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「グランパのいたずら」
南アフリカ第3の都市・ダーバンから車で2時間半。インド洋に面した小さな町ポート・エドワードにやってきた。ここには、僕を南アフリカに誘ってくれた染谷西郷のお祖母様が住んでいる。海と、空と、大地と――。豊かな自然に囲まれたこの町では、ずいぶんと時間がゆっくり流れているように感じられた。 今回は西郷だけでなく、日本に住んでいる西郷のお母様や、南アフリカの他の都市に住んでいる親族がこのポート・エドワードで一堂に会することになっている。昨年11月に亡くなったお祖父様の葬儀が執り行われるためだ。 日本を発つ直前、西郷から「よかったら乙武さんも葬儀に参加してください」と伝えられ、少しばかり困惑した。喪服など持っていくつもりはなかったし、何よりお祖父様に一度もお会いしたことがなかったのだ。 「だいじょうぶです。みんな普段着なので、喪服なんていりません。ただみんなで海辺に集まって、おじいちゃんの遺灰を海に撒くだけなんです。」 南アフリカの人々がすべてそのような葬られ方をするわけではない。だが、本人の意向でそのような見送られ方を希望する人も、決して少なくないという。「多くの人に見送ってもらえたほうが、おじいちゃんもよろこぶと思うから」という西郷の言葉に甘え、親族ではない僕もその場に立ち合わせていただくことになった。 夕方五時。つい一時間ほど前までは青空が広がっていたが、いまは鉛色の雲が空を覆っている。いつ降りだしてもおかしくない空模様だ。長男のデーブに支えられながら、砂浜に杖を突き刺しつつ、ゆっくり、ゆっくりと海岸を進んでいくお祖母様。僕らは黙って、そのあとに続いていく。 「このあたりにしましょう」 お祖母様は波打ち際まで20m付近のところで立ち止まると、三男のアランが用意したキャンプ用の折りたたみ椅子にゆっくりと腰を下ろした。彼女を囲むようにして、各々が砂浜に座りこむ。 「みんな、今日はグランパ(グランドファザー、お祖父様のこと)のために集まってくれてありがとう。彼は本当にやさしくて、紳士的で、ユーモアがあって――素敵な人でした」 お祖母様のあいさつが終わると、参加者みんなで、しばらくお祖父様の思い出話に花を咲かせた。誰もが「彼のジョークにいつも笑わされた」と、なつかしそうに振り返っていた。西郷がSkypeで最後に話したときにも、彼はジョークを言っておどけていたそうだ。 話が途切れた頃、西郷がギターを手に取った。波音に混じって、弦を弾く音が聞こえてくる。 「三月の終わり 季節はまためぐり――」 もう十年以上も前に、西郷が大切な人を亡くしたときにつくった『光』という曲だ。だが、その声にいつものような張りはない。くぐもるような歌声に違和感を覚えた僕は、そっと西郷のほうを振り返った。その頬は、涙で濡れていた。空からはぽつり、ぽつりと雨粒が落ちはじめ、砂浜に黒いしみをつくりだしていた。 西郷の演奏が終わると、西郷のお母様と三人の弟たちが遺灰の入った木箱を手にして、海のほうへと歩んでいった。お祖母様は折りたたみ椅子に体をうずめたまま、じっとその様子を見守っている。 波打ち際までやってきた四人だったが、膝元まである海水パンツを履いていたデーブとアランのふたりは、木箱を持ってさらに進んでいく。あっという間に膝まで浸かる位置までやってきた。そのときだった。 ザバーン――。 突然、白いしぶきを上げる波がふたりに押し寄せた。体格の良いアランは何とか持ちこたえたものの、デーブはこらえきれず、思わずもんどりうった。そこに次の波が襲いかかる。デーブはついに仰向けにひっくり返り、全身に波をかぶってしまった。自分を仰向けに押し倒した波が引いていくと、デーブは上半身だけを起こして、「OH, NO」とばかりに両手を広げてみせた。 お祖父様譲りのユニークさで冗談ばかり言っている次男のギャリー、三男のアランと違い、ヨハネスブルグで教師を務める生真面目なデーブ。そんな彼が見せる滑稽な姿に、「くっ、くっ、くっ」と最初に笑い出したのは、お祖母様だった。それにつられて、みんなが「くっ、くっ、くっ」「あっはっはっ」と笑い出す。そのハプニングをすぐとなりで見ていたアランなどは、腹を抱えて笑い転げていた。 お祖母様は折りたたみ椅子からその様子を見ていたが、手にしていたお祖父様の遺影に向かって、こうつぶやいた。 「きっと、グランパの最後のいたずらね」
「南アフリカのHIV問題」
マーゲイトというインド洋沿いの町にある「GENESIS CARE CENTER」を訪れた。ここは12年前にHIV患者のためのホスピスとして建てられた施設で、4年前からは癌や結核などの病気に苦しむ患者も受け入れている。入所者40名に対して、60名のスタッフで対応するという手厚い体制で看護に当たっている。 南アフリカでは、エイズが社会問題となっている。15歳から49歳までの5人に1人がHIVに感染しているという統計もあり、エイズによる死は年間35万人にも上ると言われている。これがタウンシップ(旧黒人居住区)となれば、さらに感染率ははねあがる。「HIVに感染していない恋人を探すのは難しい」と言われるほどで、実際にタウンシップに住む6割前後の人々がHIVに感染しているという。さらに貧困地域では、結核も猛威をふるっている。 抗レトロウィルス薬治療により、HIVは死に直結する病気ではなくなってきたと言われる。しかし、HIVは性交渉によって感染するケースが多いことから、人々はHIV感染をスティグマ(恥辱)であるととらえ、自身が感染者であることを公表しない人々も少なくない。そのために治療が遅れてしまうことも問題のひとつだ。 また、あえて治療を拒む人々もいる。感染者には障害者手当が支給されているが、治療によって免疫が上がれば、手当は打ち切られてしまう。そのため、貧困地域の感染者たちはあえて薬を飲まず、支給される障害者手当で細々と暮らしていくことを選ぶのだという。エイズ対策は、失業者対策とも密接に結びついていることが窺える。 この施設が開所した当時は、ほぼすべての入所者が亡くなっていたが、心身におけるケアの手法が確立したいまでは、53%の人々が家族やコミュニティのもとに戻れるようになったという。だが、職員たちは決してその数字に満足しているわけではない。 「それでも47%の人々は亡くなっている。ここで働きはじめたときには『(入所者の死に)そのうち慣れるわ』と言われたけど、もう何年も経ったいまも慣れることはありません」 先ほども書いたように、感染者にはタウンシップ(旧黒人居住区)で貧しい暮らしをしている人も少なくない。感染によって稼ぎ手を失った家庭は、ただでさえ苦しい生活がさらに苦しくなる。また治療の甲斐なく患者が死を迎えれば、それまで支給されていた手当も打ち切られてしまう。遺児に支給される手当はわずかであり、十分な支援がなされているとは言いがたい。祖父母や近所の人々の世話になりながら、何とか生き延びていくしかない。 「そうした環境で育つ子どもたちのなかには、非行や妊娠などでドロップアウトしてしまうケースも少なくありません。ですから、ここにいる入所者を救うというのは、彼らの家族を救うということにもなるのです」 HIV患者の看護をするにあたって最も困難なのは、じつは心のケアなのだという。彼らのほとんどは、みずからがHIV患者となったことに大きなショックを受け、自暴自棄になる。そうして傷つけられた尊厳をどのように回復するのかが、ケアにあたっての大きな課題なのだという。 ある日、32歳の女性が入所してきた。彼女はレイプによってHIVに感染。その経緯から彼女は自分の存在を恥じ、入所後もみずからの顔を隠すようにして誰とも目を合わせることをしなかった。カウンセリングをしても、「私は生きる価値のない人間です」と口にするばかりで、なかなかカウンセラーにも心を開こうとしなかったという。 入所から10日後、彼女は職員のすすめに従って、ビーズ細工の教室に参加した。彼女はビーズをひとつ通すごとに、不安そうな表情で「これでいいの?」と教師に向かって確認した。教師はそのたびに大きくうなずいて見せた。ビーズを通しては確認、通しては確認――その作業はじつに100回以上も続いたという。ついにネックレスが完成。教師はそのネックレスを手に取り、そっと彼女の前に差し出した。 「これは、あなたが作ったのよ」 「これを……私が……作った?」 「そう、あなたは価値のない人間なんかじゃない。こんなステキな作品を作ることができる素晴らしい人間なのよ」 彼女の目には涙があふれ、入所後、はじめて笑顔を見せてくれたという。その後、彼女は積極的に治療を受け、家族のもとに戻れるまでに回復した。だが、彼女を待ち受けているのは、自分をレイプ被害者とした劣悪な環境。それでも彼女は凛とした態度で家族とともにそのコミュニティでの生活を再開させた。決して大きな金額ではないが、ビーズ細工によって収入を得られるようにまでなったという。 FUNKISTのメンバーととともに、そのホスピスでミニLIVEを行わせていただいた。ベッドの上でリズムを取ったり、ときに涙をぬぐったりと、入所者のみなさんによろこんでいただくことができた。そのなかで、僕が作詞を担当した「1/6900000000」も歌った。この世に生きるすべての人に価値があり、その一人ひとりでこの世界は成り立っているのだというメッセージを込めた曲だ。 みなさんの前でこの曲に込めた思いを説明すると、それまでずっと案内をしてくれていた女性職員が深くうなずいてくれた。 「私たちが彼らに伝えたいのは、まさにそのことなのよ」 この施設の名称にもなっている「GENESIS」とは、旧約聖書における「創世記」のことを指す。その語源となっているギリシャ語の「ゲネシス」には、「誕生、創生、開始、始まり、根源」という意味がある。この施設が多くの人々にとって終焉の地でなく、新たな人生が始まる場所として機能することを願ってやまない。
「ネルソン・マンデラが目指した“虹の国”」
前回のブログにも書いたとおり、ケープタウンでは様々な場所を訪れることができたが、唯一の心残りがある。それは、ロベン島に行けなかったことだ。ロベン島とは、多くの観光客でにぎわうウォーターフロントから約14kmの沖合にある島で、かつては政治犯などを収容する黒人専用の刑務所が存在していたという。約30年間で3000人近くもの政治犯を収容していた刑務所は1996年に閉鎖され、現在は島全体が博物館として観光名所となっている。1999年には、世界文化遺産にも登録されたという。 僕がこのロベン島を訪れたかったのは、なにも世界遺産だからというわけではない。のちに大統領となる故ネルソン・マンデラ氏も、このロベン島に収容されていたというのだ。若くして反アパルトヘイト運動の指導者として活動してきたマンデラ氏は、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。その後、27年間にも及ぶ獄中生活を送ることになるのだが、その大半をこのロベン島で過ごしたという。マンデラ氏がどのような場所で時を過ごし、どのような思索に耽っていたのか。少しでも肌で感じたいとの思いからロベン島に渡ろうとしたが、先月のマンデラ氏逝去により訪問客が激増。来週まで予約でいっぱいだと断られてしまった。 1990年に釈放されたマンデラ氏は、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。オランダ系白人である当時のデクラーク大統領とともにアパルトヘイト撤廃に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した。さらに1994年、南アフリカで初めて全人種に選挙権が与えられた選挙において、黒人初の大統領に就任。27年間もの獄中生活を送っていた人物が、晴れて国内の最高指導者として選出されたのである。 黒人大統領が誕生したことで、南アフリカじゅうの白人たちは恐怖におののいた。これまで抑圧の対象だった黒人の側に権力が移行したのだ。今度は自分たちが同じ目に遭わされるに決まっている――。それは大統領官邸で働く白人スタッフにとっても同じことで、彼らはマンデラ氏就任と同時にクビを切られることを覚悟し、早々に荷物をまとめていた。だが、そんな彼らに向かって、マンデラ氏はこう伝えたのだという。 「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカをつくるために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」 このエピソードからもわかるように、彼は白人に報復することを選ばなかった。あくまで「憎悪より融和」「報復より許容」を掲げ、民族の和解と協調を呼びかけた。プレトリアで行われた大統領就任演説では、こんな言葉を残している。 「黒人や白人やすべての南アフリカ人が、いかなる恐怖心も抱かずに胸を張って歩くことができ、人間の尊厳が保証された社会を建設することを約束する。この国は、(多人種で構成された)“虹の国”だ」 黒人運動の指導者だった時代は、あくまで武力によって問題を解決しようと考えていた。だが、長年に渡る獄中生活でその過ちに気づいたマンデラ氏は、自分たちを支配してきた白人を許し、彼らと協調を図ることで新しい時代を築いていくべきだと考えを改める。獄中で自分たちの支配者の言語であるアフリカーンス語を学びはじめたのも、彼らと直接対話することで新時代の幕開けを図ろうとしたのだろう。 偉大なる足跡を残して昨年12月にこの世を去ったネルソン・マンデラ氏。しかし、彼の目指した“虹の国”が理想通りに実現したとは言いがたい。アパルトヘイト撤廃から20年が経ったものの、いまだ経済的に恵まれず、貧困にあえぐ黒人も少なくない。そうした黒人たちの苛立ちを反映するように、社会には白人を糾弾するメッセージが目立ちはじめ、黒人至上主義を掲げる政治家に人気が集まる傾向にあるという。 マンデラ氏が掲げた融和と許容の精神は、このまま過去のものとなってしまうのだろうか――。複雑な思いを抱きながらホテルへと戻るバスに揺られていると、山の向こうに大きな虹が架かっているのが見えた。 「“虹の国”は、過去のものとなったわけではない。まだ実現に向けた道中にあるのだ」 虹の向こうから、マンデラ氏がやさしく語りかけてくれているような気がした。
「南アフリカの持つ魅力」
どんな国を旅しても、だいたい2~3日も歩き回れば、何となくその国の雰囲気や感覚というものが肌を通して伝わってくる。だが、ここ南アフリカでは、それが難しい。ケープタウンという都市をずいぶん見て回ったが、いまだ「この国のカタチ」というものがつかめずにいる。 たとえば、テーブルマウンテン。頂上がナイフで切ったように平らな形をしていることからこの名がついたダイナミックな山は、この町の象徴。ロープウェイで頂上まで登れば、ケープタウン市街地やテーブル湾を一望する絶景が楽しめる――はずだったが、この日は頂上一帯に雲がかかり、あたり一面真っ白。パンフレットにあった眺望を楽しむことはできなかったが、普段はなかなか経験することのできない「雲のなかにいる」感覚を味わうことができた。 ウォーターフロントは、旧港を再開発したエリア。水族館やショピングセンター、ホテルやレストランが並ぶ、ケープタウンを訪れた観光客なら誰もが訪れるスポットだ。治安が悪いと言われる南アフリカだが、このウォーターフロントは家族連れでも安心して散策することができる。明るい陽光を浴びながら、港を横目にそぞろ歩きを楽しみ、気に入ったレストランに立ち寄り美味しいシーフードに舌鼓を打っていると、まるでヨーロッパのリゾート地に来たかのような錯覚に陥る。 17世紀にオランダ領マレーから奴隷として連れて来られた人々の子孫が暮らすマレークォーターには、かわいらしいパステルカラーの家々が建ち並ぶ。なかには18世紀に建てられた古い家もあるそうだが、すべて明るい色調に塗り替えられているので、まったく古さを感じさせない。ピンクやスカイブルーなど色とりどりの邸宅が並ぶ通りを歩いていると、まるで絵本の世界に迷い込んだよう。だが、彼らの先祖がこの地に移り住むようになった経緯を考えると、複雑な気分にさせられる。 テーブルマウンテンの南側にあるタウンシップ(旧黒人居住区)。アパルトヘイト時代は人種によって居住区域を定められていたが、いまはどの人種でも自由に住む土地を決めることができる。とはいえ、仕事もなく、いまだに貧しい暮らしを強いられている黒人は多く、彼らは依然としてタウンシップに住み続けている。なかにはレンガ造りで電気・水道のある家もあるが、そのほとんどは集めてきた廃材を利用して建てた小さな家で、大雨が降れば家中が水浸しになってしまうという暮らし。何とか職を探そうとするがうまくいかず、アルコールやドラッグに溺れてしまう人も少なくない。 ケープタウンで訪れたこれらのスポットに共通項を見つけることは難しい。自然や歴史、景観や娯楽――様々な切り口からとらえようとも、これらをひとつの枠内におさめることはできそうにない。だが、見方を変えれば、それこそが南アフリカという国なのかもしれない。あまりに様々な、そしてときには相反するような要素を併せ持つこの国を、「南アフリカとは、こんな国である」とたったひと言で説明するには無理がある。だが、まったく異なる様々な要素がモザイク状に集まって成り立つ国なのだと理解すれば、これまで見てきたすべてのエリアがこの国を構成する重要なファクターなのだと合点がいく。 そんなことを考えていると、僕はごく身近に似たような都市があることに気がついた。僕の育った町・新宿だ。新宿西口には高層ビルが建ち並ぶビジネス街があり、東口には歌舞伎町という日本一の歓楽街もある。新宿二丁目にはLGBTの人々が集い、大久保界隈には韓国人をはじめとする多くの外国人が暮らしている。早稲田大学など多くの大学や専門学校が集まる高田馬場は学生街としてにぎわい、神楽坂には昔ながらの情緒ある店が多く残っている。 日本にも個性ある町はいくつも存在するが、これだけバラエティに富んだ要素が詰まった町は、新宿をおいてほかにないのではないだろうか。そして、僕の感じる都市の魅力とは、まさにこうしたところにあるのだと気づかされた。一面的ではなく、様々な要素によって構成される多文化共生の町。それだけに摩擦や衝突、格差や偏見というものも生まれやすいのかもしれないが、そうした違いを乗り越えてひとつになることに、僕は大きな魅力を感じるのだ。 明日はケープタウンを離れ、マーゲートという海辺の小さな町へと移動する。そこにはどんな魅力が詰まっているのか、期待に胸をふくらませている。
「カラードの主張」
成田空港を出発してから26時間。南アフリカで最も風光明媚な都市として知られるケープタウンに到着した。空港からホテルへと向かうシャトルバスのなかで、同乗したドイツ人夫婦から、「今日はカーニバルがあるから、街はずいぶんにぎやかになるようだ」と聞かされた。「どうりでホテルの料金がべらぼうに高かったわけだ」と苦笑しながらも、部屋に荷物を置くと、早速、外へと飛び出した。 シャトルバスの車窓から見えた、いちばんにぎやかなエリアへ。ケープタウン駅の南側に広がるグラン・パレードという広場には露天がずらりと並び、雑貨やみやげものを売っている。祭り特有の浮ついた空気に胸踊らせながら進んでいくと、やがて大通りに行き着く。左手には、刑務所から釈放されたばかりのネルソン・マンデラ元大統領がスピーチしたことで知られる、イタリア様式の美しい市役所が見える。 大通りの両側はフェンスが設けられ、カーニバルの始まりを今か今かと待ちかまえる人々でごった返していた。なかには折りたたみ式の椅子を持ち込んでフェンス際に陣取っている家族連れの姿もある。何とか人垣の少ないポイントを探し、車いすで進んでいく。首尾よく最前列を確保。フェンスにしっかりと捕まりながら、僕は視線を遠くにやった。ちょうど市役所の前で、やけにカラフルな一団が待機している。まもなく始まりそうだ。 このカーニバルは、「Minstrel Carnival(吟遊詩人フェスティバル)」と呼ばれるもので、毎年1月2日~4日にかけてケープタウンで開催されている。3日間で1万3000人を超すパフォーマーが登場し、彼らはこの日のために数ヶ月も前から準備に勤しむのだとか。この「Minstrel Carnival」は、子どもたちだけでなく、大人たちをも熱狂させる一大イベントなのだ。だが、このカーニバルが開催されるようになった経緯を知ると、少し見方が変わってくる。 17世紀以降、オランダ領マレーから多くの奴隷や流刑者がケープ植民地に送られてきた。彼らは主に白人の奴隷として扱われていたが、新年の休日として1月2日だけは休みを与えられていた。そこで、その日にマレー系移民の人々が集い、政治的な抗議をするという意味合いでパレードが行われるようになったのだという。これが、いまではケープタウンの風物詩にまでなった「Minstrel Carnival」の始まりだ。 20世紀に入ると、オランダ系白人の政権によるアパルトヘイト政策が開始された。アパルトヘイトというと、「白人が黒人を抑圧していた」というイメージが強いが、その表現は正確ではない。南アフリカには白人と黒人以外にも様々な人種が存在しており、彼らを明確に分類することで、住む場所や職業、婚姻の自由など、人間として生きる権利を著しく制限する政策――それがアパルトヘイトだったのだ。 マレー系移民の人々は、インド系移民や、黒人と白人の混血の人々と同じく「カラード」として分類された。わかりやすく言いかえるならば、白人でも黒人でもない「第三の存在」という分類だ。彼らもまた居住区が決められ、婚姻もカラード同士でなければならないとされた。やはり黒人同様、生きる権利を大きく制限されたのだ。こうした経緯から、かつてマレー系の人々が行っていたパレードは、カラード全体のお祭りへと発展していったのだという。 男性の声でアナウンスが流れると、沿道に集まった人々から歓声があがる。フェンスから身を乗り出すようにして周囲をうかがうと、先ほどまで待機していた一団がこちらに近づいてくる。楽団による華々しい音楽が、耳に心地いい。このカーニバルには80を超えるグループが参加しているというが、この一団は赤を基調とした衣装に身を包み、顔には派手なペインティング、手にはそれぞれ傘や楽器を持っている。 アパルトヘイトが撤廃されて20年。しかし、社会の状況が劇的に変わったとは言いがたい。法律上の差別や制限はなくなったが、いまだ住環境や職業などにおける格差は大きく、白人のように恵まれた生活を送っているわけではない。少なからず抑圧を感じながら生きているだろう彼らだが、しかし派手な衣装で着飾り、陽気に楽器を打ち鳴らすその姿は、生きているよろこびを爆発させ、自分たちの存在を誇らしげに主張しているかのようにも見えた。 このカーニバルを見ながら、僕は昨年5月に参加した「東京レインボープライド2013」のことを思い出していた。このパレードはLGBTへの理解を求める趣旨で行われたものだが、僕にもLGBTの友人がいることから参加させてもらった。青空のもと代々木公園を出発し、渋谷の繁華街を抜けて明治通りへ。カラフルな衣装や飾りつけをした一団のにぎやかなパレードに、沿道の人々も笑顔で手を振ってくれた。 そのとき、僕のとなりにいた女性参加者のひとりが、ポツリとつぶやいた。「大通りでこんなことができちゃうなんてねえ」――その言葉に、僕はハッとさせられた。普段は自身の境遇を隠したり、カミングアウトしていてもどこか肩身の狭い思いをしたり。そうして生きてきた人々が、いま渋谷の喧騒のなか、「主人公となって」歩んでいるのだ。彼女が感慨深げにつぶやいたその言葉に、彼らがかみしめている解放感や達成感というものを、わずかながら共有することができた。 そして、いま僕の目の前ではカラードと呼ばれる人々が主役となり、熱狂しながら大通りを闊歩している。笑顔、笑顔、笑顔――。彼らの底抜けに明るい表情と、思わず踊りだしたくなってしまうほど楽しげな音楽は、しかし、その裏側にある南アフリカという国の歴史が生み出した悲劇を思い起こさせた。南アフリカ到着から数時間、いきなり強烈な体験を味わった夜。これから10日間、まだまだ多くのことを考えさせられる旅となりそうだ。
「バナナトレイン」
染谷西郷と出会ったのは、9年前。マカオの地だった。FUNKISTというバンドでボーカルを務める彼は、異国のステージ上で激しいパフォーマンスを繰り広げ、熱のこもったメッセージを伝えていた。言葉が通じないはずの観客たちはそれでも熱狂し、となりの観客と肩を組んで踊り、彼の歌声に耳を傾けた。それまで会ったこともない、その存在すら知らなかった彼らのステージに圧倒された僕は、ライブ後すぐに物販コーナーに向かい、彼らのCDを買い求めた。 伝えたいメッセージに多くの共通項を持つ僕らは、すぐに意気投合。交流が始まった。はじめはメンバーが住むアパートで鍋パーティーをしたり、僕の趣味である落語を一緒に聴きに行ったりと、いわゆる友人としての付き合いだったが、やがて一緒に曲作りをしたり、被災地を訪れたりと活動をともにするようになった。彼との付き合いが長く、そして深くなっていくほど、彼の慈愛に満ちた人間性に魅了され、彼のファンになっていった。だから、南アフリカという国が、ずっと気になっていた。 西郷の父は、日本人。母は、イギリス系の南アフリカ人。彼らが出会った当時、南アフリカはアパルトヘイト政策下にあった。黒人に比べればまだ優遇されていたとはいえ、それでもアジア人との交際・結婚が許される環境ではなかった。彼らは意を決してスペインに移り住み、そして日本へと渡った。そこで生まれたのが西郷だった。日本だけでなく、「西にある故郷を忘れないように」というのが、彼の名の由来だ。 彼らの曲のなかには、南アフリカをモチーフにしたものが多い。『バナナトレイン』も、そのひとつだ。西郷は19歳で南アフリカを訪れたとき、祖母にすすめられるままに、「バナナトレイン」と呼ばれる列車に乗った。列車はバナナ畑を抜けていくと、やがて黒人たちが暮らす村に差しかかった。線路脇に群がる子どもたち。その衣服は汚れ、破れている。列車のなかの白人たちは、そのタイミングに合わせて車内販売されるお菓子を窓から投げる。黒人の子どもたちは、それをよろこんで拾い集める。その無邪気な子どもたちの姿に、白人たちはひとつ、またひとつとお菓子を投げていく――。 西郷のポケットには、キャンディが入っていた。だが、彼は周囲の白人たちがそうするように、それを窓から投げることが“正解”なのかわからずにいた。どうしたらいいか戸惑っていると、ふと線路脇に佇むひとりの黒人少女と目が合った。彼女は、幼い弟を抱えていた。西郷はポケットに手を入れた。だが、それを取り出し、窓の外に投げることへのためらいを最後まで拭いきることができなかった。そんな西郷に、少女はとびきりの笑顔を向ける。その笑顔に、西郷は涙を流すことしかできなかった。 そんな経験をもとに書かれたのが、『バナナトレイン』という曲だ。初めてこの曲を聞いたとき、僕は強い衝撃を受けた。他の乗客たちと同じく、線路脇の子どもたちに菓子を投げることが「善」なのか。その行為を「偽善である」と断罪し、何もしないことが「道徳的」なのか。これまで机の上で勉強してきた知識では、まるで太刀打ちすることのできない難問だった。「僕だったら、どうしただろう」――その問いが、しばらく頭のなかから離れなかった。 あれから9年。いまだ、僕のなかで答えは出ていない。だが、この難問に答えを出すための貴重な経験をようやく得ることができる。2014年1月、僕は初めて南アフリカ共和国に降り立った。ここで多くのものを目にし、多くの人と出会い、考える糧としたい。もちろん、たった10日間の経験だけでは、この問題に答えを出すことはできないかもしれない。それでもこの旅は、僕の人生を大いに豊かなものにしてくれると信じている。