OTO ZONE

「ネルソン・マンデラが目指した“虹の国”」

2014年1月9日

 前回のブログにも書いたとおり、ケープタウンでは様々な場所を訪れることができたが、唯一の心残りがある。それは、ロベン島に行けなかったことだ。ロベン島とは、多くの観光客でにぎわうウォーターフロントから約14kmの沖合にある島で、かつては政治犯などを収容する黒人専用の刑務所が存在していたという。約30年間で3000人近くもの政治犯を収容していた刑務所は1996年に閉鎖され、現在は島全体が博物館として観光名所となっている。1999年には、世界文化遺産にも登録されたという。

 僕がこのロベン島を訪れたかったのは、なにも世界遺産だからというわけではない。のちに大統領となる故ネルソン・マンデラ氏も、このロベン島に収容されていたというのだ。若くして反アパルトヘイト運動の指導者として活動してきたマンデラ氏は、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。その後、27年間にも及ぶ獄中生活を送ることになるのだが、その大半をこのロベン島で過ごしたという。マンデラ氏がどのような場所で時を過ごし、どのような思索に耽っていたのか。少しでも肌で感じたいとの思いからロベン島に渡ろうとしたが、先月のマンデラ氏逝去により訪問客が激増。来週まで予約でいっぱいだと断られてしまった。

 1990年に釈放されたマンデラ氏は、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。オランダ系白人である当時のデクラーク大統領とともにアパルトヘイト撤廃に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した。さらに1994年、南アフリカで初めて全人種に選挙権が与えられた選挙において、黒人初の大統領に就任。27年間もの獄中生活を送っていた人物が、晴れて国内の最高指導者として選出されたのである。

 黒人大統領が誕生したことで、南アフリカじゅうの白人たちは恐怖におののいた。これまで抑圧の対象だった黒人の側に権力が移行したのだ。今度は自分たちが同じ目に遭わされるに決まっている――。それは大統領官邸で働く白人スタッフにとっても同じことで、彼らはマンデラ氏就任と同時にクビを切られることを覚悟し、早々に荷物をまとめていた。だが、そんな彼らに向かって、マンデラ氏はこう伝えたのだという。

 「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカをつくるために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」

 このエピソードからもわかるように、彼は白人に報復することを選ばなかった。あくまで「憎悪より融和」「報復より許容」を掲げ、民族の和解と協調を呼びかけた。プレトリアで行われた大統領就任演説では、こんな言葉を残している。

 「黒人や白人やすべての南アフリカ人が、いかなる恐怖心も抱かずに胸を張って歩くことができ、人間の尊厳が保証された社会を建設することを約束する。この国は、(多人種で構成された)“虹の国”だ」

 黒人運動の指導者だった時代は、あくまで武力によって問題を解決しようと考えていた。だが、長年に渡る獄中生活でその過ちに気づいたマンデラ氏は、自分たちを支配してきた白人を許し、彼らと協調を図ることで新しい時代を築いていくべきだと考えを改める。獄中で自分たちの支配者の言語であるアフリカーンス語を学びはじめたのも、彼らと直接対話することで新時代の幕開けを図ろうとしたのだろう。

 偉大なる足跡を残して昨年12月にこの世を去ったネルソン・マンデラ氏。しかし、彼の目指した“虹の国”が理想通りに実現したとは言いがたい。アパルトヘイト撤廃から20年が経ったものの、いまだ経済的に恵まれず、貧困にあえぐ黒人も少なくない。そうした黒人たちの苛立ちを反映するように、社会には白人を糾弾するメッセージが目立ちはじめ、黒人至上主義を掲げる政治家に人気が集まる傾向にあるという。

 マンデラ氏が掲げた融和と許容の精神は、このまま過去のものとなってしまうのだろうか――。複雑な思いを抱きながらホテルへと戻るバスに揺られていると、山の向こうに大きな虹が架かっているのが見えた。

 「“虹の国”は、過去のものとなったわけではない。まだ実現に向けた道中にあるのだ」

 虹の向こうから、マンデラ氏がやさしく語りかけてくれているような気がした。


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