Author Archives: オフィスユニーク
また、会いましょう
東日本大震災から、4ヶ月半が経ちました。震災直後、僕は被災地に 駆けつけ、炊き出しや瓦礫撤去といったボランティアができないことに もどかしさを感じていました。こんな僕が行っても、むしろ迷惑をかける だけだろう、と。 けれど、震災から一ヶ月ほどが経ち、食糧や生活に必要最低限の 物資が届きはじめたという報道を見て、僕のなかで少しずつ心境に 変化が起こりはじめました。 次に重要なのは、被災地の方々が、「もう一度、希望を捨てずに 生きていこう」と前向きな気持ちを取り戻していくことではないか。 そして、そのためのお手伝いなら、僕にも何かお役に立てることが あるのではないだろうか、と。 そんな気持ちから、五月上旬、僕は被災地へと向かいました。 破壊された街並み。大切な人を失った悲しみ。訪れた地では、 想像以上に胸を締めつけられる場面が多くありました。 でも、それと同時に、希望を失うことなく、前を向いて歩み出した 勇敢な人々と出会うこともできました。彼らは、本当に輝いていた。 だから、僕は新刊のタイトルを『希望 僕が被災地で考えたこと』と しました。 そして、僕がいちばん頭を悩ませたのは、そうした被災地の人々と 別れるとき、どんな言葉をかけたらよいのだろうか、ということでした。 難しいことだとわかっていながらも、相手の立場を慮ってみる。 それでも、なかなか答えの出るものではありません。 「頑張ってください」「頑張りましょう」「元気を出してください」―― どれも、僕のなかでは、しっくり来るものではりませんでした。 結局、僕が選んだのは、「また、会いましょう」という言葉でした。 苦しい状況のなか、少しでも未来を感じられる言葉にしたかったから。 未来に光を感じてほしかったから。「また、会いましょう」と。 東京に戻ってきた僕は、「あの言葉を口約束にだけはしたくない」と、 ずっと思っていました。そして、その約束を果たす日がやってきました。 今日から、また被災地へ行ってきます。 今回は3日間しか確保できなかったので、訪れる場所も限られて しまうと思うけど、僕なりの、僕だからこそできることを意識しながら、 3日間を過ごしてきたいと思います。 また、ご報告させてください。僕が感じたことを。 ※前回訪問時の活動詳細については、楽天イーグルスでの始球式や 石巻での特別授業の様子も含め、『希望 僕が被災地で考えたこと』に 詳しくあります。ぜひ、そちらをお読みいただければと思います。
なでしこ優勝に思うこと
サッカー女子日本代表・なでしこJAPANが、W杯で優勝。 朝から、胸が熱くなった。おめでとう。本当に、おめでとう!! 今大会、キャプテンとしてチームをけん引した澤穂希選手とは、 取材でお世話になってから、もう十年来のお付き合い。 怪我で苦しんでいた時期も、渡米先で悩んでいた時期も、 ずっと前を向いて頑張ってきた彼女の姿をそばで見てきたからこそ、 この試合に臨む彼女の表情を見るだけで、ぐっと来た。 いや、そんな背景を知らなくたって、今日の勝利は僕らに力をくれた。 それだけ、彼女たちは素晴らしいスピリットを見せてくれた。 だが、“世界一”という偉業を達成した彼女たちも、日頃は驚くほど 過酷な生活を送っている。海外組や一部のプロ契約選手以外、 ほとんどの女子サッカー選手は、サッカーを職業としていない。 つまり、サッカーでは「メシが食えていない」のだ。 昼間は会社勤めをしている。もしくは、バイトをしている。 そして、夜になって、所属チームの練習に参加する。 きっと、疲れているだろうに。サボりたい日もあるだろうに。 同僚のOLたちが、気晴らしに飲みに行ったりしている間、 彼女たちはグラウンドでサッカーボールを追っている。 もちろん、「好きだからやっているんでしょ」の声はある。 だけど、恋人や友人と過ごす時間も削り、すべての空き時間を サッカーに費やす日々には、「好きだから云々」のひとことでは とても片づけることのできないストイックさがある。 忘れてはならないと思う。今日、僕らが得た感動は、彼女たちが 犠牲にしてきた多くのものに支えられているのだということを。 僕らはそんな事実を忘れ、しばらくすると、また次の感動に飛びつく。 そんな「感動のいいとこどり」を繰り返してきた。 感動の準備段階では、「好きでやっているんでしょ」。 でも、いざ感動の場面になると、「感動をありがとう」。 僕らはたいした対価を払うことなく、ただ感動だけを享受してきた。 あえて強い言葉を使うならば、競技者から感動を“搾取”してきた。 いつも日本中を駆け巡る「感動をありがとう」の言葉は、 選手たちの心の支えになっても、生活の支えにはならないのだ。 たとえば、かなりの可能性を秘めた選手がいたとしても、 「家族や友人と過ごす時間とお金、そのすべてを犠牲にできるか」 という問題に直面したとき、その競技を断念することだってあるだろう。 しかし、僕らが、社会が、その下支えとなり、競技に専念できる環境を 整えることができれば、そうした選手だって競技を続けることができる。 これは、スポーツに限った話ではない。 音楽にも、芸術にも、伝統文化にも、ほぼ同じことが言える。 いまは、競技や文化が到達した“結果”にしか目が向けられていない。 だが、それらがある地点まで到達しようとする“過程”にまで 目が向けられるようになれば、そこにはきっとお金も生まれる。 文化が成熟するって、たぶん、そういうことなんじゃないだろうか。 ただ、国民に「これだけ感動したんだから対価を払え」と言っても、 そうした文化が定着していない日本では、なかなかその考えを 受け入れてもらえないないように思う。だから、言い方を変えよう。 「感動の準備段階にもっとお金を使えば、いままでより多くの感動を 得られるかもしれませんよ」と。あくまでも、ポジティブにね。 スポーツを含めた文化全般を支えていく仕組みを、いま一度、 みんなで知恵を出し合って考えていきたい。 あらためて、そんなことを思わせてくれた、歓喜の朝。 なでしこJAPAN、本当におめでとう!! ※本文は、このテーマについて陸上・為末大選手とTwitter上で 交わした会話をもとにして、大幅にリライトしたものです。 詳しくは、Togetter「なでしこ優勝の裏側で…」にありますので、 ご興味のある方は、そちらをご覧ください。
オトタケ先生と3つの授業
乙武が小学校教員として実際に行った授業が、かわいいイラスト入りで、読み物として生まれ変わりました。 収録した3篇の授業すべてが、クラスの子どもたちのために考えたオリジナル授業。言わば、「世界にひとつだけの授業」です。 発行:講談社(2011年7月) 税込価格:1,365円 購入はこちらから
希望 僕が被災地で考えたこと
3月11日、東日本大震災が起こり、乙武はあらためて障害者としての自身の無力さに打ちのめされました。 そこから、「自分にも力になれることがあるのではないか」と考え直し、被災地に向かい、現地で出会った人々との交流をつづった一冊。 発行:講談社(2011年7月) 税込価格:1,365円 購入はこちらから
命のアルバム
まだ6月だというのに、連日、30℃を超える暑さ。 みなさん、バテたりしてませんか? 先日、Twitterで日本酒を飲んでいることを書きこんだら、 実家が宮城県で酒蔵を営んでいるというフォロワーの方が、 「ぜひ、私の実家で製造している日本酒を飲んでください!」と、 わざわざ日本酒を送ってくださいました。 今回送っていただいた「黄金澤 大吟醸」は、全国新酒鑑評会で なんと12回も金賞を受賞したことがあるという逸品です。 今回の震災で、工場も大きなダメージを受けたとのことですが、 それでも前を向いて頑張っておられるようです。 さて、今回はその方から送っていただいたお手紙のなかにあった エピソードがあまりにステキだったので、ご本人の許可を得て、 ここに紹介させていただきたいと思います。 以下、仙台で就職活動中という学生さん(送り主さん)からの 手紙の引用です。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ 今回の震災で、私自身も、10年来の大切な友人を亡くしました。 訃報を受けてからしばらくは現実を受け入れられず、気持ちの整理が つかない日々を送っていました。 そんななか、乙武さんのツイートが目に留まりました。 「人と人とが関わりあって生きていくうえで、相手の気持ちには、 もちろんなれない。けれども、相手の気持ちを想像し、 心を寄り添わせようとすることはできる」 このツイートを読み、「何かしなくちゃ!」と考えました。 友人の家族は、友人のほかに、お父様、弟さんの3人が亡くなり、 お母様だけが生き残りました。一番つらい思いをされているだろう お母様に、私たちができることは何か、必死に考えました。 ご自宅も津波に流され、家族の思い出のものがほとんど 残っていないとのことで、同じ学年の仲間同士で呼びかけ、 彼女が写っている写真、彼女が書き残したもの、 仲間から彼女に宛てた手紙をまとめてアルバムを作り、 お母様にお渡しすることにしました。 たくさんの仲間や母校の先生たちが力を貸してくれたおかげで、 数百枚の写真、百通近い手紙からなるアルバムをお渡しする ことができました。 お母様は、「写真なんて、もうあきらめてたの。短かったけど、 あの子は生きていたんだね。こんな宝物、どうもありがとう」と、 涙を流して喜んでくださいました。 大切な友人を生んでくれたお母様に喜んでいただけたのも、 乙武さんのツイートに勇気をいただいたおかげです。 本当に、どうもありがとうございました!! ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ 友人と、残されたご家族への想い。 そして、その行動に、思わず目頭が熱くなりました。 本当に、本当に、ステキなお手紙をありがとうございました。 来月、また僕も被災地へ行こうと思っています。
『ブラック・スワン』
昨日、映画『ブラック・スワン』を観てきました。 みなさんから、「ぜひ感想を」とのリプライを多数いただいたので、 ネタバレしない程度に、僕なりの感想を書いてみたいと思います。 まず、この映画はバレエを描いてはいるけれど、 決して「バレエ映画」ではない。人間の心理を描いた物語。 バレエを知らない僕でも、十分に楽しめました。 前評判の高かったナタリー・ポートマンの演技も圧巻。 美しさ、儚さ、気高さ、という異なる要素を巧みに操りながら、 見事に主人公のなかに眠る様々な感情を演じ分けていた。 終盤の重要なシーンでのダンスと表情は、まさに鳥肌モノ。 映画『レオン』の少女役のときも、いい表情してたもんなあ。 さて、本題。 僕も表現者のひとりとして、いろいろ考えさせられる映画でした。 「白」という色しか知らない人が表現する「白」と、 対極に位置する「黒」という色まで表現する力を持った人が伝える 「白」は、同じ色のはずなのに、深みが違ってくる。 観客(読者)のなかでの響き方が違ってくる。 僕が発信しているメッセージは、たぶん「白」。 でも、僕が本当に「白」しか持ち合わせていなかったら、 これだけ多くの人々に僕の思いは伝えられていない気がする。 僕にも、いつからか黒がある。 いや、「乙武さん、よくブラックジョーク言いますもんね」という その黒じゃなく、本当の黒。心の、黒。 昔は自分のなかに「黒」があることなんて認めたくなかったし、 それが怖くて仕方なかった。でも、いつからだろう。いまの僕は、 自分のなかにある「黒」をじっくり見つめたり、いろいろな角度から ながめている時間が、決して嫌いじゃない。 なんなら酒でも汲み交わしながら、ゆっくりと己のなかの「黒」と 語り合いたい。 自分のなかの「黒」とじっくり向き合えるようになってから、 僕はバランスが取れてきた気がする。 昔は、何かあればポキリと折れてしまいそうな脆さがあったけれど、 いまはそう簡単に折れやしない。 まあ、折れたら折れたで、また叩いて、延ばして、好きな形に 作り変えたらいいや、という開き直りにも近い思いがある。 僕がFUNKISTを愛してやまないのも、 彼らのメッセージが決してきれいごとの「白」なんかじゃなく、 社会の「黒」、人間の「黒」とさんざん向き合って、語り合ってきた 過去から生みだされる「白」だからなんだと思う。 そうした人間にしか生みだせない、叫び。思い。色――。 だから、僕の心に響く。 だから、太宰治が好き。 己のなかの「黒」に苦しめられ、翻弄されつづけたにもかかわらず、 その「黒」と誠実に向き合い、その「黒」を抱きしめつづけた太宰。 彼は、弱かったんじゃなく、マジメだったのだと思う。 そんな迷いや葛藤が、素直に垂れ流される彼の作品が、 たまらなく愛おしい。 映画『ブラック・スワン』、僕は表現者としての「白」と「黒」について じっくり考えさせられた作品でした。 そして、主演のナタリー・ポートマンは、その「白」も「黒」も、 どちらの色も最高の形で表現してみせてくれました。 本当にすばらしい女優さんだと思います。 あくまでも、僕の所感です。 みなさんの感想も、ぜひ聞かせてくださいね。
運動会でのお弁当
みなさん、こんにちは。 ブログは、約一ヶ月ぶりの更新となってしまいました。 楽しみにしてくださっているみなさん、ごめんなさい。 さて、今日は「運動会」について。 東京では降り続いた雨の影響で、今日が運動会という学校も 多かったみたい。すると、それに関連して、ツイッターで友人が こんなつぶやきをしているのを見かけました。 【最近の小学校の運動会、昼ご飯は校庭で食べないらしい。 みんな教室で食べるんだって。親も家で食べたりするようです。 天気良ければ、外で食った方が気持ちいいのになー。 親が来られないとか色々あるのだろうけど、 その辺は工夫して外で食べるぐらいはできるんじゃないかと、思ふ。 無責任な発言ですが。】 僕が昨年3月まで勤務していた杉並第四小学校では、運動会の日、 子どもたちも家族と一緒に校庭やベランダでお弁当を広げていました。 でも、新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」 として新宿区立の小・中学校を回っていたときには、運動会の日でも 給食を出し、子どもたちは教室のなかで食べるという学校もあった。 大人たちはさみしく、子どもたちのいなくなった校庭で弁当を食べるか、 なかには一度家に帰り、午後になって出直してくるという家庭もあった。 子どもを教室に入れてしまう理由は、「親が来れない子が傷つくから」、 「弁当格差によって、パン1枚しか持たされない子が傷つくから」。 前から言っているように、何でも傷つけないようにビニールハウスで囲い、 温室栽培をすることが教育ではないと思っている。 それぞれの資質や能力、容姿や家庭環境は生まれもったものであり、 その前提を変えることはなかなか難しい。「違い」は、たしかに存在する。 いくら学校が、その「違い」を感じさせないような配慮しても、 社会に出ればビニールハウスで囲ってくれる存在などいないのだ。 寒風にも、害虫にも、すべて自分の力で立ち向かっていくことになる。 つまり、傷つく機会はいくらでもある。 子どもたちには、そのときまで「違い」があることに気づかせず、 無菌状態のまま社会に送り出すことのほうが、僕は無責任だと思う。 「私の家はお母さんが来れなくてさみしい」 「あの子の家の弁当は豪華だから、うらやましい」 もちろん、運動会にそんな苦い思い出を持つ人もいるだろうう。 だから、そう感じる子が出ないように、みんなで教室に入り、給食を。 そんな“平等”を図ることが教育なのか。僕は、そうは思わない。 社会に出れば、傷つくこともある。挫折することもある。 そんなとき、どう立ち上がり、ふたたび歩いていけばよいのか。 そんな経験をさせておくことのほうが、よほど教育的だと思うのだ。 絶対的に存在する“違い”に布をおおいかぶせ、「みんな平等だよ」と うそぶくことが教育だとは、僕は思わない。 もちろん、学校だけを一方的に批判するつもりはない。 「このことで、うちの子が傷ついたらどうするんだ?」と厳しい調子で ご意見を寄せる保護者の存在があることも、決して忘れてはいけない。 でも、学校にはそうした声にも、もう少し毅然と対応してもらいたいのだ。 学校はサービス業じゃなく、教育機関であるべきだと思うから。 ここまで書くと、ツイッターには賛否さまざまな意見が寄せられた。 そのなかに、こんな質問があった。 【同意ですが、具体的に運動会の昼ごはんがパン1枚で傷ついた子の 挫折感、悔しい気持ちに、教師はどう向き合うべきなんでしょうか?】 たとえば遠足の日、僕はあらかじめコンビニでサンドイッチひとつを 買っておき、弁当の時間になると、日頃の家庭環境からお弁当が 望めなさそうな子どものとなりにすわり、そのサンドイッチを広げた。 「同じだね」 子どもは、それだけでホッとした顔をする。 みなさんからの意見でとても多かったのが、 「そんな子がいても、『うちと一緒に食べよう』と声をかけてあげるのに」。 これが「地域で子どもを育てる」ということなのだと、うならされた。 しかし残念ながら、そうした地域のつながりや結びつきも、 いまや失われつつある。 今回のツイートと、みなさんからのご意見を読んで、 「まちの人と協力しながら、まち全体での子育てを」という理念のもとに 今年4月開園させた「まちの保育園」が目指す方向性は、 決して間違っていなかったと確認することができました。 不平等を生き抜く強さを育てることと、それを支える人々の存在。 このふたつの重要性を実感するといともに、まさに僕自身は、 このふたつの要素によって、ここまでこれたのだと感謝するばかりです。
ピントの合わせ方
数日前、僕の事務所で働いてくれているマネージャー君が、 うれしそうに話しかけてきた。 「何かひとつ趣味でも持とうかと思って」 なんでも、思い立って一眼レフカメラを購入したらしい。 今朝のことだ。約束の時間よりも早く目的地に到着した車内で、 説明書を片手に、パシャパシャとやっている。 「あ、なるほど。こうやってピントを合わせて…」 フロントガラスに付着した水滴にピントを合わせ、パシャリ。 「今度は、あっち側に…」 窓ガラスの向こうに広がるビルや信号にピントを合わせ、パシャリ。 「うわあ、面白い。全然ちがうなあ」 新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいに、笑顔がはじけてる。 あれ。 え。 ちょっと、俺にも見せてよ。 1枚目と2枚目。 全然、ちがう。 同じ場所で、同じ角度でカメラを構えたのに、 液晶に映っているのは、まるでちがう景色。 ハッとした。 こういうことなんだ。 たとえば、原発。 「一刻も早く運転停止し、代替エネルギーへの転換を」 「いや、安全対策を万全にして、やはり原子力でいくべき」 見えている事象は同じ。 提供されるデータ・数字も同じ。 それでも、それぞれの意見が異なり、ぶつかり合っているのは、 こうしてピントを合わせている場所がちがうからなんだろうなって。 原発だけじゃなくって、きっと、すべてがそう。 そんな、ごく、当たり前すぎることに、いま一度、気づいた朝。 明日から、“水先案内人”として、5日間、ピースボートに乗船します。 きっと、様々な価値観や経験を持った方々が乗船されることでしょう。 僕の焦点とは、またちがう焦点で物事を捉え、考えている方々との 語らいを、いまから楽しみにしています。
誰かの役に立っている
みなさん、こんにちは! 東京、今日はめっちゃ気持ちのいい青空が広がっています。 今日は、ひさしぶりに落語会へ行ってくる予定です。 被災地でもある仙台市出身の元M-1王者・サンドウィッチマンさんと、 春風亭小朝さん、春風亭昇太さんら人気落語家さんたちが企画した 「東日本大震災チャリティ落語会―落語の力―」@渋谷CCレモンホール。 出演者は、無償で出演し、収益はすべて被災地へ寄付されるとのこと。 昼夜2回公演みたいだけど、僕は夜公演に出かけていく予定です! 落語を聴きにいくのは、震災以降2度目。 前回、行ったときには、芸人さん達の“覚悟”を感じました。 いまよりも「自粛」「不謹慎」が叫ばれていた3月末。 「笑い」なんて、不謹慎の極み。それでも高座に上がった 噺家さん達からは、ある種の決意のようなものが感じられた。 「自分たちには、これしかない。 この話芸で、お客様の心をほぐしていくしかない」 もちろん、彼らは、そんなことはひと言も口にしない。 でも、物腰やわらかな、それでいてどこか毅然とした態度から、 僕はそんな決意とプライドを感じたのだ。 大きめの余震が続き、気分が沈みがちだった昨日、 好きなアーティストの曲をかけた。驚くほど、元気が出た。 やはり月末に行った芝居からもパワーをもらった。 今日の落語会も、きっと元気をもらうだろう。 現地に赴いてのボランティア活動やライブ収益を寄付することは、 もちろん素晴らしい。でも、事情によって、それがかなわない人もいる。 だいじょうぶ。それだけが支援じゃない。 音楽も、演劇も、落語も、「いまは不要」と感じる人もいるかもしれない。 でも、少なくとも、余震や放射能の影響におびえる生活を強いられる “プチ被災者”である東京人としては、そうした文化・芸術に力をもらい、 救われている。 文化・芸術だけじゃない。どんな仕事だって、社会の役に立っている。 もしかしたら、直接的に役に立っているようには思えないかもしれない。 でも、きっと、回り回って、誰かを助けている。誰かの役に立っている。 地震も、原発も、たしかに怖い。 でも、僕は無力感から歩みを止めてしまうことが、いちばん怖い。 「自分は無力なんじゃないか」 誰もが、感じてる。 でもさ、「どうせ自分には何もできない」と立ち止まっていても、 それは、きっと、本当に誰かの役に立つことはできないよ。 歩みを止めてしまっている人がいれば、ふたたび歩きだしてほしい。 自分の歩みが、必ず誰かの役に立つのだと信じて。 まずは、一歩を踏み出そう。