OTO ZONE

Monthly Archives: 4月 2011

ピントの合わせ方

数日前、僕の事務所で働いてくれているマネージャー君が、 うれしそうに話しかけてきた。 「何かひとつ趣味でも持とうかと思って」 なんでも、思い立って一眼レフカメラを購入したらしい。 今朝のことだ。約束の時間よりも早く目的地に到着した車内で、 説明書を片手に、パシャパシャとやっている。 「あ、なるほど。こうやってピントを合わせて…」 フロントガラスに付着した水滴にピントを合わせ、パシャリ。 「今度は、あっち側に…」 窓ガラスの向こうに広がるビルや信号にピントを合わせ、パシャリ。 「うわあ、面白い。全然ちがうなあ」 新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいに、笑顔がはじけてる。 あれ。 え。 ちょっと、俺にも見せてよ。 1枚目と2枚目。 全然、ちがう。 同じ場所で、同じ角度でカメラを構えたのに、 液晶に映っているのは、まるでちがう景色。 ハッとした。 こういうことなんだ。 たとえば、原発。 「一刻も早く運転停止し、代替エネルギーへの転換を」 「いや、安全対策を万全にして、やはり原子力でいくべき」 見えている事象は同じ。 提供されるデータ・数字も同じ。 それでも、それぞれの意見が異なり、ぶつかり合っているのは、 こうしてピントを合わせている場所がちがうからなんだろうなって。 原発だけじゃなくって、きっと、すべてがそう。 そんな、ごく、当たり前すぎることに、いま一度、気づいた朝。 明日から、“水先案内人”として、5日間、ピースボートに乗船します。 きっと、様々な価値観や経験を持った方々が乗船されることでしょう。 僕の焦点とは、またちがう焦点で物事を捉え、考えている方々との 語らいを、いまから楽しみにしています。


誰かの役に立っている

みなさん、こんにちは! 東京、今日はめっちゃ気持ちのいい青空が広がっています。 今日は、ひさしぶりに落語会へ行ってくる予定です。 被災地でもある仙台市出身の元M-1王者・サンドウィッチマンさんと、 春風亭小朝さん、春風亭昇太さんら人気落語家さんたちが企画した 「東日本大震災チャリティ落語会―落語の力―」@渋谷CCレモンホール。 出演者は、無償で出演し、収益はすべて被災地へ寄付されるとのこと。 昼夜2回公演みたいだけど、僕は夜公演に出かけていく予定です! 落語を聴きにいくのは、震災以降2度目。 前回、行ったときには、芸人さん達の“覚悟”を感じました。 いまよりも「自粛」「不謹慎」が叫ばれていた3月末。 「笑い」なんて、不謹慎の極み。それでも高座に上がった 噺家さん達からは、ある種の決意のようなものが感じられた。 「自分たちには、これしかない。 この話芸で、お客様の心をほぐしていくしかない」 もちろん、彼らは、そんなことはひと言も口にしない。 でも、物腰やわらかな、それでいてどこか毅然とした態度から、 僕はそんな決意とプライドを感じたのだ。 大きめの余震が続き、気分が沈みがちだった昨日、 好きなアーティストの曲をかけた。驚くほど、元気が出た。 やはり月末に行った芝居からもパワーをもらった。 今日の落語会も、きっと元気をもらうだろう。 現地に赴いてのボランティア活動やライブ収益を寄付することは、 もちろん素晴らしい。でも、事情によって、それがかなわない人もいる。 だいじょうぶ。それだけが支援じゃない。 音楽も、演劇も、落語も、「いまは不要」と感じる人もいるかもしれない。 でも、少なくとも、余震や放射能の影響におびえる生活を強いられる “プチ被災者”である東京人としては、そうした文化・芸術に力をもらい、 救われている。 文化・芸術だけじゃない。どんな仕事だって、社会の役に立っている。 もしかしたら、直接的に役に立っているようには思えないかもしれない。 でも、きっと、回り回って、誰かを助けている。誰かの役に立っている。 地震も、原発も、たしかに怖い。 でも、僕は無力感から歩みを止めてしまうことが、いちばん怖い。 「自分は無力なんじゃないか」 誰もが、感じてる。 でもさ、「どうせ自分には何もできない」と立ち止まっていても、 それは、きっと、本当に誰かの役に立つことはできないよ。 歩みを止めてしまっている人がいれば、ふたたび歩きだしてほしい。 自分の歩みが、必ず誰かの役に立つのだと信じて。 まずは、一歩を踏み出そう。


わかりあう。わかりあおうとする。

Twitterのタイムラインを読んでいたら、こんなブログが目に留まりました。 頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。 読んで、まず、胸がぎゅっと苦しくなった。 「正直、不幸になってくれたら嬉しい」 この言葉は、とくに、心に突き刺さった。 そのうえで、僕らはどうあるべきかを考えた。 「どうせわからない」なら、無関心でいるほうがいいのか。 あくまで「わからない」ことを前提に、それでも思いを馳せ、 わずかな声を、力を届けていく。それじゃ、ダメなのか――。 そもそも、人と人が関わりあって生きていくって、どういうことなんだろう。 本人の気持ちには、もちろんなれない。でも、想像することならできる。 相手の立場になって、心を寄り添わせ、うれしいだろうなと思う言葉を かけたり、行動をしたり、ただ何も言わず見守っていたり。 もちろん、その想像が間違っていて、相手を傷つけたり、怒らせてしまう こともあると思う。でも、そうなることを恐れ、何も働きかけないことが、 はたして善なのか。 被災者と非被災者。親と子。妻と夫――。 それぞれ立場は違えども、わかりあおうと努力し続けることが “共生”ってことなんじゃないだろうか。 たとえば。 手足のない僕の気持ちは、きっと誰にもわからない。 でも、家族は、友人は、「あいつなら、こうなんじゃないか」って。 いつも、考えてくれた。それは、とても幸せなことだと感謝している。 それが、たとえ的外れだったとしても、ね。 だから、僕も立場の異なる相手に対し、少しでも心を寄り添える人で ありたいと思う。 僕が言いたいのは、「被災地の方々に対して、『頑張れ』と言ったって いいじゃない」という話じゃない。被災者の気持ちにはなれないけれど、 「どうせわからない」と無力感に苛まれ、無関心になるのではなく、 わかろうという努力を怠らずにいたいな、と。 これは、僕自身へのメッセージでもあるんです。 僕の文章を読んでくれた花*花のこじまいづみさんが、 こんなメッセージを寄せてくれた。 相手が大事だと思うなら「分かってたまるか!」と言われても、 「分かんない!でも大事!」と言い返す気持ちでいたいね^^ 「分かるから大事」なんじゃなくて、「大事だから分かり合いたい」 んだもんね。 うん、そうなんだ。 大事に思うから、「分かりたい」という気持ちが生まれてくる。 それって、すごく大切なことだと思うんだ。


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