障害者だってアイドルをあきらめなくていい
「車椅子アイドル」が誕生するかもしれない——。アイドルグループ「仮面女子」の猪狩ともかさんが強風の日に看板の直撃を受け、脊椎を損傷。今後は車椅子生活になるという。報道によると、現在は入院中だが、退院後は再び「仮面女子」として活動を続けるという。
人生の途中で歩けなくなるという苦難は、生まれつき障害者だった私にさえ想像できないほどの悲しみや悔しさ、もどかしさがあると思うけれど、猪狩さんには、ぜひアイドルの世界に新たな地平を開いていただければと、勝手ながらエールを送らせていただくことにする。
このニュースはYahoo!トップでも掲載され、多くの反響を呼んでいる。以前からのファンだけでなく、私のように今回の報道で彼女のことを知った人々も「頑張れ」「あきらめるな」とあたたかなエールを送っている。そして、車椅子に乗って20年近く表舞台に立ってきた人間からすると、困難がないとは言わないが、猪狩さんはアイドルであることをあきらめる必要はまったくないだろうとも思っている。
だが、世の中には障害者になったことで何かをあきらめなければならなくなる人がゴマンといる。猪狩さんはたまたまアイドルという立場にいたことによって今回の人生の転機が多くの人に知られることになったが、彼女のような悲運に見舞われ、人生を大きく迂回することになる人が本当に多くいる。それまでの仕事を失ったり、それまでの住居に暮らすことが困難になったり、それまでの人間関係を維持することができなくなったり——。とにかく、障害者になると多くの「それまで」を手放すこととなってしまう。
そうした事実を、私たち社会の成員はどのように受け止めたらいいのだろう。
「残念だったね」
「運が悪かったね」
「仕方ないよね」
そんな気休めにもならない言葉で済ませてもいいものなのだろうか。しかし、残念ながら現実はそうなっている。どんなに嘆いても、憤っても、泣いたり叫んだりしても、障害者になった途端に多くのことを手放さなければならない社会が、厳然として、ここにある。
猪狩さんの報道を機に、みなさんにも考えてほしい。そんな社会のままでいいのだろうか。くじ引きの中に「障害者」というハズレくじが存在し、それを引いてしまったら、「残念だけど、これまでの日常も夢も希望もすべてあきらめてください」と残酷な宣告を受ける社会でいいのだろうか。
もちろん、個人の努力や周囲のサポートによって、ある程度まではあきらめることなく手中に収められるものもある。だが、それは周囲の想像を絶するほどの努力であり、鋼のメンタルを必要とする。すべての障害者にそれを求めるのは、あまりに酷と言える。
障害者が、健常者とまったく同じように暮らせるようになるとは思っていない。だが、その間に存在する「できること」の差がなるべく小さい社会のほうが、私は豊かで美しいと感じている。それは建造物や制度や人々の意識を変えていくことで、いくらでも改善していくことができる。だが、こうした改善の必要性を叫ぶと、「障害者特権を振りかざしている」と非難を浴びるのが現状だ。
特権とは、文字どおり「特定の人々に与えられる、他に優越した権利」のことだ。ふざけるな。何が特権だ。「できないこと」「あきらめなければならないこと」「唇を噛んで我慢しなければならないこと」を抱える人々が多くいる。彼らに少しでもそんな思いをさせない社会を目指すことを「特権」だと揶揄されたのではたまらない。そんなに羨ましいのなら、いますぐ障害者になって、その特権とやらを享受すればいい。
R-1グランプリで優勝した濱田祐太郎さん。車椅子になっても活動を継続すると宣言してくださった猪狩ともかさん。こうした若くて才能に溢れた方々の活躍をみんなで祝福する一方で、誰もが自分の特性を生かして活躍できる社会を実現していきたいと思う。スキャンダルですっかり商品価値を失った私にできることには限りがあるが、しかし、それでもあきらめずに、いま自分ができる範囲のことを愚直にやっていきたいと思う。
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