OTO ZONE

Monthly Archives: 5月 2011

運動会でのお弁当

みなさん、こんにちは。 ブログは、約一ヶ月ぶりの更新となってしまいました。 楽しみにしてくださっているみなさん、ごめんなさい。 さて、今日は「運動会」について。 東京では降り続いた雨の影響で、今日が運動会という学校も 多かったみたい。すると、それに関連して、ツイッターで友人が こんなつぶやきをしているのを見かけました。 【最近の小学校の運動会、昼ご飯は校庭で食べないらしい。 みんな教室で食べるんだって。親も家で食べたりするようです。 天気良ければ、外で食った方が気持ちいいのになー。 親が来られないとか色々あるのだろうけど、 その辺は工夫して外で食べるぐらいはできるんじゃないかと、思ふ。 無責任な発言ですが。】 僕が昨年3月まで勤務していた杉並第四小学校では、運動会の日、 子どもたちも家族と一緒に校庭やベランダでお弁当を広げていました。 でも、新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」 として新宿区立の小・中学校を回っていたときには、運動会の日でも 給食を出し、子どもたちは教室のなかで食べるという学校もあった。 大人たちはさみしく、子どもたちのいなくなった校庭で弁当を食べるか、 なかには一度家に帰り、午後になって出直してくるという家庭もあった。 子どもを教室に入れてしまう理由は、「親が来れない子が傷つくから」、 「弁当格差によって、パン1枚しか持たされない子が傷つくから」。 前から言っているように、何でも傷つけないようにビニールハウスで囲い、 温室栽培をすることが教育ではないと思っている。 それぞれの資質や能力、容姿や家庭環境は生まれもったものであり、 その前提を変えることはなかなか難しい。「違い」は、たしかに存在する。 いくら学校が、その「違い」を感じさせないような配慮しても、 社会に出ればビニールハウスで囲ってくれる存在などいないのだ。 寒風にも、害虫にも、すべて自分の力で立ち向かっていくことになる。 つまり、傷つく機会はいくらでもある。 子どもたちには、そのときまで「違い」があることに気づかせず、 無菌状態のまま社会に送り出すことのほうが、僕は無責任だと思う。 「私の家はお母さんが来れなくてさみしい」 「あの子の家の弁当は豪華だから、うらやましい」 もちろん、運動会にそんな苦い思い出を持つ人もいるだろうう。 だから、そう感じる子が出ないように、みんなで教室に入り、給食を。 そんな“平等”を図ることが教育なのか。僕は、そうは思わない。 社会に出れば、傷つくこともある。挫折することもある。 そんなとき、どう立ち上がり、ふたたび歩いていけばよいのか。 そんな経験をさせておくことのほうが、よほど教育的だと思うのだ。 絶対的に存在する“違い”に布をおおいかぶせ、「みんな平等だよ」と うそぶくことが教育だとは、僕は思わない。 もちろん、学校だけを一方的に批判するつもりはない。 「このことで、うちの子が傷ついたらどうするんだ?」と厳しい調子で ご意見を寄せる保護者の存在があることも、決して忘れてはいけない。 でも、学校にはそうした声にも、もう少し毅然と対応してもらいたいのだ。 学校はサービス業じゃなく、教育機関であるべきだと思うから。 ここまで書くと、ツイッターには賛否さまざまな意見が寄せられた。 そのなかに、こんな質問があった。 【同意ですが、具体的に運動会の昼ごはんがパン1枚で傷ついた子の 挫折感、悔しい気持ちに、教師はどう向き合うべきなんでしょうか?】 たとえば遠足の日、僕はあらかじめコンビニでサンドイッチひとつを 買っておき、弁当の時間になると、日頃の家庭環境からお弁当が 望めなさそうな子どものとなりにすわり、そのサンドイッチを広げた。 「同じだね」 子どもは、それだけでホッとした顔をする。 みなさんからの意見でとても多かったのが、 「そんな子がいても、『うちと一緒に食べよう』と声をかけてあげるのに」。 これが「地域で子どもを育てる」ということなのだと、うならされた。 しかし残念ながら、そうした地域のつながりや結びつきも、 いまや失われつつある。 今回のツイートと、みなさんからのご意見を読んで、 「まちの人と協力しながら、まち全体での子育てを」という理念のもとに 今年4月開園させた「まちの保育園」が目指す方向性は、 決して間違っていなかったと確認することができました。 不平等を生き抜く強さを育てることと、それを支える人々の存在。 このふたつの重要性を実感するといともに、まさに僕自身は、 このふたつの要素によって、ここまでこれたのだと感謝するばかりです。


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