OTO ZONE

Monthly Archives: 5月 2013

イタリアン入店拒否について

 軽率だった。自分でも、冷静さを欠いた行為だったと思う。では、なぜ僕はあのとき、店名を挙げるという、多くの方からお叱りを受けるような愚挙に至ったのか。ここに記しておきたい。  19時過ぎ、一週間ほど前に予約していた店に到着した。奥にエレベーターが見えたが、ビルの入口に三段ほどの段差があり、車いすではビルに入ることさえできない。しかも、エレベーターも店舗のある2階には止まらないようだった。僕の使用する電動車いすは100kgの重量があるため、こういう場合は歩道に“路駐”して、僕の体だけ店内に向かうしかない。  お恥ずかしい話だが、自分で店を予約する際、あまりバリアフリー状況を下調べしたことがない。さらに、店舗に対して、こちらが車いすであることを伝えたことも記憶にない。それは、とくにポリシーがあってそうしているわけではなく、これまで困ったことがなかったのだ。  普段は、事務所の男性スタッフが店まで送迎してくれることが多い。だから、たとえ段差だらけの店であっても座席まで抱えてくれる。スタッフが不在の場合でも、友人たちが代わりに抱えてくれる。また、店のスタッフが抱えてくださることも少なくない。いざとなれば、僕は自力で階段をのぼることもできるので、デニムを履いている日などは自分で上がっていってしまうこともある。  だが、この日はすべてタイミングが悪かった。事務所のスタッフは仕事の都合で来れず、当日同行していたのは、ひさしぶりに会う約束をしていた女性の友人。身長150cm台の彼女が、僕を抱えて2階まで上がることはまず不可能だ。自力で歩いていこうかとも思ったが、あいにくこの日は仕事の都合でスーツを着ていた。10mほど先の階段まで歩き、さらにそこから尻を擦るようにして階段の上り下りをすれば、スーツは泥まみれになるだろうし、下手すれば破れてしまうかもしれない。  もちろん、すべてこちらの事情なのだが、ここまで悪条件が重なってしまうと、どうしてもお店のスタッフにお手伝いいただくしかない。僕は路上で待機し、友人だけがお店に向かい、様子を聞いてきてくれることとなった。  店内は、僕らが想像していた以上にこじんまりとした造りだったようだ。スタッフは、店主と思しきシェフがキッチンを一人で切り盛りし、もうひとりの大柄な男性スタッフがホールを担当していたという。土曜日の夜ということもあり、店はずいぶん繁盛していたようで、おふたりとも忙しく立ち働かれていたという。 彼女はホールスタッフの男性にこちらの事情を伝え、階下で待つ僕の体だけを店内まで抱えてもらうことができないかと頼んでくれた。彼は「いまは手が離せないので難しいけれど、手が空き次第、迎えに行きます」と言ってくださったそうだ。その言葉に安堵した友人は、そのことを伝えるため、路上で待つ僕のところに戻ってきてくれた。 しかし、10分ほどお待ちしていてもスタッフが来られなかったため、友人がもう一度、様子をうかがいに店まで行ってくれた。しばらくして彼女の存在に気づいたホールスタッフの男性が、「ようやくひと段落したので」と階下に向かってくださろうとした。そのとき、店主がキッチンから出てきて、彼女にこう伝えたのだそうだ。 「車いすのお客様は、事前にご連絡いただかないと対応できません」 「あ、でも、車いすは置きっぱなしで、友人の体を抱えていただくだけでいいんですけど」 「ほかのお客様の迷惑になりますので」  おそらく、店主は「ひとりの客を抱えるためにスタッフが数分でも不在になると、せっかく作った料理が最高のタイミングで提供できなくなる恐れがある。そうなれば、ほかのお客様にご迷惑がかかる」ということが言いたかったのかもしれない。だが、彼の表情や言葉のチョイスはそうしたニュアンスを伝えられなかったようで、友人はひどくショックを受けてしまったようだ。 「車いすの人が来たら、迷惑ってことですか?」 「そういうわけじゃ……とにかく、うちは店も狭いですし、対応できません」  僕はその場にいたわけではないので、どこまで彼らのやりとりを忠実に再現できているかはわからない。だが、とにかく彼女は店主の言葉や態度から「排除されている」という感覚を強く受けたという。  女性ならではの感性かもしれない。このやりとりに傷ついた友人は、泣きながら階段を駆けおりてきた。僕は予期せぬ出来事に目を白黒させていたが、話を聞くうち、ひさしぶりに会った友人が、僕のせいでこれだけ悲しい思いをしてしまったことに、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになった。  ふたりでその場にたたずんでいると、40代くらいの店主が階段を下りてこられた。僕の姿を確認すると、一瞬ギョッとしたようだったが、すぐに気を取り直し、僕に向かってこう口にした。 「エレベーターが2階には止まらないって、ホームページにも書いてあるんですけどね」 「ああ、そうでしたか。僕、今回は『食べログ』を見てお電話したので……」 「何を見たかは知りませんけど、予約の時点で車いすって言っとくのが常識じゃないですか?」  キョトンとしてしまった。僕は、いまなぜこの人にケンカを売られているのだろう? いや、もしかしたら彼にはケンカを売っているつもりなどないのかもしれない。でも、それはどう考えても初対面の相手に放つべき言葉ではないと思うし、あきらかにケンカを吹っかけているようにしか思えない口ぶりだった。 「そうですよね。事前にお知らせもせず、失礼しました」  この状況でも、こんなセリフが素直に口をついて出てくる大人に、僕はなりたい。でも、僕はなれなかった。愚かなことに、そのケンカ調の言い草に、ケンカ調で返してしまったのだ。それは、僕の友人を泣かせるような対応をしたことに対する憤りもあったかもしれない。 「いや、それが常識なのか、僕にはわからないです。そもそも、僕はこれまで一度もそんなことをせずとも外食を楽しんできましたし」 「いや、常識でしょ」  他人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる店主に、ますます僕は頭に血がのぼってしまった。 「じゃあ、それが本当に常識なのか、広く世に問うてみましょうよ」 「ええ、どうぞ」  もう、この頃になると、僕は激昂状態だった。こんなに冷静さを失ったのは、いったい何年ぶりだろう。  このあと、二言三言やりとりがあったかと思うが、残念ながら記憶が定かではない。だが、店主が最後に言った言葉だけは絶対に忘れない。 「これがうちのスタイルなんで」  その言葉はとても冷たく、これ以上のコミュニケーションを拒むひとことだった。扉を、閉ざされた思いがした。この時点で、僕は完全に思考停止となってしまった。  彼はTwitterで、「うちのスタイルだなんて言ってない」と否定しているが、なぜそんなウソをつくのか。もしくは、記憶から抜け落ちてしまったのか。だけど、僕は絶対に忘れない。ついさっき、女性ならではの感性かも――と書いたが、けっしてそんなことはない。僕もいま、この瞬間、はっきりと彼によって排除されたような腹立たしさと情けなさとを感じとった。仮に彼にその意図がなかったとしても、彼の態度は、言葉は、表情は、残念ながら僕らふたりに、くっきりとそのような印象を与えた。  ネット上の声を見るかぎり、僕は「店側に抱えてもらえなかったことに逆ギレした」となっている。でも、それはまったくの誤解だ。  これまで何とかなってきたことで必要性を感じていなかったとはいえ、事前に連絡をしていればスムーズにご案内いただけたかもしれない。これは、僕の落ち度。だから、お店の状況によっては対応が難しく、結果的に入店が難しいと言われても、「じゃあ、またの機会にお願いします」と笑顔でその店を後にすることができる。僕にだって、それくらいの理性と常識はあるつもりだ。  相手が、理性と常識あるコミュニケーションを図ってくださるなら。  ここだけは誤解されたくないので、繰り返させてほしい。僕はいきなり訪れた店で無理難題を吹っかけて、それが受け入れられなかったから逆ギレしたのではない。客とか、店主とか、そんな関係性を抜きにして、はなから相手を小馬鹿にしたような、見下したような、あの態度が許せなかったのだ。彼の本意がどこにあるにせよ、こちらにそう受け取らせるコミュニケーションに、僕は深く傷つき、腹を立ててしまったのだ。  僕はあのお店の料理に惹かれ、ひさしぶりに会う友人との会食を楽しみに、お店へと向かった。でも、そんなワクワク感もぺしゃんこになってしまった。わずかでもいい。「何かできることはないか」「どうにか店の料理を味わってもらうことはできないか」――そんな心意気が少しでも感じられたなら、結果的に入店がかなわなくとも、僕は気持ちよくその店をあとにすることができたと思うのだ。だが、彼の態度から、そうした心はまるで感じられなかった。僕らは、刺々しい扉のまえで門前払いをされたような、とてもさみしい気持ちになってしまった。  そんな思いが、店名を公開するという安直な行為に結びついたことには、深く恥じ入るしかない。「こんなひどい対応をされた」と、普段から応援してくださっているみなさんに泣きつきたかったのだ。愚痴りたかったのだ。そうでもしなければ、とてもやりきれなかったのだ。   当日夜のTwitterでは、店名を公開した理由として「僕のように、こんな悲しい、人間としての尊厳を傷つけられるような車いすユーザーが一人でも減るように」と書いたが、その思いにウソはない。だが、あの日の僕は、あきらかに正常な判断能力を失っていたことも、あわせて告白しなければならない。  僕が公開したことによって店側に抗議の電話などが行き、業務に支障などきたしていたら、それは本当に申し訳ないし、本意ではない。僕がみずから蒔いた種とはいえ、みなさんには絶対にそうした行為は行わないでほしい。  もし、僕があのとき冷静さを保っていられたなら、店名を伏せて、「じつは、こんなことがあったのですが」という形で報告できていたなら、それは「飲食店のバリアフリーを問う」といったテーマで広くみなさんに議論していただくことが可能だったかもしれない。それが、ひとえに僕の未熟さにより、その機会をつくれなかったこと、猛省しています。  もしかしたら、あの店主も、ただ不器用で、人づきあいがうまくないだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、もう一度、あの店に行って、カウンター席にすわって、「シェフ、この料理おいしいですね」なんて会話を交わしながら、舌鼓を打てたらいい。そこでふたりで写真を取って、Twitterでアップでもしたら、今回の幕引きとしては美しいのかもしれない。  でも、ダメだった。あの日の夜のことを思うと、どうしてもそうした気分になれないのだ。そんな未熟な自分が、いまはただ腹立たしい。まだまだ、僕は人間が小さいのだと痛感させられる。  今回の件で僕に対して批判的なみなさんが、このブログを読んで考えを変えてくださるとは思っていません。でも、ウソをついてまで、何かを偽ってまで釈明しようという気にはどうしてもなれませんでした。ここまで書いたことが、あの夜に思ったことすべて。これ以上でも、以下でもありません。  長文を最後までお読みいただき、心から感謝します。  P.S.でも、やっぱり、店主がお許しくださるのなら、いつの日か再訪してみたいな。だって、お店の料理、本当においしそうだったから。


『何者』

 連休中はゆっくり読書でもしようと選んだのが、朝井リョウ『何者』(新潮社)。就職活動の情報交換をきっかけに集まった大学生の群像劇。就職活動を経験していない僕には、どこか遠い世界の出来事に感じられてしまうのかな、という不安は見事に裏切られた。  TwitterやFacebookなどのSNSで表現している自分と、本当の自分との乖離。いや、「本当の自分」は正確な表現ではない。SNSでは表現できない自分。本音。心の叫び――。 「ああ、オレにもあるわ」  就活を経験していない僕でさえ、何度もうなずき、ニヤリとし、思わず下くちびるを噛みしめた。  いまから十五年前、「無名の大学生」だった僕が本を出すと、劇的に環境が変わった。街中でサインを求められ、カメラを向けられ、自宅前数ヶ所には写真週刊誌の記者に張り込まれた。「無名の大学生」だったはずの僕は、いったい「何者」になったのだろうと考え込んだ時期もあった。不安に押しつぶされそうだった。  『五体不満足』出版当初は、「世間から期待される乙武さん」から逃げ回っていた。それから少し経って、「世間から期待される乙武さん」に近づこうと試みたりもした。いまでは、「世間から期待される乙武さん」と「等身大の乙武洋匡」を状況に応じて切り替えるスイッチを手にしたような気もする。  あまりの窮屈さに呼吸困難に陥りかけていた以前に比べたら、ずいぶん生きやすくなった気もするけれど、それでも自分が「何者」なのか、いまでもわかったようで、わからない。「どんな自分になりたいのか」という理想像だって、ぼんやりと輪郭だけは見えているような気もするけれど、近づいてみると、じつにおぼろげで、曖昧な形をしている。  そして、それは作者である朝井リョウ氏の胸中とも重なるのではないかと、本人にとってはおそらく迷惑な邪推をした。大学時代に出版された処女作(2009年、『桐島、部活やめるってよ』)がベストセラーとなり、映画化もされ、今度は直木賞まで――。十数年前に僕が抱いていた迷いや不安を、いま彼がなぞっていたとしても不思議はない。  若き直木賞作家。周囲からの期待は、かなりの熱量で彼を取り巻いていることだろう。そして、その期待に応える自信もあれば、不安だってあるだろう。 「いったい、自分は何者になっていくんだろうか」  岐阜から出てきた青年は、もしかしたらそんな思いを動機にこの小説を書き始めたのかもしれない――そんな主人公・拓人ばりに分析したところで、僕の推察はまったくの見当はずれで、この文章を朝井氏が読んだら、ふふんと鼻で笑い飛ばすかもしれない。でも、まあ、「作者はなぜこうした物語を書こうとしたのか」とあれこれ考えをめぐらすことも小説の楽しみのひとつだと、お許しいただきたい。  彼の小説は、もちろん何か明確な答えを提示してくれるわけではない。だが、「自分って、何者なんだっけ?」という、普段できるだけ見て見ぬふりをしてきた問いをあらためてぶつけてくれる物語だ。ああ、面白かった。素敵な休日をプレゼントしてくれた朝井リョウ氏に感謝。


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