OTO ZONE

Monthly Archives: 12月 2012

「わたしたち」を主語に

 衆院選が終わりました。選挙の前々日、みなさんに投票を呼びかけるため、こんなブログを書きました。みなさんが広めてくださったおかげで、若い世代を中心に多くの方から「この文章を読んで、選挙に行くことにしました」という声が寄せられました。本当に感謝しています。  ところが、フタをあけてみれば、投票率は59.32%。これは、戦後の衆院選で過去最低の数字なのだとか。Twitterなど、ネット上ではかなり「選挙に行くぞ」という気運の高まりを感じていたために期待していた部分もあったのですが、結果は期待外れ…というより、むしろ最悪の結果でした。  まだまだネット社会と社会全体には乖離があり、けっして「ネット上の声=世論」ではないということを強く感じました。でもね、だからといって、ネット上でメッセージを発信していくことをあきらめたわけではありません。僕らの声が、いつかネットの枠を超えて社会全体に届くことを信じて、僕はこれからも発信を続けていきます。  だからこそ、言いたいこと。昨夜は、日本テレビ系『ZERO×選挙2012』に翌朝4時まで生出演させていただいたのですが、そのなかで気になることが。それは、番組が20代、30代に対して行った「あなたは、今後、日本がよくなっていくと思いますか?」というアンケート。その結果について。  日本はよくなるか――「良くなる」22%、「悪くなる」33%、「変わらない」40%。この結果に、僕はなんだか複雑な気持ちになってしまった。もちろん、設問が違えば、まだ違った回答になったのかもしれない。それでも、僕はこの結果に、「社会というのは、だれかが良くしてくれるもの」という他者依存の意識が透けて見えた気がしたのだ。  そもそも選択肢になかったのかもしれないけれど、僕なら「良くする」と答える。「良くなる」でも、「悪くなる」でもなく、「良くする」。だれかが――ではなく、僕が、僕らが、この社会を、この国を良くしていくのだ。そうした意識と覚悟を持つことが、いま僕らに求められているのではないかと思うのだ。  もちろん、どんな社会を良しとし、そのためにはどんな手立てを講じるのがいいのか、そこは人によって意見が分かれることだろう。だが、そこについては大いに議論すればいい。まずは、一人ひとりが「どんな社会にしたい」と自分なりの思いを抱き、その思いを実現するために行動することが大事。  「え、いったい僕らにどんなことができるの?」  いきなり、「自分なりに考え、行動しろ」と言われても、戸惑ってしまう人も多いだろう。たとえば、友人・駒崎弘樹君のブログにもこんな記事があるので、参考にしてもらえたら。もちろん、ここに挙げられていないことでも、「僕らにできること」は山ほどあるはずだ。  社会を良くするのは、なにも政治家だけの仕事ではないはず。彼らは、社会をより良いものにしていく上で「政治」という役割を担っているだけで、僕らには僕らで、また異なる役割があるはずだ。選挙結果に希望を持ったり、落胆したり。そんな感情をひとしきり消化できたら、さあ、こんどは僕らの番!  政治家に対して、「あいつら、どうせ信用できない」と思っている人は多いと思う。ならば、自分を信じてみよう。他人に依存するのはやめにして、自分でできるかぎりの努力をしてみよう。政治家や、だれかが動いてくれるのを待つんじゃない。「わたし」を、「わたしたち」を主語にしようよ。


『NNN総選挙特番 ZERO×選挙 2012』

12月16日(日)21:39~28:00日本テレビ系にて、 『NNN総選挙特番 ZERO×選挙 2012』に生出演します! これからの日本を誰にたくすのか。 誰が当選し誰が落選したのか。開票速報をたっぷりお伝えします。 是非、ご覧ください!


選挙に行かない君へ

 昨日、Twitter上で「#選挙に行かない理由」というハッシュタグをつけて意見を募集したところ、さまざまなご意見を寄せていただきました。回答してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みなさんの意見を読んでいて、僕にも思うところがあったので、少し長くなるかもしれないけれど、書かせてください。  みなさんも知ってのとおり、選挙というのは、政治家を選ぶためのもの。じゃあ、政治家というのは、そもそも何をするための人なのでしょう。わかりやすく言うと、「税金の使い道を決める人」。国民から集めた税金を、福祉に使うのか、教育に使うのか、はたまた国防に使うのか――そんなことを話し合い、決定するのが政治家の仕事です。  さらに、政治家は法律をつくったり、憲法を変えたりすることもできます。たとえば、いまの日本では、憲法によって戦争をすることができない状態にありますが、その憲法を改定し、いつでも戦争ができるようにすることもできます。それだけ、政治家の仕事というのは重大なものなのです。  さて、ここで昨日から寄せられたみなさんの意見に戻ってみましょう。まず、みなさんの声でいちばん多かったのは、「だれに入れたって同じ」「結局は何も変わらない」。たしかに、これまでの経験を振りかえると、そうした考えになってしまいますよね。期待しては裏切られ、また期待しては裏切られ――の繰り返し。でも、本当に「だれに入れても同じ」なのでしょうか。  たとえば、上でも述べたように、他国の言いなりにならぬよう、憲法を改正して、戦争ができる国にしようと考えている政党があります。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、憲法を変えてはならないと主張する政党もあります。これが、「同じ」と言えるでしょうか。憲法についてだけでなく、ほかの政策においても、各党によって大きな「ちがい」があります。  みなさんは、政権が代わることで、「がらっと世の中が良くなる」と妄信してはいないでしょうか。だから、そこまで大きな変化が感じられないと、「ほら、やっぱり何も変わらない」となる。でも、きちんと評価してみれば、変わった点だってある。今回、自民党から民主党に政権が移ったことで変わったこと、いくつもあるんですよ!  もちろん、それを「良い変化」ととらえるか、「悪い変化」ととらえるかは、個人によると思いますが、とにかく「何も変わらなかった」わけではない。その変化を望んだのは僕らだし、その変化を実現させたのも僕ら。僕ら一票、一票の積み重ねが、その変化を生みだしたのです。  次に多かった声は、「入れたいと思う政党や候補者がない」。とくに支持している特定の政党や候補者でもいないかぎり、たしかに僕たちの目には「政治家というのは、なんだか信用できない存在」と映ってしまいますよね。ですが、それはメディアによる影響も大きいと思うのです。  たとえば、僕には、いくつかの党にバッジをつけた数人の知人・友人がいますが、なかにはみずからの身を削り、まっとうな感覚を持って仕事をしていると感じられる議員がいます。もし、彼らが僕の選挙区にいたなら、僕はきっと彼らに投票するだろうと思います。  でも、僕はそんな彼らに対しても、全面的に賛同するということはないだろうと思っています。憲法改正やTPP、原発や経済、年金や教育、福祉――国政にはさまざまな局面があり、各党はそれぞれの課題についての意見を持っています。そのすべてが自分の意見と一致することなど、まずありえません。  だったら、せめて「いちばん考えの近い」候補者に託すしかないと思うのです。最近では、「日本政治.com」など、自分の考えにいちばん近い政党や候補者を見つけてくれるサイトもいくつか登場しています。これらのサイトを利用して、「いちばん考えの近い」候補者に一票を投じてみてはどうでしょうか。  それでも、「自分の思いを託したい」と思う政党・候補者が見つからないこともあるでしょう。そうした場合、「絶対にここだけはイヤだ」と思う政党・候補者以外に投票するという考え方はどうでしょう。僕も、今回の選挙はどこに、だれに投票するかかなり迷っています。ですが、ひとつだけ「絶対にイヤ」な政党があります。だから、その政党に少しでも対抗してくれそうな選択肢はどこかと、必死に頭をめぐらせています。  以前にも書きましたが、いまの政治は、おもに投票してくれる高齢者に向けた政策が重視されています。政治家もバカではないから、そんなことばかりしていたら国がパンクすることはわかっているのに、やっぱり票が欲しいから高齢者のほうばかり向きます。でもさ、このままだと、マジでやばいぜ。若者の負担、どんどん増えていくばかりだよ。 「どうせ変わらない」  たぶんね、今回の選挙結果だけでは、すぐに変わらない。みんなの言うとおりだよ。でも、安西先生も言ってたじゃん。 「あきらめたら、そこで試合終了ですよ…?」  若者にも政治に関心があること、若者も票を持ってることを、今回の選挙で少しでも見せてやろうぜ。そうしたら、少しずつ、政治家の目もこちらに向いてくる。若者にも目線を向けた政策を考えてくれるようになる。その次の選挙で、僕らはそうした候補に票を入れていく。そして、またその次の選挙で――。  すぐには、むずかしいと思う。でもさ、オレはあきらめたくない。だってさ、オレたちの国じゃん。無関心じゃいられないよ。「どうせ変わらないから、指くわえて見てろ」だって? 俺にはくわえる指もないからさ、こうやってあがいて、さけんで、勉強していくよ。  なんだか、最後には文体も変わっちゃった。まあ、いいや。少しでも、みんなにこのメッセージが届いたなら、うれしいな。


だるまの目入れは差別か

 「だるまの目入れは差別か」――http://t.co/mNlwAA0j 視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全という偏見意識を育てることにつながりかねない」というクレームがあったことで、選挙事務所からだるまが姿を消しつつあるという。  この記事を読んだ多くの方々の感想は、「考えすぎ」「そんな意図はないはず」。たしかに、だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、「ブラインドタッチ」「目が節穴」という言葉さえ使ってはならないのだとか。いずれは、「視野が広がる」なども使えなくなってしまうのだろうか。  これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。  障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。  だが、ここで忘れてはならない視点がある。彼らはなぜ、「それしきのことで」差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。そうした事柄に対する是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある。  僕はよく障害をネタにしたジョークをつぶやく。笑ってくださる方もいれば、凍りつく方もいる。なかには、「そんなこと笑いのネタにするものではない」とご立腹なさる方もいる。その反応は、様々だ。だが、こちらのまとめ( http://t.co/QIkUdX1g )を読んでいただければわかるように、僕は自分の障害を“負”だととらえていない。僕自身はみずからの障害について、ただの特徴だと思っているから、「それにいちいち目くじらを立てられても……」と困惑するのだ。  しかし、僕がそう思えるのは、僕にとって障害はただの特徴で、けっして“負”ではないと思えるのは、その生い立ちが大きく影響しているように思う。『五体不満足』をお読みの方はご存じのとおり、僕はいじめを受けたこともなければ、障害によって大きな制限を受けたこともない。両親に愛され、健常者とともに楽しく過ごし、成長してきた。そこには様々な理由があるだろうが、結果として僕は障害を“負”と感じることなく、むしろそれを笑い飛ばすようになった。  だが、そうした障害者ばかりではない。いや、むしろ、僕のように恵まれた環境で育った障害者は少数派かもしれない。親にも受け入れられず、幼少期にいじめに遭い、苦しみとともに育ってきた方に、「乙武のように障害なんて笑い飛ばせ」と言っても無理があるし、僕らが「それしきのこと」と感じることにも敏感に反応したり、「やめてくれ」と思ってしまうその感情も、無理からぬことかもしれない。  「いやだ」という人に、「そんなの気にしすぎだ」と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい。そして、幼少期に「障害がある」という理由だけでつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい。  「だるまの目入れは差別か?」という記事から、ずいぶん長くなってしまいました。みなさんにとっての考えるきっかけとなれば幸いです。以上、エロだるまがお送りしました。


乙武洋匡公式サイト|OTO ZONE |
©2014 Office Unique All Rights Reserved.