社会による殺人
先日、自殺で亡くなった方の遺族らによる団体からお話しを聞く機会を得た。彼らは、「自殺」ではなく「自死」という言葉を使った。「自殺」という言葉は、非人道的であり、犯罪的なニュアンスを含む。みずから命を絶つことは、けっして悪ではない。病気や事故で亡くなる方がいるように、自死という最期もあるのだ、と。
たしかに、遺族の方々の多くは、深い悲しみとともに、「どうして気づけなかったのか」「本当に救えなかったのか」という後悔や罪悪感に襲われてしまうのだろう。そのとき、「自殺は悪である」という考え方は、いよいよ自分たちを苦しめることになる。だから、自死という選択を認める。受け入れる。
ただ、この価値観を広く社会に広めていくことに、僕はまだ抵抗がある。いま、まさに苦しみの渦中にいる方に、「自死という選択もあるんだよ」と伝えていいのか。生への執念を捨てさせてしまうことにはならないか。みずから命を絶つことへのハードルをあまりに下げてしまうことへの危惧がある。
だが、お話を聞くうち、僕は「自殺」という言葉にも、「自死」という言葉にも違和感を覚えはじめた。気になったのは、2文字目ではない。「自」――彼らは、本当にみずからの意志で逝ったのか。本当は、生きたくて、生きたくて、仕方がなかったんじゃないか。死にたくなんて、なかったはずだ。
最期まで生への希望を失わず、もがき、あがいたけれど、それでも限界を超えてしまったその人を、僕は責める気になれない。苦悩の末にみずから命を絶った人を「根性がない」「精神的に弱い」などとなじることはできない。彼らは積極的に死を選んだのではなく、選ばざるをえなかったと思うのだ。
そう考えると、自殺とは、みずから命を絶つことではないのかもしれない。誤解をおそれずに言えば、「社会による殺人」なのだ。この国は、レールから外れた生き方をする人がとても生きにくさを強いられる社会であると思う。この排他的な空気は、自殺の大きな原因のひとつであるように思う。
それは、大津の事件にも同じことが言える。あれは、いじめによる自殺などではない。れっきとした殺人事件なのだ。加害者だって存在する。いじめていた少年たち、見て見ぬふりの教師、校長、教育委員会、被害届を受理せずにいた警察署――それだけじゃない。そうした社会をつくりあげてきた、僕ら、一人ひとり。
加害少年や学校関係者、教育委員会やその他の関連機関を非難することはたやすい。自分が「正義」の側に回れるからだ。だが、それだけでいいのか。自分がその場にいたら、はたして適切な行動で少年を救えていたのか――。おそらく、胸を張って「YES」を答えられる人は、そう多くないだろう。
対岸の火事をながめるだけなら、だれにでもできる。真価が問われるのは、こちら岸に火の手があがったとき。僕が担任なら、どうしただろうか。あなたがクラスメイトなら、どうするだろうか。それを必死に考え、今後に生かしていくことが、少年に対するせめてもの供養になるのではないだろうか。
大津の中学生だけでなく、みずから命を絶った方々の苦悩に思いをはせると、胸が詰まる思いです。どんな社会にしていけば、少しでもそうした方々を減らしていくことができるのか、今後も考えを深め、僕なりに行動していきたいと思っています。みなさんにも、ぜひ考えていただければ幸いです。
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