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映画『だいじょうぶ3組』
3月23日(土)映画『だいじょうぶ3組』が全国ロードショー! 乙武が小学校教員の経験をまとめた小説『だいじょうぶ3組』が、 ついに映画化されました! 監督に廣木隆一さん、主演の白石優作役にTOKIOの国分太一さんを迎え、 原作の主人公、赤尾慎之介役はなんと乙武洋匡本人が演じます! 是非、劇場でご覧ください!
自分を愛する力
なぜ僕は、生まれつき手足がないという障害を受けいれ、苦しむことなく、かつ明るく生きてくることができたのか。その理由がここに――。 自己肯定感をテーマにまとめた、初の新書。 発行:講談社現代新書 税込価格:798円 購入はこちらから
東京都教育委員就任にあたって
今月8日(金)、東京都教育委員の辞令交付式があり、猪瀬直樹都知事から発令通知書を受け取った。1956年に現行制度となって以来、史上最年少での就任となるそうだ。ここで、あらためて活動への思いを記しておこうと思う。 まず大切にしたいのは、5年間にわたる教育現場での経験だ。2005年からは2年間、東京都新宿区教育委員会非常勤職員「子どもの生き方パートナー」として、区内の小・中・特別支援学校を訪問した。2007年からは3年間、杉並区立杉並第四小学校教諭として、23人の子どもたちを担任した。 教育界は、現場の状況を顧みずにあれもこれもと欲張るきらいがある。IT教育も必要だ、英語教育も必要だ、道徳教育も必要だ――もちろん、その通りなのだが、それらを子どもたちにしっかりと指導する人材や予算を十分に確保しないまま、「やらなければならないこと」だけを次々と増やしてしまう傾向にある。 あるベテラン教師の言葉だ。 「昔の教師は、子どもたちと向き合うのが仕事だった。それがいまの教師というのは、書類と向き合うのが仕事になってしまっている」 現場の教師たちは、本来のキャパシティ以上に多くの荷物を背負わされ、悲鳴をあげている。おそらく、委員のなかでこうした状況を理解できている人は少ない。現場にいたからこそ持つことのできる視点は、忘れずに発信していきたい。 次に生かしたいのは、マイノリティとして生きてきた経験だ。僕は生まれつき手足がない身体障害者として生きてきた。多くの人とは異なる肉体を与えられたことで、つまり「少数派=マイノリティ」として生きてきたことで、多くの人には必要とされない特別な努力や工夫を求められる場面が多くあった。 だが、マイノリティとは身体障害者のみを指すわけではない。身体以外に障害のある子どもたちや、言語や国籍において少数派である子どもたち。さらには性同一性障害などセクシャリティの問題もある。学校という場所は、「大多数」に合わせてつくられているため、少数派には生きづらい場所でもある。 本来ならば、先述したような特性はたんなる「違い」であり、数の多い少ないという問題に過ぎないはずだ。だが、いまは「違い=ハンデ」となってしまっている。少数派であることで生きづらさを抱える子どもたちの心に少しでも寄り添い、その苦しみに目を向けていくことができる存在でありたい。 そして、忘れてならないのは保護者としての視点。僕が任命されるまでの委員は、70代が1名、60代が3名、50代が1名という構成だった。そこに30代の僕が加わることとなる。5歳と2歳の息子がいる「現役子育て世代」であるからこそ、見えてくるもの、意識が向くことがあるはずだ。 教育委員という責務の大きさに、あらためて身が引き締まる思いでいる。「元小学校教師として」「マイノリティとして」「現役子育て世代として」――他の委員にはないであろう3つの視点を意識して、東京の教育と向き合っていくつもりだ。
『加藤浩次の本気対談!コージ魂!!』
3月7日(木)22:00~22:54 BS日テレ『加藤浩次の本気対談!コージ魂!!』に出演します。 1時間まるごとゲストと向き合う番組です。 加藤さんの鋭いツッコミにオトタケも本音がポロリ? 是非、ご覧ください。
中村中『よのなかばかなのよ』
2月28日(木)23:00~23:50 beyfmにおいて、 中村中『よのなかばかなのよ』に生出演します。 プライベートでも親交のある中村中さんとの共演。 オトタケの歌声が聴けるかも? ぜひ、聴いてみてください!
『朝まで生テレビ!』
2月22日(金)25:25~28:25(23日 午前 1:25~4:25) テレビ朝日系の『朝まで生テレビ!』に生出演します! ~激論!体罰・いじめ 戦後教育を問う!~と題して、 徹底討論いたします。 遅い時間ですが、是非、ご覧ください!
ピストリウス逮捕に思う
以前にも書いたように、僕はいずれオリンピックとパラリンピックが統合され、ひとつの大会となることを願っている。 (Togetter「パラリンピックをなくしたい!」 参照)。 多くの人が「無理だ」「現実味がない」と考えるだろうが、そこに一人のアスリートが登場した。 パラリンピックのみならず、オリンピックにも出場し、さらには好成績を収めた義足のランナー、オスカー・ピストリウス選手(南アフリカ)の登場は、僕らに大きな衝撃を与えた。彼の出現は、ただ「障害があるのに頑張っている」という精神論に留まらない、じつに重要な議論を巻き起こした。 カーボン製の競技用義肢を使用するピストリウス選手がオリンピックに出場することに対して、「五輪という舞台に障害者が参加できることは素晴らしい」と称賛する声がある一方、「義肢を改造すれば、いずれ健常者より速く走れてしまうのではないか」と、その公平性に疑問を投げかける声も上がった。 どちらも、傾聴に値する意見だ。オリンピック・パラリンピック両大会の統合を願う僕としては、「どちらが正しい」「どちらが間違っている」ではなく、こうした議論が起こること自体が重要だと考えている。また、今回こうした形で問題提起をしてくれたピストリウス選手には、心から敬意を表したい。 そのピストリウス選手が、恋人を自宅で射殺した罪で、殺人容疑に問われている。本人は誤射だと供述しているが、検察側は計画的殺人だと主張している。さらには、自宅から筋肉増強剤と注射器が見つかった。殺人とともにドーピング疑惑も浮上。障害者界のスーパースターは、一気に窮地へと陥った。 僕は「同じ障害者だから」「彼の功績は偉大だから」という理由で、盲目的に彼を擁護するつもりはない。今後の捜査の進展を、慎重に見守っていくつもりだ。だが、たとえ彼の容疑が確定したとしても、ピストリウス選手が殺人を犯していたとしても、それは示唆に富んだ事例になるだろうと思っている。 彼らは清らかな存在で、けっして悪いことなど考えるはずがない――『五体不満足』出版以来、僕もこうしたステレオタイプな障害者観に苦しみ、窮屈な思いをしてきた。もしも、ピストリウス選手が殺人を犯し、筋肉増強剤を使用していたとなれば、そうした障害者観に大きなヒビを入れることになる。 今後、ピストリウス選手は無実が証明されるかもしれないし、獄中に入ることになるかもしれない。いずれにせよ、彼の存在、彼の言動は、これからも一面的な障害者観に一石を投じることになるだろう。そしてまた、僕自身もそうした存在でありたいと思う。いい意味で、期待を裏切っていきたいと思う。 障害者にだって、飲んべえや、エロや、ろくでなしもいる。肉体というものは、言ってみれば“容器”なのだ。その中にどんな中身が詰まっているかなんて、開けてみなければわからない。その容器だけを見て、蔑んだり、期待したり――それがいかにバカバカしいことか、僕らはそろそろ気づくべきだ。 そんなわけで、今日も僕は僕らしく、肉体にとらわれることなく、自由に生きていきます。みなさんも、肉体にかぎらず、さまざまなカテゴライズに縛られることなく、自由に生きてみてください。もしかしたら、この世界はもっと広く、その人生はもっと楽しいものかもしれませんよ。
『Nスタ』
2月8日(金)の『Nスタ』(TBS系16:53~19:00)に生出演します! 教員による体罰問題などについて、お話する予定です。 出演時間は18:15頃からの予定です。 是非、ご覧ください。 (予告なく番組の内容を変更する場合がございます)
『本格報道INsideOUT』
2月5日(火)21:00~21:54 BS11において、 『本格報道INsideOUT』に生出演します! 「乙武洋匡さんと考える”教育再生”」と題して、 教育再生の目的は何なのか、何が教育現場に必要なのか。 じっくりと語ります。是非、ご覧ください!
それ行け、だるま先生!
無料通話・メールアプリ「LINE」のスタンプにもなっている明光義塾のキャラクター「だるま先生」がやけに僕に似ていて、とても親近感を覚える。人気子役タレント・はるかぜちゃんも「ホントだ!」と共感してくれ、以来、だるま先生を気に入ってくれた。 昨日、たまたま彼女のツイッターでLINEが話題になったことから、彼女は「乙武先生とだるま先生は似ている」とつぶやいた。これに対して、多くの方から「それは不謹慎な発言だから控えるべき」「不快な発言だ」とのリプライが殺到した。その経緯と彼女の反論については、こちらにあるのでお読みいただければ。 では、いったい彼女の発言のどこが不謹慎なのだろう。まず、「だるま先生と僕が似ている」と言いだしたのは、ほかでもない僕自身であり、さらに僕とはるかぜちゃんは年齢こそ離れているものの、たがいに信頼しあう友人である。だから、彼女が僕を揶揄しようとしての発言でないことも理解している。 そうした事情は彼女もツイッター上で懸命に説明したが、それでも「不特定多数の見ている場所で、誤解を与えるような発言をすべきではない」「この発言を読んで不快になる人もいる」と食い下がる方が多くいた。つまり、「僕以外の四肢のない人が読んだら、傷つくのではないか」という先回りした配慮である。 もし、彼女が「四肢のない人全般」を指して、「だるまみたい」と無邪気に発言したのなら、「それは気をつけたほうがいいかも……」と思わないでもない。でも、彼女は不特定多数を指したのではなく、あくまでも「“乙武先生が”だるま先生に似ている」と言ったのだ。話を、僕個人に限定しているのだ。 以前にも書いたが、「背が高いですね」というのは、一般的にはほめ言葉として捉えられる。でも、もし背が高いことを気にしている人に「背が高いですね」と言えば、その人を傷つける可能性がある。つまり、「だるま」という言葉が、「背が高い」という言葉が、それぞれ誰に向けられたものであるかを考えることが重要だと思うのだ。 今回の騒ぎは、「障害者」を「障がい者」を表記する流れと良く似ている。「害」という字は、障害者が不快に思うのではないか――障害者がすべて同じ心境であると「一括りにした」「先回りの」配慮。それは僕からすると「臭いものにはフタ」と受け取れなくもない。そうした思考自体が、誰かを不快にしていることだってある。 先回りの配慮をありがたく思う障害者もいれば、そうした配慮を不快に思う僕のような障害者もいる。少しでも相手を傷つける可能性のある言葉を見つけて、鬼の首を取ったように「不謹慎だ」と正義の味方を気取る人々の姿は、とても滑稽だ。ならば、「背が高い」という言葉だって誰かを傷つける可能性があるのだから、もう二度と使えない言葉ということになってしまう。 ずいぶん長くなったので、このへんで。最後にどうしても伝えたいのは―― 「結果的に大々的な宣伝になったのだから、明光義塾は何かくれ(笑)!」 ちがった……「思考停止にもとづく安易な配慮こそが、誰かを傷つけていることもある」ということ。心の隅に留めていただければ。エロだるまより。