朝日新聞「逆風満帆」(上)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」のコーナーにて、
今年1月29日(土)から3週にわたり、乙武洋匡が特集されました。
朝日新聞様のご厚意により、当サイトにも掲載させていただくことに!
本日は、第1回(上)・「著書がもたらした『障害』」です。
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昨年暮れ、乙武洋匡(34)は全国を飛び回っていた。秋に初めての小説『だいじょうぶ3組』(講談社)を出版して以来、講演行脚が続いている。
重度の障害を苦にせず、伸びやかに生きてきた半生をつづった『五体不満足』(同)のブームから、13年がたった。07年春、乙武は7年間続けたスポーツライターをやめて公立小学校の教師になった。3年の任期終了後、その様子を描いたのが、今回の小説だ。
「なぜ教員になったか、不思議に思われますよね」。川崎市での講演会で、乙武は話し始めた。
転機は03年。長崎市で12歳の少年が幼稚園児を殺害した。翌年、長崎県佐世保市では11歳の少女が同級生を刺殺。被害者だけでなく加害者のことが気になった。
「よりよく生きたい、と生まれてきたはずなのに、事件を起こさざるを得なかった。『寂しいよ。苦しいよ。壊れちゃうよ』。彼らが発したはずのSOSに、大人は気付いてあげられなかった」
静かな中に熱のこもった、乙武の声だけが響く。「僕は両親や先生、周囲の大人に恵まれた。僕も、次の世代のために何かしたいと思ったんです」
先天性四肢切断という障害をもった乙武が生まれた1カ月後。母・良子は、初めて対面した息子を「かわいい」と抱きしめた。気を失ってしまうのではとベッドまで用意した、周囲の懸念をよそに。
「超天然」の母と、おしゃれで優しい建築家の父賢二(01年死去)。「いつも、大事に思っていると伝えてくれた。そういうのがくすぐったい時期もあったけど、我が家は愛に満ちていました」
食べる、書く、ハサミを使う……無類の負けず嫌いの乙武は、何でもやってみたがり、どうしてもできないことだけ「これは、僕にはできないことなんだ」と納得した。両親は手も口も出さず、気が済むまでやらせた。
両親の希望がかない、世田谷区立小では普通学級で過ごす。担任の故・高木悦男は、乙武が車いすに乗ることを禁じ、自力で歩かせた。子どもたちにも必要以上の手伝いをしないよう教えた。子どもたちは自然と乙武が困れば手をさしのべ、例えばサッカーでは、乙武のシュートだけ3点というような「オトちゃんルール」を作り、楽しく遊ぶようになった。
中学、高校では、なんと運動部に所属。1浪して進んだ早稲田大学時代には、街づくりのサークルで先頭に立った。
●あたたかい自己肯定感
「なぜこんな体に、と運命や周囲を恨んだりしたこと? ないですねえ」と乙武。確かに、話していると、彼が障害者であることを忘れてしまうが、疑問もよぎる。人はそれほど強くなれるのか。つらいと思わなかったんですか? 失礼を承知で何度か聞いてみた。
答えはいつも同じだった。周囲のおかげで、僕はあたたかな自己肯定感に守られてきたんですよ。
「彼は、バリアを減らしちゃうしね」。新宿・歌舞伎町でホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)は言う。「いつも、あらゆることを想定して、バリアになるべく遭遇しないですむように、作戦を立ててるんですよ」
街づくりの様子が報道され、乙武に注目が集まった。その縁で98年、『五体不満足』が出版されると、その後、文庫本も含め580万部に及ぶ大ベストセラーに。「重い障害を乗り越え、けなげに生きる青年」に取材が殺到した。
だが乙武は戸惑った。押し寄せた称賛は「重度障害者なのに」が前提。本人が特徴のひとつと受け止め、友人たちも忘れがちな「障害」が、突然のしかかってきた。
両親までマスコミに追いかけられた。言っていないことを書かれ、後に妻となる恋人とも会いづらくなった。一部の障害者から、「障害者と健常者の間にある問題から目をそらす口実を与える」などの声も聞こえてきた。
1年以上、吐き気がとまらず、脳のMRI検査までした。「『五体不満足』という十字架をおろしたい、と思っていました」
数々の出会いやチャンスをもたらした『五体不満足』は、乙武に、人生初にして最大の逆風も運んできたのだった。=敬称略
(魚住ゆかり)
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