Yearly Archives: 2012
ストライクゾーンという幻想
新刊『ありがとう3組』が、ついに発売となりました。なぜ、映画化まで決まった『だいじょうぶ3組』の続編を書こうと思ったのか。それは、前作にはどうしても盛り込めなかった内容が2つあったから。ひとつは、「発達障害」。ひとつは、「親子の関係」。今日は、「発達障害」について書いてみたいと思います。 まずは、こちらをお読みください。「発達障害について、正しい認識を(http://togetter.com/li/297720)」――これは今年5月、大阪維新の会による家庭教育支援条例(案)に対して僕が感じた疑問と、発達障害の当事者やご家族の方々からのコメントをまとめたものです。 お読みいただいてわかるように、いまの日本の社会において、発達障害に対する正しい理解・認識はそれほど高くありません。それだけに、その当事者やご家族は、この社会にかなりの息苦しさ、生きづらさを抱えていることでしょう。それは、僕が3年間の教員生活のなかでも、強く感じていたことです。 現在の教育現場では、診断を受けていないケースや軽度も含めれば、各クラスに1~2人は発達障害のお子さんが在籍しています。もちろん、僕のクラスにもユニークな特性を持つお子さんが何人かいました。彼らとどう向き合い、どんな指導をしていくのか。これは現場で喫緊の課題だと感じていました。 新刊『ありがとう3組』には、泰示という発達障害のある転入生が登場します。強烈な個性の出現に、周囲は面食らい、ドン引きし、拒否反応を示します。ある意味、それは自然なことだとも思います。でも、そのまま彼を孤立させるわけにもいかない。だけど、彼の欲求にすべて応えれば、秩序が乱れていく――。 これは主人公・赤尾だけの悩みではなく、現場に立つすべての教師の悩みと言っても、過言ではありません。まさに、今日の教育現場における大きな課題と言っていい。でも、課題と認識されはじめてから日が浅く、研究もそこまで進んでいるとは言いがたい。だからこそ、「正解」はなく、教師一人ひとりが悩みながら、暗中模索している。 主人公・赤尾も、彼なりのやり方で泰示と向き合い、周囲との溝を埋めていこうと努力します。これは赤尾の手法であり、教師としての僕の手法でもありました。でも、職員室のなかでは、僕と(赤尾と)正反対の対応をする先生もいました。いまでも、どれが正解なのかはわかりません。けれど、これだけは言いたい。 大人は、社会は、勝手にストライクゾーンを作り出し、そこに子どもたちをはめこもうとする。そして、どうにもその枠にはまらない子に対しては、眉をひそめたり、声を荒げたり。発達障害の子どもたちは、そうしたストライクゾーンから最も遠くに位置する存在。彼らの生きづらさは、想像を絶します。 でも、よく考えてみれば、そのストライクゾーンは、大人たちが効率のいい社会にするために勝手に作り出したもの。発達障害のある子どもたちは、決して「悪い子」なんかじゃない。ただ大人たちにとって、「都合の悪い子」であるだけなのです。「困った子」ではなく、当事者自身が「困っている」のです。 以前から繰り返し述べているように、障害者は「劣っている」のではなく、「違っている」のだと思っています。それは、発達障害に関しても同じ。日本が真に成熟した社会となっていくには、この「違い」に対して寛容になることが重要だと思っていますが、発達障害者への意識、対応は、まさにその試金石。 新刊『ありがとう3組』が、当事者やご家族の苦悩を知るきっかけとなり、みなさんが発達障害に対する考えを深める端緒となれば、これ以上の幸せはありません。また、当事者やご家族の方にもお読みいただき、ご意見をいただければうれしく思います。 『ありがとう3組』(講談社) http://ototake.com/books/209/
ありがとう3組
映画化された感動作『だいじょうぶ3組』の続編。 6年生に進級した子どもたちと赤尾先生の卒業までの日々。 万引きやいじめ、親子の葛藤――。 前作を超える感涙必至のエピソードが満載です! 発行:講談社 税込価格:1,470円 購入はこちらから
幸せの定義
先日、映画『夢売るふたり』を観た。『ゆれる』や『ディア・ドクター』等の作品で知られる西川美和監督の最新作。同時期に観賞した『最強のふたり』とは対照的な作品で、笑いや涙を誘うような場面はない。ただ、人間の弱さをじっくりとあぶりだし、観賞後に「幸せって何だろう?」と考えさせる良作だった。 松たか子と阿部サダヲ演じる夫婦が、火事で焼失してしまった小料理屋を再開するため、結婚詐欺を働く。だから、物語には騙される様々なタイプの女性が登場する。彼女たちには、共通点があった。彼女たちは、「幸せ」を追っていた。「幸せ」に飢えていた。でも、何が「幸せ」なのかをわからずにいた。 Twitter上で、フォロワーの方々からよく質問を受ける。先日も、「幸せの定理とは?」と問われた。どんな状態を「幸せ」と感じられるのかは、人それぞれ。万人に当てはまる答えなどない。なのに、多くの人が「幸せ」の定義を他者に任せる。もしくは、巷間言われる「幸せ」のカタチを、盲目的にみずからの解とする。 女性で言えば、結婚・出産。この2つを通らなければ「幸せ」にたどり着けないと妄信する人が、あまりに多い。たしかに夫と子どもに恵まれ、よき妻、よき母となることは、わかりやすい「幸せのカタチ」だ。だが、それはあくまでひとつのケースに過ぎない。それが唯一絶対の幸せでは、決してない。 自分にとっての「幸せ」とは何か。そこに思いを巡らせる行為を怠り、世間一般の「幸せのカタチ」を鵜呑みにすることほど、危険なことはない。ほんの一例にしか過ぎない「結婚・出産」という列車に乗り遅れそうだと焦り、あわてて飛び乗ってみれば、「こんなはずじゃなかった…」とほぞを噛む。 「幸せとは何か」――もちろん、たやすく答えが出るものではない。でも、少なくとも他者にその答えを求めるのはやめにしよう。世間体とやらに幸せを預けるのもやめにしよう。自分で悩み、考え抜いたって、たどり着けるかはわからないのに、他者から与えられた答えを追って、何になるというのか。 結婚しなければ、幸せになれない――。 子どもを産めないなんてかわいそうに――。 手足がないなんて不幸な人生だ――。 そんなの、ぜんぶ、決めつけ。オレの幸せは、オレが決める。あなたの幸せは、あなたが決めればいい。だれの人生でもなく、あなたの人生なのだから。これはほかでもない、僕の人生なのだから。 「幸せの定義」を他者任せにして人生を歩んでいると、大きな落とし穴が潜んでいる。その落とし穴を、西川監督は「結婚詐欺」として表現したのかもしれない。そして、松たか子さん演じる主人公は、確固たる「幸せ」の定義を持っていたから、まるで揺るがないし、凛として見える。そこに、僕らが幸せを手にするヒントがある。 自分にとっての幸せとは、何だろう。親に言われたから結婚しようとしていないか。友人たちの出産ラッシュに焦りを感じていないだろうか。自分の人生には、本当に出世レースが必要なのだろうか。映画『夢売るふたり』は、あらためてそんなことを考える機会を与えてくれる作品でした。みなさんも、ぜひ。
『SAMURAI SOCCER KING』
9月12日(水)に発売された、 『SAMURAI SOCCER KING』(10月号・創刊号)に、 インタビューが掲載されました。 本田圭佑選手に対する想いを語らせていただきました。 是非、ご覧ください!
『PON!』
9月4日(火)『PON!』(10:25~11:25日本テレビ系) 「ハラハラトーク スタア秘宝館」のコーナーに生出演します。 乙武のお気に入りのおやつや、昔の写真もご紹介していただけるかも? ぜひ、ご覧ください!
パラリンピックをなくしたい!
「乙武さんはパラリンピック出場を目指したことはありますか?」 つい先日、こんな質問を受けた。結論から言うと、これまでに一度もない。でも、五輪になら出場したいと考えていた時期がある。“氷上のチェス”とも呼ばれるカーリングなら何とか僕にもできないだろうか、リュージュやスケルトンならどうだろうか…などと本気で考えていた。 幼い頃から、みんなと同じことをしただけでほめられることが多かった。歩く、食べる、字を書く――それだけで「すごいね」と称賛された。なぜ、みんなと同じことをしているだけなのに、僕だけがほめられるのか。そこには、「障害者だから、どうせできない」という前提があるのだろう。そう考えると、ほめられていながら、どこか下に見られているような気がして、複雑だった。 だから、「障害者にしては」と評価されることがイヤだった。勉強でも、字のきれいさでも、どんな分野でも、純粋に、クラスで一番になりたかった。だから、パラリンピックではなく、五輪に興味があった。身体障害者が、健常者も出場する大会で“てっぺん”獲ったら、世界中が驚くだろうな、と。 もちろん、「オリンピック>パラリンピック」と考えているわけではない。その価値は同等であり、出場者およびメダル獲得者は、どちらも称賛されるべきだと思っている。また、その大舞台に至るまでの過程において彼らが積んできた努力を思うと、それが障害者であれ、健常者であれ、尊敬に値する。 それでも、あえて誤解を恐れずに言うならば、将来的にパラリンピックはなくなってほしいと思っている。もちろん、障害者アスリートが活躍できる檜舞台をなくせと言っているわけではない。オリンピックとパラリンピックが統合され、いずれ、ひとつの大会として開催されることを望んでいるのだ。 たとえば、柔道。五輪でも、男女とも体重によって7つの階級に分けられている。それは、同じ競技とは言え、あまりに体重が異なる選手同士が試合を行うのは不公平だからだ。ならば、100m走に、「一般の部」「視覚障害の部」「聴覚障害の部」「車いすの部」など、様々な“階級”があってよい。 今回、義足ながらオリンピック男子陸上にも出場して物議をかもしたオスカー・ピストリウス選手のように、障害がありながらも「一般の部」に出場する選手がいたっていい。 もちろん、パラリンピックはリハビリの一環として始まったもので、本来、五輪とは趣旨も、目的も違っていた。だが、パラリンピックもここ数大会で一気に競技性が高まり、五輪、またIOC(国際オリンピック委員会)との結びつきも強まってきた。もう、統合を考えてもいい時期に来ているように思う。 いずれにせよ、日本はパラリンピックを軽視しすぎだろう。先日も指摘した放送数の少なさだけでなく、銀座でのパレードもなぜパラリンピック終了を待たず、五輪終了後にそそくさと行ってしまうのか。五輪招致を目指す国としては、そうした国際感覚とのズレを認識し、見直す必要があるように思う。 パラリンピックは障害の状況によってクラス分けが細分化されており、メダルひとつの価値が低くなる、という指摘もある。五輪と統合すれば、ますますクラス分けは複雑化し、そうした声も大きくなるだろう。また、ただでさえ五輪の肥大化が問題視されているなかでパラリンピックとの統合を行えば、宿泊施設の確保など、ハード面でクリアしなければならない課題も山積みとなるだろう。 だが、それらの課題を真正面から検討し、いずれひとつの大会となることを望んでいる。
『NHKアーカイブス パラリンピック4冠をめざせ! 車いす陸上・伊藤智也選手』
9月2日(日)13:50~15:00NHK総合 (近畿地方ではEテレ9月8日(土)1:30~) 「NHKアーカイブス」に出演します。 パラリンピック4冠を目指す車いす陸上・伊藤智也選手を追った番組を観ながら、 乙武曰く「命を燃やす姿に魂を揺さぶられる」 病と闘いな がら車いす陸上で金を狙う男の魂を見つめます。 是非、ご覧ください!
『「神の雫」とワインな1時間』
8月28日(火)20:00~21:00ニコニコ生放送にて、 『「神の雫」とワインな1時間』に出演します。 週間モーニングで連載中の漫画「神の雫」を参考に、 ワインのあらゆる知識を時には脱線しながらお届けします。 是非、ご覧ください!
24時間テレビへの思い
今年も24時間テレビが終わった。放送前、Twitterで「24時間テレビを放送するのと、パラリンピックを24時間放送するのと、どちらが障害者理解が進むのか」とつぶやき、みなさんから多くの反響をいただいた。だが、まだ僕自身の考えを述べていないことに気がついた。僕は、「どちらも一方では進まない」と考えている。 もう十年以上前の話だ。「24時間テレビでメインパーソナリティーを務めてほしい」という話をいただいた。今年で言えば、嵐のポジションだ。「ビジネス」として考えれば、それはオイシイ話だったのかもしれない。だが、僕は断ってしまった。あの番組による障害者に対する扱いが、一面的であるように感じたからだ。 もちろん、意義はあると思っている。募金による寄付額には無視できないものがあるし、何より「知ってもらう」ことのきっかけにもなる。だが、それでも、障害者を「かわいそうな人たちが、こんなに頑張っている」と扱ってしまうことに違和感を覚えたし、何よりその番組の“顔”となることに抵抗があった。 僕が子どもの頃、番組はいまよりも「貧困」に焦点を当てていたように思う。当時は僕も貯金箱の中身を持って、コンビニに募金しに行った。だが、いつからかずいぶん番組のテイストが変わってきた。そこに登場する障害者は、あきらかに憐憫の情で見られている気がした。僕は、番組を見なくなった。 だが、パラリンピックを放送すれば障害者理解が進む、とも思えない。彼らは、日々の研鑽を積み、大舞台で活躍する権利を得たアスリート。一般的な障害者像を体現しているわけでは、けっしてない。だから、パラリンピックを観戦した視聴者が得た「障害者って、こんなにすごいんだ!」という感想は、障害者の全体像を見誤らせる危険性をはらんでいる。 「健常者とはこういう人」とひとくくりにできないように、障害者にだって様々な人がいる。いまだ苦しみのなかにいる人もいれば、障害を受け入れ、克服し、まわりに勇気を与えるような生き方をしている人もいる。どちらが「いい」「悪い」という話ではない。どちらも「いる」という“現実”が大事なのだ。 僕に対して、「あなたのように恵まれている障害者ばかりではない」「おまえは特別だ」との批判もある。そのとおり。僕だって、あくまで“ほんの一例”に過ぎない。だから、僕の生き方、考え方が障害者を代表しているとは思ってほしくないし、ましてや「乙武さんだって、こう言ってる」「乙武さんはあんなに頑張っているのに」と他の障害者に押し付けてほしくない。 「乙武さんは、24時間テレビが嫌い」 そんな言説が流布しているけれど、「嫌い」という感情とも違う。ただ、障害者に対する扱いがあまりに一面的だとは思う。だから、何とか異なる手法でもプレゼンできないかと、十代の頃からずっと考えてきた。それが、『五体不満足』出版にもつながった。いわば、24時間テレビは、僕の原動力でもあった。 みなさんがこれまで抱いてきたであろう障害者に対する固定概念を、何とか打ち破ってやろう、違うスパイスを加えてやろう、そんな思いで出版した『五体不満足』。それが、あまりに多くの人が読んでくださったおかげで、今度は「乙武のような障害者ばかりじゃない!」と言われる“逆転現象”が起こり、困惑もした。 とかく、人はレッテルを張りたがるものだ。日本人はこういう人、女性とはこういう性格、障害者とはこういう存在――それが無意味なことは、わかっているくせに。障害者だって、同情されたくない人もいれば、同情されたい人もいる。泣きたい人もいれば、泣きたくない人もいる。本当に、いろいろな人がいる。 24時間テレビを見た方には、ぜひパラリンピックも観てほしい。NHKの『バリバラ』という番組も観てほしい。そうして、いろいろと知ってほしい。感じてほしい。考えてほしい。もちろん、そこでの感じ方、受け取り方は、各自の自由だ。
コーンスープともやしサラダ
ある晩、食卓にコーンスープともやしサラダが並んだ。4歳の長男が、もやしをコーンスープに入れて食べはじめた。あたりまえだが、妻はいやな顔をした。でも、僕はそれを止めるかどうか逡巡した。もちろん、これが公共の場であれば、「まわりの人がいやな気持ちになるんだ」と注意しただろう。でも、ここは食卓だ。少し事情が異なってくる。 たとえば息子が絵を描いていて、太陽を「黒」で表現したとする。でも、僕はそれを「おかしい」とは言いたくないし、赤いクレヨンを渡すこともしたくない。常人の発想とはちがうだけで、それが彼の“感性”だからだ。味も、同じ。将来、彼がフレンチのシェフになるかもしれない。そのときは、食材の組み合わせによって生み出される妙味も、料理の大きな魅力になってくる。「コーンスープ」+「もやし」は、これまでにない発見かもしれない。 僕も、妻も、凡人。でも、ひょっとしたら、息子たちは天才かもしれない。凡人の常識を押しつけることで、天才がつぶされることだけは、親として避けたいと思っている。だから、できるかぎり息子たちの発想を尊重したい。普段から、そんなことを意識しながら子育てをしている。 でも、妻は言った。「私のつくり手としての感情もある」――もっともだ。長男に少し待ってもらい、妻と話し合った。その結果、半分はスープに入れてOK、半分は出されたままの味で食べる、ということにした。長男もえらい。僕らが出した結論を聞き、半分はコーンスープに入れ、半分は「もやしサラダとして」食べた。 子育てに正解はない。また、夫婦で見解が異なることもある。たまたま今回は些細なことだったけれど、もっと重大な局面で意見が分かれるかもしれない。でも、そうしたときにも、相手の意見を尊重しつつ、子どもにとってベストな着地点を見出していけたらと思っている。 じつは、そうした子育てをしていくことで、こんな効果も期待している。 意見のちがう者同士が、相手の意見を尊重しながら、話し合いによって結論を出していく。両親が日頃からそうした姿勢を見せていくことで、いざ息子が意見の異なる相手と出くわしたとき、「相手の意見を尊重しながら」「話し合って解決していく」ということが自然にできるようになってくれたら――。父と、母の、ひそかな願い。