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桜の木の下で
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、担任していた子どもたちとの別れをつづった 第12回「桜の木の下で」をお送りします! 第12回『桜の木の下で』 素直な子どもたち。理解ある保護者の方々。「車いすに乗った手足のない教師」という異質な存在を、高円寺の街はあたたかく受け入れてくれた。 いよいよ退職の日を迎えた3月31日。子どもたちはすでに春休み。学校には教職員しかいない。ロッカーや机上の荷物整理を終え、ちょっぴり感傷的な気持ちになりながら職員室を出ようとしたそのとき、校庭側の窓ががらりと開き、そこからふたりの少女が顔をのぞかせている。 「先生、ちょっと校庭まで出てきてよ。早く、早く!」 あわてて車いすを校庭まで走らせると、なんとそこには2年間受け持った子どもたちと、その保護者の方々が待ち受けていた。驚きで目を丸くする僕を、あたたかな笑顔がぐるりと取り囲む。 「先生、2年間、本当にお世話になりました!」 「いや、先生のほうこそ、ありがとう。みんなと過ごした毎日、本当に楽しかったよ!」 校庭の隅では、ただ一本だけ植えられた桜の木が、4月の声を待ちきれずにその蕾を開いている。僕らはその薄紅色の屏風をバックに記念撮影をした。 うれしかったこと。苦しかったこと。子どもたちが校門まで見送ってくれるその間、3年間で経験したすべてが、走馬灯のようによみがえってくる。杉並区と契約した3年という年月は、過ぎてしまえばあっという間だった。もっと続けたいという後ろ髪ひかれる思いももちろんあったが、同時に教育現場で得た貴重な経験を伝えていきたいとの思いもあった。 今月出版された『だいじょうぶ3組』(講談社)は、そんな子どもたちと向き合った3年間の思いを、たっぷりと詰め込んで描いた初の小説だ。ご一読いただき、感想などいただければ幸いだ。
オトフォン
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、教員時代の保護者との思い出をつづった 第11回「オトフォン」をお送りします! 第11回『オトフォン』 以前から教育に深い関心があった僕は、スポーツライターから小学校教師へと転身することを志した。手足のない人間の「教員になりたい」という非常識な願いを叶えてくれたのが杉並区。「3年間の任期付き」という条件で僕を採用してくれたのだ。赴任先は杉並区立杉並第四小学校。JR高円寺駅から徒歩5分ほど。ねじめ正一氏の直木賞受賞作『高円寺純情商店街』の舞台にもなっている街だ。 教員2年目、初めて担任を任された。3年2組。このかわいらしい23人の子どもたちをよりよい方向に導いていくには保護者との信頼関係が不可欠と考えた僕は、その手法について考えをめぐらせた。結果、「ブッチホン(小渕元首相による唐突な電話)」ならぬ「オトフォン」をかけまくることにした。 担任から電話がかかってくるとなれば、何か子どもがトラブルを起こしたときと相場が決まっている。ところが、僕は子どものことを褒めるために電話をかけまくった。 「今日の体育の時間、○○ちゃん、ずっと苦手な逆上がりの練習をしていたんですよ」 「○○君、いつもは引っ込み思案なのに、今日は△△委員に立候補してくれたんです」 最後まで逆上がりができなくてもいい。投票の結果、委員が別の子に決まったっていい。たとえ結果に結びつかなくても、その子の頑張りを評価してあげたいし、親としても通知表で示される数値だけでなく、わが子のそうした頑張りを知りたいと思うのだ。 初めのうちこそ「え、ウチの子が何かしたのでは……」と戸惑っていた保護者の方々も、次第に「オトフォン」を楽しみにしてくださるようになっていった。車いす先生は、こうして高円寺の街との関係を深めていった。
救われた命
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、長男誕生までの思い出をつづった 第10回「救われた命」をお送りします! 第10回『救われた命』 梅の名所として知られる、世田谷区立羽根木公園。その南西に広がる閑静な住宅街が梅丘だ。仕事の都合により、この街に転居することになって一ヵ月。妻のおなかに命が宿っていることがわかった。結婚7年目のことだった。 それは僕ら夫婦にとって、「待望の」なんていう言葉では表せないほどに大きなよろこびだったが、いざ妊娠してみると、決して手放しではよろこべない状況だということがわかってきた。妊娠中は、決して重いものを持ってはいけないというのだ。それまで入浴やトイレなど、僕に関するすべての介助を妻が担ってきた。重いものを持ってはいけない、つまり、僕のことを抱えてはいけないとなれば、僕らの生活は成り立たなくなってしまう――。 そんなピンチを救ってくれたのが、僕の友人たちだった。毎晩、入れ替わり立ち替わり梅丘にあるわが家を訪れては、身重の妻に代わり、僕を抱えて風呂に入れてくれたのだ。なかにはベロベロに酔っ払いながらも、「今日はオレの番だから」と介助に来てくれた友人までいた。彼らの助けがなかったら、おなかにいる子どもは大きな危険にさらされていたかもしれない。 だから、その数ヵ月後、長男が無事に誕生してきてくれたときには、こう思ったのだ。 「この子は僕ら夫婦の思いだけでなく、ここまで支えてくれた多くの人の思いを受けて生まれてきてくれたのだ。この命、大切に、大切に育てていかなければ――」 その後、僕らは「やっぱり祖父母のサポートが得やすい場所に引っ越したほうがいいだろう」との理由から、わずか4ヶ月半でこの梅丘を離れてしまった。だが、いまでもこの街を訪れると、当時の記憶が鮮明によみがえってくる。友人への感謝の思いとともに。
歌舞伎町の教育者
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、歌舞伎町を舞台に活躍する親友への思いをつづった 第9回「歌舞伎町の教育者」をお送りします! 第9回『歌舞伎町の教育者』 親友・手塚真輝が歌舞伎町で経営するホストクラブへは、週一回ほどのペースで飲みに行くようになった。ホストというと世間では眉をひそめられるような存在だが、彼の店の従業員はどの子も礼儀正しく、清々しさを感じさせた。 「ホストなんてそう長くやれる職業じゃない。だから、せめて僕の店にいる間に、社会人としてしっかり仕事ができるような人材として社会へと送り出してあげることが僕の役目なのかなって」 だが、それぞれ地元でワルだったような青年たち。そうひと筋縄でいくような相手ではない。手塚は知恵を絞った。 「ワルって、目立ちたいからわざと他の人と違うことをするんですよ。でも、歌舞伎町にはそんな人種ばかりが集まっている。だから、『いままで通りにしていたら、まったく目立たなくなるぞ』と言って脅したんです」 効果はてきめんだった。時間を守る。挨拶をする。掃除をする――これまでできなかった「当たり前のこと」が次第にできるようになってきた。その後、小学校の教師として十歳前後の子どもたちと向き合うことになる僕と、ホストクラブのオーナーとして二十歳過ぎの若者たちと向き合う手塚。立場こそ違えど、「教育」に興味のある者同士、大いに語り合った。 この夏、彼の店の従業員はそろってソムリエ試験を受けた。「ホストクラブにソムリエがいたらカッコイイ」という手塚の思惑もあったが、もちろん、それだけではない。 「ほとんどの子が、勉強から逃げてこの歌舞伎町という街に流れてきた。そんな彼らに、自分を奮い立たせて勉強するという経験をさせてあげたかったんです」 最終結果が出るのは、今秋。彼の店から、いったい何人のソムリエが誕生するだろう。 ※見事、6人の合格者が誕生しました!
夜鳥の界
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、歌舞伎町で活躍する親友との出会いについてつづった 第8回「夜鳥の界」をお送りします! 第8回『夜鳥の界』 日本一とも言われる新宿・歌舞伎町。ネオンがきらびやかに輝く、眠らない街。多くの飲食店や風俗店とともに、この街のあちこちに看板を出しているのがホストクラブだ。じつは数年前から、僕はこっそりホストクラブ通いをしている。というのも、僕の親友が歌舞伎町でホストクラブのオーナーを務めているのだ。 手塚真輝と出会ったのは、いまから6年近く前のこと。自身もテレビ出演するほどに人気のあるカリスマホストだった手塚だが、25歳のときに独立し、ホストクラブ『スマッパ!』を開店。みずから従業員を抱える身となった。以来、ホストクラブ3軒、バー5軒を新規開店。経営者としての手腕もなかなかのものだが、彼の本当の魅力は、そのユニークな社会的活動にある。 2004年に起こった新潟県中越地震。手塚はタクシーを飛ばして新潟県庁まで駆けつけると、ぽんと百万円を寄付した。「目立ってやろう」との思いからだったが、その後訪れた被災者が集まる体育館で、「本当にありがとね」と涙ながらに手を握られ、目が覚めた。 「いままでホストなんて何をやっても認められるはずないと思っていたけど、ホストという職業をいちばん色眼鏡で見ていたのは僕自身だったのかもしれない」 東京に戻ると、手塚はボランティア団体を立ち上げた。『夜鳥の界』――月一回、スーツ姿でキメたホストたちが深夜の歌舞伎町を清掃する活動は、すぐに話題となった。 「おまえたちがこの街のゴミだ、なんて言葉を聞かされたこともある。それでも、僕にはこの街に育ててもらったという感謝の思いがあるから」 そんな思いを熱く語ってくれた手塚とは、年も一つしか離れていないこともあり、すぐに意気投合。毎週のように酒を飲む間柄となった。
早稲田での原点
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、僕の活動のスタートとも言える出会いをつづった 第7回「早稲田での原点」をお送りします! 第7回『早稲田での原点』 僕が大学生活を送った早稲田の街で出会ったのが、当時、早稲田商店会会長を務めていた安井潤一郎さん。安井さんは、学生不在となる夏休みに売り上げががくんと落ちる状況に「夏枯れの街を何とかしよう」と環境をテーマにしたイベント「エコサマーフェスティバル」を企画。その後、「早稲田いのちのまちづくり実行委員会」を立ち上げると、そのリーダーとしてまちづくり活動を引っ張っていった。 「俺たちは、『失敗』と書いて、『経験』と読む。 失敗を恐れずに、どんどんチャレンジしていこう」 「市民参加という言葉があるが、俺たちが目指しているのは、 自分で場を作ってそこに行政を巻き込む、いわば『行政参加』なんだ」 といったユニークな発言も魅力的だったが、空き缶を入れると商店街で買い物をする際の割引券が抽選で当たる「空き缶回収機」を設置するなど、その活動もアイデアと遊び心に満ちあふれていた。 安井さんから、「まちづくりのバリアフリー部門で力を貸してほしい」と言われ、二つ返事でお受けしたのが、大学一年生の秋のこと。それから、用意した何台もの車いすに乗って、自分たちが住む早稲田の街をいつもとは違った角度から体感してもらう「車いす探検隊」を企画したり、早稲田大学総長に校舎のバリアフリー化を申し入れたりするなど、早稲田のバリアフリー化に努めてきた。講演活動を始めたのも、『五体不満足』が出版されたのも、すべてはこの早稲田でのまちづくり活動が原点となっているのだ。 1996年にスタートした「エコサマ」は、その後「早稲田地球感謝祭」と名前を変え、いまや4万人を動員するイベントにまで成長した。15回目を迎える今年は、9月23日、早稲田大学本部キャンパスにて開催される予定だ。 ※今年も大盛況だったようです!
トモダチ
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、外国人女性との不思議な友情をつづった 第6回「トモダチ」をお送りします! 第6回『トモダチ』 高校時代、アメフト部の活動と映画製作に明け暮れていた僕は、勉強は二の次という生活を送っていた。当然のように、浪人生活に突入。「車いすの方はちょっと……」と、いくつもの予備校に門前払いされて途方に暮れていた僕を快く受けて入れてくれたのが、駿台予備校新宿校(現在は閉校)だった。 新宿校という名ではあったが、最寄り駅はJR大久保駅。コリアンタウンとして有名な大久保は、多国籍な街。韓国語以外にも中国語や東南アジア、南米など様々な地域の言葉が聞こえてくる。 ある冬の日、自習室で遅くまで勉強して帰ろうとした時のことだ。首をすくめるようにして寒さをしのぎ、家路を急いでいた僕の前に、客を求めて歩いていたひとりの娼婦が立ちふさがった。その場で固まってしまった僕に、彼女は自動販売機を指さしながら、カタコトの日本語で話しかけてきた。「アナタ、何飲む?」彼女の名は、ミレーナ。コロンビアから来たという。 それから、何度も大久保の街で彼女とすれ違うようになり、そのたびに立ち話をするようになった。たがいの身の上話までするようになった。そこには、いつしか友情にも似た感情が芽生えていた。数ヵ月後、志望校に合格した僕は、早稲田の地で大学生活をスタートさせ、ミレーナとはそれっきり顔を合わせなくなった。 十年後、大江戸線東新宿駅のエレベーターで、小さな男の子を連れた南米系女性に声をかけられた。 「ヒサシブリ、オボエテル?」 ミレーナだった。いまは日本人男性と結婚し、幸せに暮らしているという。ミレーナのスカートの裾をつかんだ男の子が、不思議そうに顔を見上げた。 「ねえ、誰?」 「ママのトモダチよ」 トモダチとの再会が、やけにうれしい一日だった。
そして、頂上へ
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、高校時代のアメリカンフットボール部での思い出をつづった 第5回「そして、頂上へ」をお送りします! 第5回『そして、頂上へ』 高田馬場にある都立戸山高でアメフト部に入部した僕は、仲間とともに優勝を目指し、奮闘していた。決して広くはないグラウンドをサッカー部やラグビー部など他の運動部とも共用するものだから、ひとたび野球部がノックを始めると、硬球がミサイルのごとく飛んでくる。防具をつけている選手たちと違い、丸腰で危険にさらされる僕らマネージャーは、びくびくしながら練習を見守ったものだ。 百キロ以上ある大柄な選手をそろえる私立校のチームと違って、僕ら戸山高校は小粒ぞろい。そうした体格面でのハンディを埋めるためにも、僕らは戦術面を重視した。相手チームは右へ展開してくるのか、それとも左か。パスを多用してくるチームなのか、それともラン攻撃なのか――。パソコンを駆使し、相手チームの攻撃傾向を分析するのが僕の仕事だった。ときには徹夜での作業となることもあったが、歯を食いしばって練習に励む仲間の姿を思い浮かべれば、眠気などどこかへ吹き飛んでいった。 迎えた二年生の春季大会、僕らは快進撃を続け、ついに都大会優勝という快挙を成し遂げた。チームメイトとよろこびを分かち合ったあの瞬間はかけがえのない思い出だが、僕が楕円形のボールを見つめ続けた青春から得たものは、決してそれだけではない。 体格に自信があれば、相手とぶつかり合うポジション。細身でも判断力にすぐれ、肩が強ければ司令塔。背が低くても足が速ければ、ボールを託される。アメフトには個性に応じた様々なポジションがあった。その後、「みんな違って、みんないい」というメッセージを発信していくことになる僕の素地がつくられたのは、このアメフトというスポーツを通じてのことだったように思う。
楕円形に夢を乗せて
東京新聞『わが街わが友』全12回の連載をお届けするシリーズ。 今日は、高校時代の青春の思い出をつづった 第4回「楕円形に夢を乗せて」をお送りします! 第4回『楕円形に夢を乗せて』 JR高田馬場駅から徒歩10分ほどの距離にある都立戸山高校。制服もない自由な雰囲気と、上からの押し付けではなく生徒自身に考えさせるという校風がとても気に入り、僕は進学先としてこの創立100年以上の歴史を誇る伝統校を選んだ。 入学後にまず圧倒されたのは、各クラブの熾烈な新入部員獲得競争。ランチタイムにがらりと扉を開けて入ってきた演劇部員が黒板の前で即興劇を演じたかと思うと、休み時間には合唱部が整列して、美声を披露する。そのなかで僕の視線を釘づけにしたのが、アメリカンフットボール部だった。鎧のような防具を身にまとって教室になだれこんできたかと思うと、「ウォーッ」と猛々しい雄叫びをあげる。女の子たちはさすがにたじろいでいたが、僕は完全ノックアウト。早速、その日の放課後、友人と連れ立ってアメフト部の見学に出かけていった。 面食らったのは、先輩部員たちだ。なんせ、手足のない車いすに乗った新入生が「アメフト部に入りたい」とやってきたのだ。目を白黒させる先輩たちのなかで、「いや、きっと君にもできることがある」と声をかけてくれたのが松葉杖をつくY先輩だった。 Y先輩はそれまで守備陣の中心選手として活躍していたが、試合中の怪我で靭帯を痛め、以降はプレーが不能に。それでも、チームメイトが認めるほど明晰な頭脳を生かし、相手チームのプレーを分析するなど、戦術面で大きくチームに貢献していたのだった。 「俺が引退したら、おまえがその役割を担ってくれよ」 先輩の言葉に深くうなずいた僕は、その日から「戸山砂漠」と言われる砂ぼこり舞うグラウンドで、仲間たちとともに優勝を目指し、楕円形のボールを見つめる日々を送ることになった。