OTO ZONE

パラリンピックをなくしたい!

2012年9月3日

「乙武さんはパラリンピック出場を目指したことはありますか?」

 つい先日、こんな質問を受けた。結論から言うと、これまでに一度もない。でも、五輪になら出場したいと考えていた時期がある。“氷上のチェス”とも呼ばれるカーリングなら何とか僕にもできないだろうか、リュージュやスケルトンならどうだろうか…などと本気で考えていた。

 幼い頃から、みんなと同じことをしただけでほめられることが多かった。歩く、食べる、字を書く――それだけで「すごいね」と称賛された。なぜ、みんなと同じことをしているだけなのに、僕だけがほめられるのか。そこには、「障害者だから、どうせできない」という前提があるのだろう。そう考えると、ほめられていながら、どこか下に見られているような気がして、複雑だった。

 だから、「障害者にしては」と評価されることがイヤだった。勉強でも、字のきれいさでも、どんな分野でも、純粋に、クラスで一番になりたかった。だから、パラリンピックではなく、五輪に興味があった。身体障害者が、健常者も出場する大会で“てっぺん”獲ったら、世界中が驚くだろうな、と。

 もちろん、「オリンピック>パラリンピック」と考えているわけではない。その価値は同等であり、出場者およびメダル獲得者は、どちらも称賛されるべきだと思っている。また、その大舞台に至るまでの過程において彼らが積んできた努力を思うと、それが障害者であれ、健常者であれ、尊敬に値する。

 それでも、あえて誤解を恐れずに言うならば、将来的にパラリンピックはなくなってほしいと思っている。もちろん、障害者アスリートが活躍できる檜舞台をなくせと言っているわけではない。オリンピックとパラリンピックが統合され、いずれ、ひとつの大会として開催されることを望んでいるのだ。

 たとえば、柔道。五輪でも、男女とも体重によって7つの階級に分けられている。それは、同じ競技とは言え、あまりに体重が異なる選手同士が試合を行うのは不公平だからだ。ならば、100m走に、「一般の部」「視覚障害の部」「聴覚障害の部」「車いすの部」など、様々な“階級”があってよい。 今回、義足ながらオリンピック男子陸上にも出場して物議をかもしたオスカー・ピストリウス選手のように、障害がありながらも「一般の部」に出場する選手がいたっていい。

 もちろん、パラリンピックはリハビリの一環として始まったもので、本来、五輪とは趣旨も、目的も違っていた。だが、パラリンピックもここ数大会で一気に競技性が高まり、五輪、またIOC(国際オリンピック委員会)との結びつきも強まってきた。もう、統合を考えてもいい時期に来ているように思う。

いずれにせよ、日本はパラリンピックを軽視しすぎだろう。先日も指摘した放送数の少なさだけでなく、銀座でのパレードもなぜパラリンピック終了を待たず、五輪終了後にそそくさと行ってしまうのか。五輪招致を目指す国としては、そうした国際感覚とのズレを認識し、見直す必要があるように思う。

 パラリンピックは障害の状況によってクラス分けが細分化されており、メダルひとつの価値が低くなる、という指摘もある。五輪と統合すれば、ますますクラス分けは複雑化し、そうした声も大きくなるだろう。また、ただでさえ五輪の肥大化が問題視されているなかでパラリンピックとの統合を行えば、宿泊施設の確保など、ハード面でクリアしなければならない課題も山積みとなるだろう。

 だが、それらの課題を真正面から検討し、いずれひとつの大会となることを望んでいる。


『NHKアーカイブス パラリンピック4冠をめざせ! 車いす陸上・伊藤智也選手』 『PON!』
『NHKアーカイブス パラリンピック4冠をめざせ! 車いす陸上・伊藤智也選手』
『PON!』
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