Yearly Archives: 2011
『ブラック・スワン』
昨日、映画『ブラック・スワン』を観てきました。 みなさんから、「ぜひ感想を」とのリプライを多数いただいたので、 ネタバレしない程度に、僕なりの感想を書いてみたいと思います。 まず、この映画はバレエを描いてはいるけれど、 決して「バレエ映画」ではない。人間の心理を描いた物語。 バレエを知らない僕でも、十分に楽しめました。 前評判の高かったナタリー・ポートマンの演技も圧巻。 美しさ、儚さ、気高さ、という異なる要素を巧みに操りながら、 見事に主人公のなかに眠る様々な感情を演じ分けていた。 終盤の重要なシーンでのダンスと表情は、まさに鳥肌モノ。 映画『レオン』の少女役のときも、いい表情してたもんなあ。 さて、本題。 僕も表現者のひとりとして、いろいろ考えさせられる映画でした。 「白」という色しか知らない人が表現する「白」と、 対極に位置する「黒」という色まで表現する力を持った人が伝える 「白」は、同じ色のはずなのに、深みが違ってくる。 観客(読者)のなかでの響き方が違ってくる。 僕が発信しているメッセージは、たぶん「白」。 でも、僕が本当に「白」しか持ち合わせていなかったら、 これだけ多くの人々に僕の思いは伝えられていない気がする。 僕にも、いつからか黒がある。 いや、「乙武さん、よくブラックジョーク言いますもんね」という その黒じゃなく、本当の黒。心の、黒。 昔は自分のなかに「黒」があることなんて認めたくなかったし、 それが怖くて仕方なかった。でも、いつからだろう。いまの僕は、 自分のなかにある「黒」をじっくり見つめたり、いろいろな角度から ながめている時間が、決して嫌いじゃない。 なんなら酒でも汲み交わしながら、ゆっくりと己のなかの「黒」と 語り合いたい。 自分のなかの「黒」とじっくり向き合えるようになってから、 僕はバランスが取れてきた気がする。 昔は、何かあればポキリと折れてしまいそうな脆さがあったけれど、 いまはそう簡単に折れやしない。 まあ、折れたら折れたで、また叩いて、延ばして、好きな形に 作り変えたらいいや、という開き直りにも近い思いがある。 僕がFUNKISTを愛してやまないのも、 彼らのメッセージが決してきれいごとの「白」なんかじゃなく、 社会の「黒」、人間の「黒」とさんざん向き合って、語り合ってきた 過去から生みだされる「白」だからなんだと思う。 そうした人間にしか生みだせない、叫び。思い。色――。 だから、僕の心に響く。 だから、太宰治が好き。 己のなかの「黒」に苦しめられ、翻弄されつづけたにもかかわらず、 その「黒」と誠実に向き合い、その「黒」を抱きしめつづけた太宰。 彼は、弱かったんじゃなく、マジメだったのだと思う。 そんな迷いや葛藤が、素直に垂れ流される彼の作品が、 たまらなく愛おしい。 映画『ブラック・スワン』、僕は表現者としての「白」と「黒」について じっくり考えさせられた作品でした。 そして、主演のナタリー・ポートマンは、その「白」も「黒」も、 どちらの色も最高の形で表現してみせてくれました。 本当にすばらしい女優さんだと思います。 あくまでも、僕の所感です。 みなさんの感想も、ぜひ聞かせてくださいね。
運動会でのお弁当
みなさん、こんにちは。 ブログは、約一ヶ月ぶりの更新となってしまいました。 楽しみにしてくださっているみなさん、ごめんなさい。 さて、今日は「運動会」について。 東京では降り続いた雨の影響で、今日が運動会という学校も 多かったみたい。すると、それに関連して、ツイッターで友人が こんなつぶやきをしているのを見かけました。 【最近の小学校の運動会、昼ご飯は校庭で食べないらしい。 みんな教室で食べるんだって。親も家で食べたりするようです。 天気良ければ、外で食った方が気持ちいいのになー。 親が来られないとか色々あるのだろうけど、 その辺は工夫して外で食べるぐらいはできるんじゃないかと、思ふ。 無責任な発言ですが。】 僕が昨年3月まで勤務していた杉並第四小学校では、運動会の日、 子どもたちも家族と一緒に校庭やベランダでお弁当を広げていました。 でも、新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」 として新宿区立の小・中学校を回っていたときには、運動会の日でも 給食を出し、子どもたちは教室のなかで食べるという学校もあった。 大人たちはさみしく、子どもたちのいなくなった校庭で弁当を食べるか、 なかには一度家に帰り、午後になって出直してくるという家庭もあった。 子どもを教室に入れてしまう理由は、「親が来れない子が傷つくから」、 「弁当格差によって、パン1枚しか持たされない子が傷つくから」。 前から言っているように、何でも傷つけないようにビニールハウスで囲い、 温室栽培をすることが教育ではないと思っている。 それぞれの資質や能力、容姿や家庭環境は生まれもったものであり、 その前提を変えることはなかなか難しい。「違い」は、たしかに存在する。 いくら学校が、その「違い」を感じさせないような配慮しても、 社会に出ればビニールハウスで囲ってくれる存在などいないのだ。 寒風にも、害虫にも、すべて自分の力で立ち向かっていくことになる。 つまり、傷つく機会はいくらでもある。 子どもたちには、そのときまで「違い」があることに気づかせず、 無菌状態のまま社会に送り出すことのほうが、僕は無責任だと思う。 「私の家はお母さんが来れなくてさみしい」 「あの子の家の弁当は豪華だから、うらやましい」 もちろん、運動会にそんな苦い思い出を持つ人もいるだろうう。 だから、そう感じる子が出ないように、みんなで教室に入り、給食を。 そんな“平等”を図ることが教育なのか。僕は、そうは思わない。 社会に出れば、傷つくこともある。挫折することもある。 そんなとき、どう立ち上がり、ふたたび歩いていけばよいのか。 そんな経験をさせておくことのほうが、よほど教育的だと思うのだ。 絶対的に存在する“違い”に布をおおいかぶせ、「みんな平等だよ」と うそぶくことが教育だとは、僕は思わない。 もちろん、学校だけを一方的に批判するつもりはない。 「このことで、うちの子が傷ついたらどうするんだ?」と厳しい調子で ご意見を寄せる保護者の存在があることも、決して忘れてはいけない。 でも、学校にはそうした声にも、もう少し毅然と対応してもらいたいのだ。 学校はサービス業じゃなく、教育機関であるべきだと思うから。 ここまで書くと、ツイッターには賛否さまざまな意見が寄せられた。 そのなかに、こんな質問があった。 【同意ですが、具体的に運動会の昼ごはんがパン1枚で傷ついた子の 挫折感、悔しい気持ちに、教師はどう向き合うべきなんでしょうか?】 たとえば遠足の日、僕はあらかじめコンビニでサンドイッチひとつを 買っておき、弁当の時間になると、日頃の家庭環境からお弁当が 望めなさそうな子どものとなりにすわり、そのサンドイッチを広げた。 「同じだね」 子どもは、それだけでホッとした顔をする。 みなさんからの意見でとても多かったのが、 「そんな子がいても、『うちと一緒に食べよう』と声をかけてあげるのに」。 これが「地域で子どもを育てる」ということなのだと、うならされた。 しかし残念ながら、そうした地域のつながりや結びつきも、 いまや失われつつある。 今回のツイートと、みなさんからのご意見を読んで、 「まちの人と協力しながら、まち全体での子育てを」という理念のもとに 今年4月開園させた「まちの保育園」が目指す方向性は、 決して間違っていなかったと確認することができました。 不平等を生き抜く強さを育てることと、それを支える人々の存在。 このふたつの重要性を実感するといともに、まさに僕自身は、 このふたつの要素によって、ここまでこれたのだと感謝するばかりです。
ピントの合わせ方
数日前、僕の事務所で働いてくれているマネージャー君が、 うれしそうに話しかけてきた。 「何かひとつ趣味でも持とうかと思って」 なんでも、思い立って一眼レフカメラを購入したらしい。 今朝のことだ。約束の時間よりも早く目的地に到着した車内で、 説明書を片手に、パシャパシャとやっている。 「あ、なるほど。こうやってピントを合わせて…」 フロントガラスに付着した水滴にピントを合わせ、パシャリ。 「今度は、あっち側に…」 窓ガラスの向こうに広がるビルや信号にピントを合わせ、パシャリ。 「うわあ、面白い。全然ちがうなあ」 新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいに、笑顔がはじけてる。 あれ。 え。 ちょっと、俺にも見せてよ。 1枚目と2枚目。 全然、ちがう。 同じ場所で、同じ角度でカメラを構えたのに、 液晶に映っているのは、まるでちがう景色。 ハッとした。 こういうことなんだ。 たとえば、原発。 「一刻も早く運転停止し、代替エネルギーへの転換を」 「いや、安全対策を万全にして、やはり原子力でいくべき」 見えている事象は同じ。 提供されるデータ・数字も同じ。 それでも、それぞれの意見が異なり、ぶつかり合っているのは、 こうしてピントを合わせている場所がちがうからなんだろうなって。 原発だけじゃなくって、きっと、すべてがそう。 そんな、ごく、当たり前すぎることに、いま一度、気づいた朝。 明日から、“水先案内人”として、5日間、ピースボートに乗船します。 きっと、様々な価値観や経験を持った方々が乗船されることでしょう。 僕の焦点とは、またちがう焦点で物事を捉え、考えている方々との 語らいを、いまから楽しみにしています。
誰かの役に立っている
みなさん、こんにちは! 東京、今日はめっちゃ気持ちのいい青空が広がっています。 今日は、ひさしぶりに落語会へ行ってくる予定です。 被災地でもある仙台市出身の元M-1王者・サンドウィッチマンさんと、 春風亭小朝さん、春風亭昇太さんら人気落語家さんたちが企画した 「東日本大震災チャリティ落語会―落語の力―」@渋谷CCレモンホール。 出演者は、無償で出演し、収益はすべて被災地へ寄付されるとのこと。 昼夜2回公演みたいだけど、僕は夜公演に出かけていく予定です! 落語を聴きにいくのは、震災以降2度目。 前回、行ったときには、芸人さん達の“覚悟”を感じました。 いまよりも「自粛」「不謹慎」が叫ばれていた3月末。 「笑い」なんて、不謹慎の極み。それでも高座に上がった 噺家さん達からは、ある種の決意のようなものが感じられた。 「自分たちには、これしかない。 この話芸で、お客様の心をほぐしていくしかない」 もちろん、彼らは、そんなことはひと言も口にしない。 でも、物腰やわらかな、それでいてどこか毅然とした態度から、 僕はそんな決意とプライドを感じたのだ。 大きめの余震が続き、気分が沈みがちだった昨日、 好きなアーティストの曲をかけた。驚くほど、元気が出た。 やはり月末に行った芝居からもパワーをもらった。 今日の落語会も、きっと元気をもらうだろう。 現地に赴いてのボランティア活動やライブ収益を寄付することは、 もちろん素晴らしい。でも、事情によって、それがかなわない人もいる。 だいじょうぶ。それだけが支援じゃない。 音楽も、演劇も、落語も、「いまは不要」と感じる人もいるかもしれない。 でも、少なくとも、余震や放射能の影響におびえる生活を強いられる “プチ被災者”である東京人としては、そうした文化・芸術に力をもらい、 救われている。 文化・芸術だけじゃない。どんな仕事だって、社会の役に立っている。 もしかしたら、直接的に役に立っているようには思えないかもしれない。 でも、きっと、回り回って、誰かを助けている。誰かの役に立っている。 地震も、原発も、たしかに怖い。 でも、僕は無力感から歩みを止めてしまうことが、いちばん怖い。 「自分は無力なんじゃないか」 誰もが、感じてる。 でもさ、「どうせ自分には何もできない」と立ち止まっていても、 それは、きっと、本当に誰かの役に立つことはできないよ。 歩みを止めてしまっている人がいれば、ふたたび歩きだしてほしい。 自分の歩みが、必ず誰かの役に立つのだと信じて。 まずは、一歩を踏み出そう。
わかりあう。わかりあおうとする。
Twitterのタイムラインを読んでいたら、こんなブログが目に留まりました。 頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。 読んで、まず、胸がぎゅっと苦しくなった。 「正直、不幸になってくれたら嬉しい」 この言葉は、とくに、心に突き刺さった。 そのうえで、僕らはどうあるべきかを考えた。 「どうせわからない」なら、無関心でいるほうがいいのか。 あくまで「わからない」ことを前提に、それでも思いを馳せ、 わずかな声を、力を届けていく。それじゃ、ダメなのか――。 そもそも、人と人が関わりあって生きていくって、どういうことなんだろう。 本人の気持ちには、もちろんなれない。でも、想像することならできる。 相手の立場になって、心を寄り添わせ、うれしいだろうなと思う言葉を かけたり、行動をしたり、ただ何も言わず見守っていたり。 もちろん、その想像が間違っていて、相手を傷つけたり、怒らせてしまう こともあると思う。でも、そうなることを恐れ、何も働きかけないことが、 はたして善なのか。 被災者と非被災者。親と子。妻と夫――。 それぞれ立場は違えども、わかりあおうと努力し続けることが “共生”ってことなんじゃないだろうか。 たとえば。 手足のない僕の気持ちは、きっと誰にもわからない。 でも、家族は、友人は、「あいつなら、こうなんじゃないか」って。 いつも、考えてくれた。それは、とても幸せなことだと感謝している。 それが、たとえ的外れだったとしても、ね。 だから、僕も立場の異なる相手に対し、少しでも心を寄り添える人で ありたいと思う。 僕が言いたいのは、「被災地の方々に対して、『頑張れ』と言ったって いいじゃない」という話じゃない。被災者の気持ちにはなれないけれど、 「どうせわからない」と無力感に苛まれ、無関心になるのではなく、 わかろうという努力を怠らずにいたいな、と。 これは、僕自身へのメッセージでもあるんです。 僕の文章を読んでくれた花*花のこじまいづみさんが、 こんなメッセージを寄せてくれた。 相手が大事だと思うなら「分かってたまるか!」と言われても、 「分かんない!でも大事!」と言い返す気持ちでいたいね^^ 「分かるから大事」なんじゃなくて、「大事だから分かり合いたい」 んだもんね。 うん、そうなんだ。 大事に思うから、「分かりたい」という気持ちが生まれてくる。 それって、すごく大切なことだと思うんだ。
朝日新聞「逆風満帆」(下)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第3回(下)・「萎縮した教育現場で」をお送りします。 ***************************************************** 2007年4月。乙武洋匡(34)は東京都杉並区で、区立小学校の先生になった。同じ区立の和田中学校には「夜スペ」などで話題を集めた民間人校長、藤原和博。乙武は学校改革に熱心な杉並区が独自に採用した、任期つきの教員だった。1年目は道徳や理科などを教えることになった。 しかし強い逆風が待っていた。 赴任初日、宮山延敬校長(当時)は、乙武に言った。「先生の赴任を快く思わない先生もいらっしゃる。気をつけて下さい」 現場は「介助の必要な教員が来ると仕事が増える」「メディアが来て学校が混乱する」と反発していた。どうせ腰掛けだろう、と面と向かって言う教員すらいた。 乙武は孤立しがちになり、繰り出すアイデアも却下された。 理科で栽培した豆をゆでて食べてみよう、という計画は、食中毒の恐れあり、と中止させられた。 田植えの際の「はだしで泥の感触を味わうのもいい経験。靴下をはかせるのはやめたらどうですか」という提案も、却下。 日々、自衛のための書類作りに忙殺される教員らの目には、暴挙にしか見えなかったのだろうか。 ホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)が言う。「彼の正論は、厳しい現状の中でもまれてきた先生には、無責任に思えたのかもしれないね」 この間、妻と話す気力すら失ったという乙武は「異質なものは受け入れられない雰囲気がありました」と、言葉少なに振り返る。 しかし、「毎時間の授業の展開をノートに書き、介助員と連携して、子どもの立場に立った授業をしていた。ことに命の大切さを、上手に伝えていました」と評価し、学びあった同僚もいた。 担任をまかされた2年目、“逆襲”に転じた。子どもたちとじっくり向き合うため、保護者と信頼関係を築くことから始めた。 「23人の子どもたちと僕と介助員の大野(新一)、保護者のみなさん。全員で3年2組ですから」 最初の保護者会で、そう語りかけ、いつでも見学にどうぞ、と誘った。放課後は携帯電話で、保護者に子どもたちの様子を伝えた。 答えはわかるのに、授業で挙手できない女の子の母に、乙武はこう伝えた。「泣いちゃったけど、最後までがんばって発表しました。ほめてあげて下さい」。母は「ほめるために電話を下さるなんて。本当に驚きました」と話す。 逆上がりが苦手だった男の子は、ふざけてばかりいて努力しなかったのを乙武にしかられ、手の皮がむけるほど練習した。その翌日。「先生は『がんばったよな』と息子をほめ、みんなの前で逆上がりをやらせてくれたそうです」。母親は、乙武からの電話で知った学校での様子を、その場で見ていたかのようにつぶさに語った。 ●23人の「色えんぴつ」 学校と保護者の間の、疑心暗鬼というモンスターは消えていた。 任期最後の3年目。「思い切ってやらせてもらった」という。 たとえば、「運動会の80メートル走の全レースで2組が1位になったら、丸刈りになる」と約束。全レース1位は逃したが、努力をたたえて子どもたちにバリカンを渡し、乙武の髪を刈らせた。「職員室で、しかられたけどね(笑)」 一心に愛情を注ぎ、ほめて泣き、叱って泣く乙武は、子どもたちを変えた。臆せず挑戦するようになり、お互いにその様子を認め合うようになった。勉強が苦手な男の子が、乙武の励ましの結果、最後の漢字テストでただ一人100点を取った時は、みんなで拍手を送り、乙武はまた泣いた。 乙武は教室に、筆で書いた文字を掲げていた。2学期は「23/6800000000」、3学期には「1/6800000000」。地球上にいる68億人の中から、仲間として出会った23人。そして、一人しかいない自分。仲間と自分を大切にしようと教えた。 10年春、子どもたちはクラス文集を「色えんぴつ」と名付けた。一本一本違う色。折れやすいけれど、折れてもまたやり直せる色鉛筆――。伝え続けた「みんなちがってみんないい」は、届いた。「いいクラスになった。報われたな、と思いました」。話す乙武の目に、涙がにじんだ。 3年間の教員生活は終わった。でも乙武を杉並に誘った藤原は言う。「彼は、何かを変える、とんでもない力を秘めている。先生としてあの体では普通ありえない経験を積んだ彼が、今度はどこで力を発揮するのか。楽しみですね」=敬称略 (魚住ゆかり)
朝日新聞「逆風満帆」(中)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第2回(中)・「選手の本音引き出し奔走」です。 *************************************************** 「勝った!勝ったよ!!優勝だ!!!」。サッカーのアジアカップ決勝があった1月30日未明、乙武洋匡(34)がツイッターでほえた。(乙武さんのツイッターはこちら) 乙武のそばにはいつもスポーツがある。子どものころから熱心な阪神タイガースファンで、プロ野球の選手名鑑を愛読。そこに名前が載るのが夢だった。中学でバスケットボール、高校でアメリカンフットボールを楽しんだ。 しかしスポーツライターへの入り口は、『五体不満足』の大ヒットで、思いがけず有名人になったという「重い十字架」を背負い、ようやく探り当てたものだった。 2000年の初め、早稲田大卒業を控えた乙武は、どんな仕事につこうか、迷っていた。約1年続けたTBS「ニュースの森」のサブキャスターは、卒業と一緒にやめると決めていた。取材やインタビューは楽しかったし、評判もよかったが、いつも不安だった。 「本は、それまでの人生を書いただけ。何かを成し遂げたわけではないから、ブームが終われば、きっと見向きもされなくなる」 番組で任されるテーマが、バリアフリーや福祉になりがちなのも、気になった。障害者=福祉とくくられることに抵抗があった。 『五体不満足』とは関係のない仕事がしたい。考えた末に浮かんだのがスポーツライターだ。ちょうど新聞のプロ野球開幕特集に寄稿したことが、決定打になった。 つてを頼り、「Number」(文芸春秋)への執筆を打診した。スポーツ取材は素人ながら、「フィールドインタビュー」という新連載を任された。 いきなり人気雑誌でデビューした新人に、同業者の一部は冷たい視線を向けた。「客寄せに使われてるだけ」と言い放つ人もいた。 「仕方ないことだけど……やっぱり悔しかったですね」 「結果を残す」と仕事にのめり込んだ。シドニー五輪、プロ野球、Jリーグ、サッカーW杯と、ほとんど休みを取らず、現場に足を運んで信頼関係を築こうとした。 「とにかく熱心に通っていました」と証言するのは、02年から乙武の担当編集者になった文芸春秋の瀬尾泰信(40)。 入念に下調べをし、敬意をもって接する取材姿勢ゆえか、あるいは不特定多数から時として過剰な称賛や非難を受ける、共通体験ゆえか。多くのスター選手が、乙武にぽろりと本音を漏らした。 「取材につきあってみて、彼の人間を見る力は、とても優れていると思いました。持ち上げられたり、時には心ない言葉をぶつけられたり。幼いころから様々な視線を浴びてきて、僕らには想像もつかないほど、いろんな体験をしてきたからでしょうね」 もちろん、「乙武くん」だから取材対象と仲良くなれた部分もあった、と瀬尾は言う。『五体不満足』とは関係なく自分を認めてほしい、という気負いが文章ににじんでしまい、つっこんだやりとりを重ねたこともあったという。 ●「虚像」受け入れる覚悟 03年3月、扉が開いた。 ケガで戦列を離れ、リハビリを続けていた読売巨人軍の清原和博が、連日取材に通いつめていた乙武を、一人だけトレーニングルームに招き入れたのだ。 「一瞬、迷いました。これも『五体不満足』の乙武ゆえの特別扱いじゃないのか。でも、それならそれでいい、と思えたんです」 と乙武。 1年前だったら、入らなかったかもしれない。積み上げてきた実績と自信が、背中を押した。 その後、取材を重ね、メディアに容易に心を開かない清原から、微妙な関係といわれた堀内監督への思いなどを引き出し、「肉声――清原和博の闘いを追う」などの大型記事として次々と発表した。 取材などを通じて、福岡ダイエーホークスの王貞治監督(当時)ら、不特定多数の期待に、理想的な振る舞いで応える人の姿にも触れた。『五体不満足』の乙武、という「虚像」に歩み寄って生きていく覚悟も固まった。 すると、「そろそろ次にいってもいいかな」という思いが、頭をもたげてきた。 そのころ、少年による痛ましい殺傷事件が相次いだ。自分にしかできない仕事は、こうした子どもたちの問題、教育の中にあるのではないか。乙武は、何かに呼ばれるように、急速に傾斜していく。一定の達成感を得たスポーツライターの仕事に、未練はなかった。 通信制の大学で、教員免許を取得。07年4月、乙武は、先生になった。=敬称略 (魚住ゆかり)
朝日新聞「逆風満帆」(上)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」のコーナーにて、 今年1月29日(土)から3週にわたり、乙武洋匡が特集されました。 朝日新聞様のご厚意により、当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第1回(上)・「著書がもたらした『障害』」です。 ****************************************************** 昨年暮れ、乙武洋匡(34)は全国を飛び回っていた。秋に初めての小説『だいじょうぶ3組』(講談社)を出版して以来、講演行脚が続いている。 重度の障害を苦にせず、伸びやかに生きてきた半生をつづった『五体不満足』(同)のブームから、13年がたった。07年春、乙武は7年間続けたスポーツライターをやめて公立小学校の教師になった。3年の任期終了後、その様子を描いたのが、今回の小説だ。 「なぜ教員になったか、不思議に思われますよね」。川崎市での講演会で、乙武は話し始めた。 転機は03年。長崎市で12歳の少年が幼稚園児を殺害した。翌年、長崎県佐世保市では11歳の少女が同級生を刺殺。被害者だけでなく加害者のことが気になった。 「よりよく生きたい、と生まれてきたはずなのに、事件を起こさざるを得なかった。『寂しいよ。苦しいよ。壊れちゃうよ』。彼らが発したはずのSOSに、大人は気付いてあげられなかった」 静かな中に熱のこもった、乙武の声だけが響く。「僕は両親や先生、周囲の大人に恵まれた。僕も、次の世代のために何かしたいと思ったんです」 先天性四肢切断という障害をもった乙武が生まれた1カ月後。母・良子は、初めて対面した息子を「かわいい」と抱きしめた。気を失ってしまうのではとベッドまで用意した、周囲の懸念をよそに。 「超天然」の母と、おしゃれで優しい建築家の父賢二(01年死去)。「いつも、大事に思っていると伝えてくれた。そういうのがくすぐったい時期もあったけど、我が家は愛に満ちていました」 食べる、書く、ハサミを使う……無類の負けず嫌いの乙武は、何でもやってみたがり、どうしてもできないことだけ「これは、僕にはできないことなんだ」と納得した。両親は手も口も出さず、気が済むまでやらせた。 両親の希望がかない、世田谷区立小では普通学級で過ごす。担任の故・高木悦男は、乙武が車いすに乗ることを禁じ、自力で歩かせた。子どもたちにも必要以上の手伝いをしないよう教えた。子どもたちは自然と乙武が困れば手をさしのべ、例えばサッカーでは、乙武のシュートだけ3点というような「オトちゃんルール」を作り、楽しく遊ぶようになった。 中学、高校では、なんと運動部に所属。1浪して進んだ早稲田大学時代には、街づくりのサークルで先頭に立った。 ●あたたかい自己肯定感 「なぜこんな体に、と運命や周囲を恨んだりしたこと? ないですねえ」と乙武。確かに、話していると、彼が障害者であることを忘れてしまうが、疑問もよぎる。人はそれほど強くなれるのか。つらいと思わなかったんですか? 失礼を承知で何度か聞いてみた。 答えはいつも同じだった。周囲のおかげで、僕はあたたかな自己肯定感に守られてきたんですよ。 「彼は、バリアを減らしちゃうしね」。新宿・歌舞伎町でホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)は言う。「いつも、あらゆることを想定して、バリアになるべく遭遇しないですむように、作戦を立ててるんですよ」 街づくりの様子が報道され、乙武に注目が集まった。その縁で98年、『五体不満足』が出版されると、その後、文庫本も含め580万部に及ぶ大ベストセラーに。「重い障害を乗り越え、けなげに生きる青年」に取材が殺到した。 だが乙武は戸惑った。押し寄せた称賛は「重度障害者なのに」が前提。本人が特徴のひとつと受け止め、友人たちも忘れがちな「障害」が、突然のしかかってきた。 両親までマスコミに追いかけられた。言っていないことを書かれ、後に妻となる恋人とも会いづらくなった。一部の障害者から、「障害者と健常者の間にある問題から目をそらす口実を与える」などの声も聞こえてきた。 1年以上、吐き気がとまらず、脳のMRI検査までした。「『五体不満足』という十字架をおろしたい、と思っていました」 数々の出会いやチャンスをもたらした『五体不満足』は、乙武に、人生初にして最大の逆風も運んできたのだった。=敬称略 (魚住ゆかり)
重なれ、みんなの想い!
月曜日に、「まちの保育園」開園のお知らせをしてから、大きな反響をいただいています。朝日新聞はじめ、様々なメディアにも取りあげていただいているようで、深く感謝しています。 なんかね、報道だけを見ていると、「乙武さんがつくった!」というようなイメージを与えてしまいがちだけど、決してそんなことはないんですよ。ブログでもTwitterでもお伝えしているように、この「まちの保育園」は決して僕ひとりで準備を進めてきたわけではないんです。仲間たちと考え、実現を目指してきたものなんです。 その仲間の代表が、この「まちの保育園」の運営会社「株式会社ナチュラルスマイルジャパン」の代表取締役・松本理寿輝(りずき)です。 理寿輝と出会ったのは、教員3年目の冬。友人から「オレの仲間で保育園を作ろうと頑張っているヤツがいて、それがなかなかユニークな取り組みだから、一度会ってみない?」と紹介され、意気投合。 一橋大学在籍時から幼児教育に興味を持ち、「将来は保育園をつくりたい!」と考えていた理寿輝は、卒業後、博報堂に入社。教育関連企業のブランディングに従事することで、幼児教育への関心と見識をさらに深めていきました。 ただ、保育園の「経営」をしていくためには、もっと経営についての勉強をしなければ――と、みずから会社を立ち上げてしまったのが、理寿輝のすごいところ。コインパーキングの空中部分にリユース可能な建築を施し、テナントに提供したり、屋上部分を緑化したりといった事業を手がける株式会社フィル・カンパニーを設立。副社長に就任したのです。 この事業が世間的にも評価され、会社経営も順調。しかし、「僕の本来の目的は保育園をつくること」と、設立から3年が経ったところで退社。保育園を開設するための運営会社「株式会社ナチュラルスマイルジャパン」を立ち上げたのです。 いわば、この「まちの保育園」は、理寿輝が10年という歳月をかけて準備を進め、実現に向けて歩んできた成果が、カタチとなって表れてきたものなのです。 もちろん、理寿輝だけではありません。今回、僕らの想いを想像以上のカタチに具現化してくださった建築家の方、園長先生を始めとする現場で保育活動を行う保育士の方々、園に併設するカフェの準備を進めているスタッフ――様々な人の想いが重なって、4月1日の開園に向かっている。そのことをどうしてもみなさんに知っていただきたく、今回はこうして筆を取りました(あ、キーボードを叩きました)。 僕は、あくまで「経営者のひとり」。ひとつのピースに過ぎません。ですが、そのひとつのピースとして何ができるのかを試行錯誤しながら、子どもたちとまちの人々が笑顔になるよう、力を尽くしていきたいと思います。 ご支援、ご協力のほど、よろしくお願いします。 代表取締役社長・松本理寿輝(りずき)と