まちまちなのだとか。  店内が盛り上がっていれば、僕も勢いに任せて女装してみようかなどと思っていたが、あいにくその日は客もまばら。そこで、僕はオーナーである友人と店のスタッフを相手にグラスを傾けることにした。そこで深夜3時まで繰り広げられた“性”についての会話は、とても興味深く、また刺激的だった。  オーナーである僕の友人は、みずからを女性だと思っている。だが、与えられた肉体は男性だった。つまり、「おちんちんのついた女の子」として生を享けたのだ。戸籍上は男性となるが、カウンセリングののちに性別適合手術を受け、一定の要件を満たせば、戸籍上の性別を変更することができる。  こうして「心」と「体」の性が一致しない人々は、トランスジェンダーと呼ばれる。ここ数年でずいぶんメディアでも取り上げられるようになり、以前に比べれば少しずつ理解も進んできた。ちなみに僕の友人は、かつて男性の肉体であったことが信じられないくらいの美人で、思わず口説きそうになる。  だが、お店のスタッフのMちゃんは、また事情が異なる。彼女もまた男性の肉体を与えられたが、普段は女性の格好をして暮らしている。身長こそ178cmあるが、その姿はどう見ても女性だ。そして、恋愛対象は男性。じゃあ、Mちゃんもトランスジェンダーなのかというと――。 「いえ、私は違います」 「えっ、どこが違うの!?」 「私は自分のことを男性だと思っているんです」  なるほど、彼女がみずからを「男だと思っている」以上、それはトランスジェンダーではないのかもしれない。もっと言えば、「彼女」と表現していいのかもわからない。だが、どう見てもMちゃんは女性にしか見えない。それでもMちゃんは、「自分は男性だ」とかわいらしい表情で口にするのだ。  さらに混乱したのは、Mちゃんの「私はゲイにあたるんです」という言葉。そうか、男性だと自認するMちゃんの恋愛対象は男性なのだから、たしかに無理やりカテゴライズすれば、それはゲイになる、のか。え、こんなに美しいひとが男に惚れて……ゲイ? もう、何が何だかわからない。無理やりカテゴライズすることに、意味なんてないんじゃないかと思えてくる。  さらには同席した男性客が大胆な告白をしてくれた。 「僕は男性の性器に興奮を覚えるんです。だから十代の頃から自分はゲイなんだと思ってきたけど、どうやらそうでもない。いろいろ試してみたけど、好きになるのは女性なんです。でも性的に興奮するのは男性器で……」  さまざまな人の、さまざまな話を聞くうち、僕がなぜ思考回路を混線させられているのか、わかってきた気がした。おそらく、どこかで「この人はこういうタイプ」と分類・整理しようとしていたのだろう。でも、そんなことは土台無理な話。こうした性的指向や嗜好は、きっとグラデーションのようになっているのだろうと、そう思った。  僕はふだんから、「みんなちがって、みんないい」と言っている。こうしたセクシャリティの問題だって同じこと。ただ、僕のような身体障害者以上に、彼らのほうが不当な差別や偏見を受けている気がする。それは、きっと教育現場でも。セクシャリティを苦に自殺を考える若者が後を絶たないと聞く。胸が痛む。  小学校教員時代、保健体育で「思春期」について教える機会があった。教科書に「異性を意識するようになる。これを思春期と呼ぶ」といった記述に違和感を覚えた僕は、子どもたちのまえでこう付け加えた。 「男の子が男の子を、女の子が女の子を好きになることだってある。それは数が少ないだけで、けっして変なことじゃないんだよ」  教育現場でできることが、もっとあるはずだ。教科書の記述や、制服の選択、現場の先生方の意識改革も必要かもしれない。今年2月、東京都教育委員に就任した。何かできることはないだろうか。勉強してみよう。考えてみよう。 追記。専門家ではないために、不正確な表記や表現によって、当事者の方々に不快な思いをさせてしまっていたら、心からお詫びします。でも、わからないながらも、当事者ではない人間が関心を持ち、声をあげていくことも必要だと思うのです。どうぞ、これからも向き合わせてください。理解したいのです。


『東京からはじめよう』

4月6日(土)21:00~21:55(TOKYO MX)において、 『東京からはじめよう』に出演します。 東京都知事の猪瀬直樹氏との対談、多様性を尊重しあう都市へ、 東京という街を軸にじっくりとお話します。 是非、ご覧ください!


済美・安楽投手の連投に思うこと

 甲子園で行われている選抜高校野球大会。済美高校のエース・安楽智大投手は、県岐阜商との準々決勝でも138球を投げ抜き、3試合連続完投勝利。準決勝にコマを進めた。最終回には、151kmを計時したという。野球ファンをわくわくさせるような怪物の登場だが、僕は手放しによろこべずにいる。  安楽投手は、今大会すでに529球を投げている。初戦でいきなり232球を投じたが、アメリカの高校生は一ヶ月でも200球を超える球数は投げないそうだ。成長過程にある高校生がそれだけの球数を投げることに対し、科学的に疑問符がつけられるのだろう。ちなみに、安楽投手はまだ2年生だ。  ところが報道を見ていると、「エース力投」など美談、賞賛の一辺倒。なぜ、ここまでの球数を投げさせることに疑問を呈する報道が見られないのか。それは高校野球を「教育の一環」ではなく、「ビジネスのコンテンツ」と見ているからだろう。だが、そこで得られる利潤が高校生の手に渡ることはない。  もちろん、球児たちは利潤など望んでいない。ただ、彼らの純粋さを、大人たちが利用しているだけなのだ。高校野球とは本来、部活動であり、教育活動の一環である。それが、あまりに「興業」としてのウマ味が大きいために、「球数制限」などあって然るべき対策がいつまでも講じられずにいるのだ。  高野連のホームページを開くと、トップページには「スポーツ障害の予防・治療・復帰プログラム」についてのバナーが貼ってある。笑止。本当に球児たちの体のことを考えているなら、なぜ球数制限の導入を検討しないのだ。本音と建前の乖離に、野球ファンとして、教育に携わる者として、苦言を呈したい。  何より疑問を感じるのは、スポーツマスコミの姿勢。「エース力投」「鉄腕安楽」――たしかに新聞は売れるでしょうだろう。だが、そうした記事が、はたしてジャーナリズムとしての機能を果たしていると言えるのか。今朝の各紙に踊る文字に、元スポーツライターとして落胆の色を隠せずにいる。  もちろん、球数制限だけが唯一の解決策ではない。好投手を多く集められる私立の強豪校が有利になるなど、導入による弊害もあるだろう。また、安楽投手本人も「これが普通。他の高校生もこれくらい投げている」と発言するなど、完全燃焼を良しとする高校球児たちが球数制限を望んでいるとも言いがたい。  だが、少なくとも「将来ある高校球児があれだけの球数を投げることの是非」については、もっと論じる必要がある。その世論を喚起するのがマスコミの仕事だと思うのだが、その役割を果たせているようには、とても思えない。  この件に関して、Twitterでも述べた。すると、大リーグで活躍するダルビッシュ有選手をはじめ、多くの方からリプライをいただいた。その一部をTogetterにまとめたので、ぜひこちらもご覧いただきたい。  Togetter「済美・安楽投手の連投に思うこと」――


エイプリルフール

ウソだよーん♪


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