OTO ZONE

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朝日新聞「逆風満帆」(下)

朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第3回(下)・「萎縮した教育現場で」をお送りします。 ***************************************************** 2007年4月。乙武洋匡(34)は東京都杉並区で、区立小学校の先生になった。同じ区立の和田中学校には「夜スペ」などで話題を集めた民間人校長、藤原和博。乙武は学校改革に熱心な杉並区が独自に採用した、任期つきの教員だった。1年目は道徳や理科などを教えることになった。 しかし強い逆風が待っていた。 赴任初日、宮山延敬校長(当時)は、乙武に言った。「先生の赴任を快く思わない先生もいらっしゃる。気をつけて下さい」 現場は「介助の必要な教員が来ると仕事が増える」「メディアが来て学校が混乱する」と反発していた。どうせ腰掛けだろう、と面と向かって言う教員すらいた。 乙武は孤立しがちになり、繰り出すアイデアも却下された。 理科で栽培した豆をゆでて食べてみよう、という計画は、食中毒の恐れあり、と中止させられた。 田植えの際の「はだしで泥の感触を味わうのもいい経験。靴下をはかせるのはやめたらどうですか」という提案も、却下。 日々、自衛のための書類作りに忙殺される教員らの目には、暴挙にしか見えなかったのだろうか。 ホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)が言う。「彼の正論は、厳しい現状の中でもまれてきた先生には、無責任に思えたのかもしれないね」 この間、妻と話す気力すら失ったという乙武は「異質なものは受け入れられない雰囲気がありました」と、言葉少なに振り返る。 しかし、「毎時間の授業の展開をノートに書き、介助員と連携して、子どもの立場に立った授業をしていた。ことに命の大切さを、上手に伝えていました」と評価し、学びあった同僚もいた。 担任をまかされた2年目、“逆襲”に転じた。子どもたちとじっくり向き合うため、保護者と信頼関係を築くことから始めた。 「23人の子どもたちと僕と介助員の大野(新一)、保護者のみなさん。全員で3年2組ですから」 最初の保護者会で、そう語りかけ、いつでも見学にどうぞ、と誘った。放課後は携帯電話で、保護者に子どもたちの様子を伝えた。 答えはわかるのに、授業で挙手できない女の子の母に、乙武はこう伝えた。「泣いちゃったけど、最後までがんばって発表しました。ほめてあげて下さい」。母は「ほめるために電話を下さるなんて。本当に驚きました」と話す。 逆上がりが苦手だった男の子は、ふざけてばかりいて努力しなかったのを乙武にしかられ、手の皮がむけるほど練習した。その翌日。「先生は『がんばったよな』と息子をほめ、みんなの前で逆上がりをやらせてくれたそうです」。母親は、乙武からの電話で知った学校での様子を、その場で見ていたかのようにつぶさに語った。 ●23人の「色えんぴつ」 学校と保護者の間の、疑心暗鬼というモンスターは消えていた。 任期最後の3年目。「思い切ってやらせてもらった」という。 たとえば、「運動会の80メートル走の全レースで2組が1位になったら、丸刈りになる」と約束。全レース1位は逃したが、努力をたたえて子どもたちにバリカンを渡し、乙武の髪を刈らせた。「職員室で、しかられたけどね(笑)」 一心に愛情を注ぎ、ほめて泣き、叱って泣く乙武は、子どもたちを変えた。臆せず挑戦するようになり、お互いにその様子を認め合うようになった。勉強が苦手な男の子が、乙武の励ましの結果、最後の漢字テストでただ一人100点を取った時は、みんなで拍手を送り、乙武はまた泣いた。 乙武は教室に、筆で書いた文字を掲げていた。2学期は「23/6800000000」、3学期には「1/6800000000」。地球上にいる68億人の中から、仲間として出会った23人。そして、一人しかいない自分。仲間と自分を大切にしようと教えた。 10年春、子どもたちはクラス文集を「色えんぴつ」と名付けた。一本一本違う色。折れやすいけれど、折れてもまたやり直せる色鉛筆――。伝え続けた「みんなちがってみんないい」は、届いた。「いいクラスになった。報われたな、と思いました」。話す乙武の目に、涙がにじんだ。 3年間の教員生活は終わった。でも乙武を杉並に誘った藤原は言う。「彼は、何かを変える、とんでもない力を秘めている。先生としてあの体では普通ありえない経験を積んだ彼が、今度はどこで力を発揮するのか。楽しみですね」=敬称略 (魚住ゆかり)


朝日新聞「逆風満帆」(中)

朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第2回(中)・「選手の本音引き出し奔走」です。 *************************************************** 「勝った!勝ったよ!!優勝だ!!!」。サッカーのアジアカップ決勝があった1月30日未明、乙武洋匡(34)がツイッターでほえた。(乙武さんのツイッターはこちら) 乙武のそばにはいつもスポーツがある。子どものころから熱心な阪神タイガースファンで、プロ野球の選手名鑑を愛読。そこに名前が載るのが夢だった。中学でバスケットボール、高校でアメリカンフットボールを楽しんだ。 しかしスポーツライターへの入り口は、『五体不満足』の大ヒットで、思いがけず有名人になったという「重い十字架」を背負い、ようやく探り当てたものだった。 2000年の初め、早稲田大卒業を控えた乙武は、どんな仕事につこうか、迷っていた。約1年続けたTBS「ニュースの森」のサブキャスターは、卒業と一緒にやめると決めていた。取材やインタビューは楽しかったし、評判もよかったが、いつも不安だった。 「本は、それまでの人生を書いただけ。何かを成し遂げたわけではないから、ブームが終われば、きっと見向きもされなくなる」 番組で任されるテーマが、バリアフリーや福祉になりがちなのも、気になった。障害者=福祉とくくられることに抵抗があった。 『五体不満足』とは関係のない仕事がしたい。考えた末に浮かんだのがスポーツライターだ。ちょうど新聞のプロ野球開幕特集に寄稿したことが、決定打になった。 つてを頼り、「Number」(文芸春秋)への執筆を打診した。スポーツ取材は素人ながら、「フィールドインタビュー」という新連載を任された。 いきなり人気雑誌でデビューした新人に、同業者の一部は冷たい視線を向けた。「客寄せに使われてるだけ」と言い放つ人もいた。 「仕方ないことだけど……やっぱり悔しかったですね」   「結果を残す」と仕事にのめり込んだ。シドニー五輪、プロ野球、Jリーグ、サッカーW杯と、ほとんど休みを取らず、現場に足を運んで信頼関係を築こうとした。 「とにかく熱心に通っていました」と証言するのは、02年から乙武の担当編集者になった文芸春秋の瀬尾泰信(40)。 入念に下調べをし、敬意をもって接する取材姿勢ゆえか、あるいは不特定多数から時として過剰な称賛や非難を受ける、共通体験ゆえか。多くのスター選手が、乙武にぽろりと本音を漏らした。 「取材につきあってみて、彼の人間を見る力は、とても優れていると思いました。持ち上げられたり、時には心ない言葉をぶつけられたり。幼いころから様々な視線を浴びてきて、僕らには想像もつかないほど、いろんな体験をしてきたからでしょうね」 もちろん、「乙武くん」だから取材対象と仲良くなれた部分もあった、と瀬尾は言う。『五体不満足』とは関係なく自分を認めてほしい、という気負いが文章ににじんでしまい、つっこんだやりとりを重ねたこともあったという。 ●「虚像」受け入れる覚悟 03年3月、扉が開いた。 ケガで戦列を離れ、リハビリを続けていた読売巨人軍の清原和博が、連日取材に通いつめていた乙武を、一人だけトレーニングルームに招き入れたのだ。 「一瞬、迷いました。これも『五体不満足』の乙武ゆえの特別扱いじゃないのか。でも、それならそれでいい、と思えたんです」 と乙武。 1年前だったら、入らなかったかもしれない。積み上げてきた実績と自信が、背中を押した。 その後、取材を重ね、メディアに容易に心を開かない清原から、微妙な関係といわれた堀内監督への思いなどを引き出し、「肉声――清原和博の闘いを追う」などの大型記事として次々と発表した。 取材などを通じて、福岡ダイエーホークスの王貞治監督(当時)ら、不特定多数の期待に、理想的な振る舞いで応える人の姿にも触れた。『五体不満足』の乙武、という「虚像」に歩み寄って生きていく覚悟も固まった。 すると、「そろそろ次にいってもいいかな」という思いが、頭をもたげてきた。 そのころ、少年による痛ましい殺傷事件が相次いだ。自分にしかできない仕事は、こうした子どもたちの問題、教育の中にあるのではないか。乙武は、何かに呼ばれるように、急速に傾斜していく。一定の達成感を得たスポーツライターの仕事に、未練はなかった。 通信制の大学で、教員免許を取得。07年4月、乙武は、先生になった。=敬称略 (魚住ゆかり)


朝日新聞「逆風満帆」(上)

朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」のコーナーにて、 今年1月29日(土)から3週にわたり、乙武洋匡が特集されました。 朝日新聞様のご厚意により、当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第1回(上)・「著書がもたらした『障害』」です。 ****************************************************** 昨年暮れ、乙武洋匡(34)は全国を飛び回っていた。秋に初めての小説『だいじょうぶ3組』(講談社)を出版して以来、講演行脚が続いている。 重度の障害を苦にせず、伸びやかに生きてきた半生をつづった『五体不満足』(同)のブームから、13年がたった。07年春、乙武は7年間続けたスポーツライターをやめて公立小学校の教師になった。3年の任期終了後、その様子を描いたのが、今回の小説だ。 「なぜ教員になったか、不思議に思われますよね」。川崎市での講演会で、乙武は話し始めた。 転機は03年。長崎市で12歳の少年が幼稚園児を殺害した。翌年、長崎県佐世保市では11歳の少女が同級生を刺殺。被害者だけでなく加害者のことが気になった。 「よりよく生きたい、と生まれてきたはずなのに、事件を起こさざるを得なかった。『寂しいよ。苦しいよ。壊れちゃうよ』。彼らが発したはずのSOSに、大人は気付いてあげられなかった」 静かな中に熱のこもった、乙武の声だけが響く。「僕は両親や先生、周囲の大人に恵まれた。僕も、次の世代のために何かしたいと思ったんです」 先天性四肢切断という障害をもった乙武が生まれた1カ月後。母・良子は、初めて対面した息子を「かわいい」と抱きしめた。気を失ってしまうのではとベッドまで用意した、周囲の懸念をよそに。 「超天然」の母と、おしゃれで優しい建築家の父賢二(01年死去)。「いつも、大事に思っていると伝えてくれた。そういうのがくすぐったい時期もあったけど、我が家は愛に満ちていました」 食べる、書く、ハサミを使う……無類の負けず嫌いの乙武は、何でもやってみたがり、どうしてもできないことだけ「これは、僕にはできないことなんだ」と納得した。両親は手も口も出さず、気が済むまでやらせた。 両親の希望がかない、世田谷区立小では普通学級で過ごす。担任の故・高木悦男は、乙武が車いすに乗ることを禁じ、自力で歩かせた。子どもたちにも必要以上の手伝いをしないよう教えた。子どもたちは自然と乙武が困れば手をさしのべ、例えばサッカーでは、乙武のシュートだけ3点というような「オトちゃんルール」を作り、楽しく遊ぶようになった。 中学、高校では、なんと運動部に所属。1浪して進んだ早稲田大学時代には、街づくりのサークルで先頭に立った。 ●あたたかい自己肯定感 「なぜこんな体に、と運命や周囲を恨んだりしたこと? ないですねえ」と乙武。確かに、話していると、彼が障害者であることを忘れてしまうが、疑問もよぎる。人はそれほど強くなれるのか。つらいと思わなかったんですか? 失礼を承知で何度か聞いてみた。 答えはいつも同じだった。周囲のおかげで、僕はあたたかな自己肯定感に守られてきたんですよ。 「彼は、バリアを減らしちゃうしね」。新宿・歌舞伎町でホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)は言う。「いつも、あらゆることを想定して、バリアになるべく遭遇しないですむように、作戦を立ててるんですよ」 街づくりの様子が報道され、乙武に注目が集まった。その縁で98年、『五体不満足』が出版されると、その後、文庫本も含め580万部に及ぶ大ベストセラーに。「重い障害を乗り越え、けなげに生きる青年」に取材が殺到した。 だが乙武は戸惑った。押し寄せた称賛は「重度障害者なのに」が前提。本人が特徴のひとつと受け止め、友人たちも忘れがちな「障害」が、突然のしかかってきた。 両親までマスコミに追いかけられた。言っていないことを書かれ、後に妻となる恋人とも会いづらくなった。一部の障害者から、「障害者と健常者の間にある問題から目をそらす口実を与える」などの声も聞こえてきた。 1年以上、吐き気がとまらず、脳のMRI検査までした。「『五体不満足』という十字架をおろしたい、と思っていました」 数々の出会いやチャンスをもたらした『五体不満足』は、乙武に、人生初にして最大の逆風も運んできたのだった。=敬称略 (魚住ゆかり)


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