Author Archives: オフィスユニーク
わかりあう。わかりあおうとする。
Twitterのタイムラインを読んでいたら、こんなブログが目に留まりました。 頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。 読んで、まず、胸がぎゅっと苦しくなった。 「正直、不幸になってくれたら嬉しい」 この言葉は、とくに、心に突き刺さった。 そのうえで、僕らはどうあるべきかを考えた。 「どうせわからない」なら、無関心でいるほうがいいのか。 あくまで「わからない」ことを前提に、それでも思いを馳せ、 わずかな声を、力を届けていく。それじゃ、ダメなのか――。 そもそも、人と人が関わりあって生きていくって、どういうことなんだろう。 本人の気持ちには、もちろんなれない。でも、想像することならできる。 相手の立場になって、心を寄り添わせ、うれしいだろうなと思う言葉を かけたり、行動をしたり、ただ何も言わず見守っていたり。 もちろん、その想像が間違っていて、相手を傷つけたり、怒らせてしまう こともあると思う。でも、そうなることを恐れ、何も働きかけないことが、 はたして善なのか。 被災者と非被災者。親と子。妻と夫――。 それぞれ立場は違えども、わかりあおうと努力し続けることが “共生”ってことなんじゃないだろうか。 たとえば。 手足のない僕の気持ちは、きっと誰にもわからない。 でも、家族は、友人は、「あいつなら、こうなんじゃないか」って。 いつも、考えてくれた。それは、とても幸せなことだと感謝している。 それが、たとえ的外れだったとしても、ね。 だから、僕も立場の異なる相手に対し、少しでも心を寄り添える人で ありたいと思う。 僕が言いたいのは、「被災地の方々に対して、『頑張れ』と言ったって いいじゃない」という話じゃない。被災者の気持ちにはなれないけれど、 「どうせわからない」と無力感に苛まれ、無関心になるのではなく、 わかろうという努力を怠らずにいたいな、と。 これは、僕自身へのメッセージでもあるんです。 僕の文章を読んでくれた花*花のこじまいづみさんが、 こんなメッセージを寄せてくれた。 相手が大事だと思うなら「分かってたまるか!」と言われても、 「分かんない!でも大事!」と言い返す気持ちでいたいね^^ 「分かるから大事」なんじゃなくて、「大事だから分かり合いたい」 んだもんね。 うん、そうなんだ。 大事に思うから、「分かりたい」という気持ちが生まれてくる。 それって、すごく大切なことだと思うんだ。
朝日新聞「逆風満帆」(下)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第3回(下)・「萎縮した教育現場で」をお送りします。 ***************************************************** 2007年4月。乙武洋匡(34)は東京都杉並区で、区立小学校の先生になった。同じ区立の和田中学校には「夜スペ」などで話題を集めた民間人校長、藤原和博。乙武は学校改革に熱心な杉並区が独自に採用した、任期つきの教員だった。1年目は道徳や理科などを教えることになった。 しかし強い逆風が待っていた。 赴任初日、宮山延敬校長(当時)は、乙武に言った。「先生の赴任を快く思わない先生もいらっしゃる。気をつけて下さい」 現場は「介助の必要な教員が来ると仕事が増える」「メディアが来て学校が混乱する」と反発していた。どうせ腰掛けだろう、と面と向かって言う教員すらいた。 乙武は孤立しがちになり、繰り出すアイデアも却下された。 理科で栽培した豆をゆでて食べてみよう、という計画は、食中毒の恐れあり、と中止させられた。 田植えの際の「はだしで泥の感触を味わうのもいい経験。靴下をはかせるのはやめたらどうですか」という提案も、却下。 日々、自衛のための書類作りに忙殺される教員らの目には、暴挙にしか見えなかったのだろうか。 ホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)が言う。「彼の正論は、厳しい現状の中でもまれてきた先生には、無責任に思えたのかもしれないね」 この間、妻と話す気力すら失ったという乙武は「異質なものは受け入れられない雰囲気がありました」と、言葉少なに振り返る。 しかし、「毎時間の授業の展開をノートに書き、介助員と連携して、子どもの立場に立った授業をしていた。ことに命の大切さを、上手に伝えていました」と評価し、学びあった同僚もいた。 担任をまかされた2年目、“逆襲”に転じた。子どもたちとじっくり向き合うため、保護者と信頼関係を築くことから始めた。 「23人の子どもたちと僕と介助員の大野(新一)、保護者のみなさん。全員で3年2組ですから」 最初の保護者会で、そう語りかけ、いつでも見学にどうぞ、と誘った。放課後は携帯電話で、保護者に子どもたちの様子を伝えた。 答えはわかるのに、授業で挙手できない女の子の母に、乙武はこう伝えた。「泣いちゃったけど、最後までがんばって発表しました。ほめてあげて下さい」。母は「ほめるために電話を下さるなんて。本当に驚きました」と話す。 逆上がりが苦手だった男の子は、ふざけてばかりいて努力しなかったのを乙武にしかられ、手の皮がむけるほど練習した。その翌日。「先生は『がんばったよな』と息子をほめ、みんなの前で逆上がりをやらせてくれたそうです」。母親は、乙武からの電話で知った学校での様子を、その場で見ていたかのようにつぶさに語った。 ●23人の「色えんぴつ」 学校と保護者の間の、疑心暗鬼というモンスターは消えていた。 任期最後の3年目。「思い切ってやらせてもらった」という。 たとえば、「運動会の80メートル走の全レースで2組が1位になったら、丸刈りになる」と約束。全レース1位は逃したが、努力をたたえて子どもたちにバリカンを渡し、乙武の髪を刈らせた。「職員室で、しかられたけどね(笑)」 一心に愛情を注ぎ、ほめて泣き、叱って泣く乙武は、子どもたちを変えた。臆せず挑戦するようになり、お互いにその様子を認め合うようになった。勉強が苦手な男の子が、乙武の励ましの結果、最後の漢字テストでただ一人100点を取った時は、みんなで拍手を送り、乙武はまた泣いた。 乙武は教室に、筆で書いた文字を掲げていた。2学期は「23/6800000000」、3学期には「1/6800000000」。地球上にいる68億人の中から、仲間として出会った23人。そして、一人しかいない自分。仲間と自分を大切にしようと教えた。 10年春、子どもたちはクラス文集を「色えんぴつ」と名付けた。一本一本違う色。折れやすいけれど、折れてもまたやり直せる色鉛筆――。伝え続けた「みんなちがってみんないい」は、届いた。「いいクラスになった。報われたな、と思いました」。話す乙武の目に、涙がにじんだ。 3年間の教員生活は終わった。でも乙武を杉並に誘った藤原は言う。「彼は、何かを変える、とんでもない力を秘めている。先生としてあの体では普通ありえない経験を積んだ彼が、今度はどこで力を発揮するのか。楽しみですね」=敬称略 (魚住ゆかり)
朝日新聞「逆風満帆」(中)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」にて、3週間にわたり、 乙武洋匡を特集していただきました。朝日新聞様のご厚意により、 当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第2回(中)・「選手の本音引き出し奔走」です。 *************************************************** 「勝った!勝ったよ!!優勝だ!!!」。サッカーのアジアカップ決勝があった1月30日未明、乙武洋匡(34)がツイッターでほえた。(乙武さんのツイッターはこちら) 乙武のそばにはいつもスポーツがある。子どものころから熱心な阪神タイガースファンで、プロ野球の選手名鑑を愛読。そこに名前が載るのが夢だった。中学でバスケットボール、高校でアメリカンフットボールを楽しんだ。 しかしスポーツライターへの入り口は、『五体不満足』の大ヒットで、思いがけず有名人になったという「重い十字架」を背負い、ようやく探り当てたものだった。 2000年の初め、早稲田大卒業を控えた乙武は、どんな仕事につこうか、迷っていた。約1年続けたTBS「ニュースの森」のサブキャスターは、卒業と一緒にやめると決めていた。取材やインタビューは楽しかったし、評判もよかったが、いつも不安だった。 「本は、それまでの人生を書いただけ。何かを成し遂げたわけではないから、ブームが終われば、きっと見向きもされなくなる」 番組で任されるテーマが、バリアフリーや福祉になりがちなのも、気になった。障害者=福祉とくくられることに抵抗があった。 『五体不満足』とは関係のない仕事がしたい。考えた末に浮かんだのがスポーツライターだ。ちょうど新聞のプロ野球開幕特集に寄稿したことが、決定打になった。 つてを頼り、「Number」(文芸春秋)への執筆を打診した。スポーツ取材は素人ながら、「フィールドインタビュー」という新連載を任された。 いきなり人気雑誌でデビューした新人に、同業者の一部は冷たい視線を向けた。「客寄せに使われてるだけ」と言い放つ人もいた。 「仕方ないことだけど……やっぱり悔しかったですね」 「結果を残す」と仕事にのめり込んだ。シドニー五輪、プロ野球、Jリーグ、サッカーW杯と、ほとんど休みを取らず、現場に足を運んで信頼関係を築こうとした。 「とにかく熱心に通っていました」と証言するのは、02年から乙武の担当編集者になった文芸春秋の瀬尾泰信(40)。 入念に下調べをし、敬意をもって接する取材姿勢ゆえか、あるいは不特定多数から時として過剰な称賛や非難を受ける、共通体験ゆえか。多くのスター選手が、乙武にぽろりと本音を漏らした。 「取材につきあってみて、彼の人間を見る力は、とても優れていると思いました。持ち上げられたり、時には心ない言葉をぶつけられたり。幼いころから様々な視線を浴びてきて、僕らには想像もつかないほど、いろんな体験をしてきたからでしょうね」 もちろん、「乙武くん」だから取材対象と仲良くなれた部分もあった、と瀬尾は言う。『五体不満足』とは関係なく自分を認めてほしい、という気負いが文章ににじんでしまい、つっこんだやりとりを重ねたこともあったという。 ●「虚像」受け入れる覚悟 03年3月、扉が開いた。 ケガで戦列を離れ、リハビリを続けていた読売巨人軍の清原和博が、連日取材に通いつめていた乙武を、一人だけトレーニングルームに招き入れたのだ。 「一瞬、迷いました。これも『五体不満足』の乙武ゆえの特別扱いじゃないのか。でも、それならそれでいい、と思えたんです」 と乙武。 1年前だったら、入らなかったかもしれない。積み上げてきた実績と自信が、背中を押した。 その後、取材を重ね、メディアに容易に心を開かない清原から、微妙な関係といわれた堀内監督への思いなどを引き出し、「肉声――清原和博の闘いを追う」などの大型記事として次々と発表した。 取材などを通じて、福岡ダイエーホークスの王貞治監督(当時)ら、不特定多数の期待に、理想的な振る舞いで応える人の姿にも触れた。『五体不満足』の乙武、という「虚像」に歩み寄って生きていく覚悟も固まった。 すると、「そろそろ次にいってもいいかな」という思いが、頭をもたげてきた。 そのころ、少年による痛ましい殺傷事件が相次いだ。自分にしかできない仕事は、こうした子どもたちの問題、教育の中にあるのではないか。乙武は、何かに呼ばれるように、急速に傾斜していく。一定の達成感を得たスポーツライターの仕事に、未練はなかった。 通信制の大学で、教員免許を取得。07年4月、乙武は、先生になった。=敬称略 (魚住ゆかり)
朝日新聞「逆風満帆」(上)
朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」のコーナーにて、 今年1月29日(土)から3週にわたり、乙武洋匡が特集されました。 朝日新聞様のご厚意により、当サイトにも掲載させていただくことに! 本日は、第1回(上)・「著書がもたらした『障害』」です。 ****************************************************** 昨年暮れ、乙武洋匡(34)は全国を飛び回っていた。秋に初めての小説『だいじょうぶ3組』(講談社)を出版して以来、講演行脚が続いている。 重度の障害を苦にせず、伸びやかに生きてきた半生をつづった『五体不満足』(同)のブームから、13年がたった。07年春、乙武は7年間続けたスポーツライターをやめて公立小学校の教師になった。3年の任期終了後、その様子を描いたのが、今回の小説だ。 「なぜ教員になったか、不思議に思われますよね」。川崎市での講演会で、乙武は話し始めた。 転機は03年。長崎市で12歳の少年が幼稚園児を殺害した。翌年、長崎県佐世保市では11歳の少女が同級生を刺殺。被害者だけでなく加害者のことが気になった。 「よりよく生きたい、と生まれてきたはずなのに、事件を起こさざるを得なかった。『寂しいよ。苦しいよ。壊れちゃうよ』。彼らが発したはずのSOSに、大人は気付いてあげられなかった」 静かな中に熱のこもった、乙武の声だけが響く。「僕は両親や先生、周囲の大人に恵まれた。僕も、次の世代のために何かしたいと思ったんです」 先天性四肢切断という障害をもった乙武が生まれた1カ月後。母・良子は、初めて対面した息子を「かわいい」と抱きしめた。気を失ってしまうのではとベッドまで用意した、周囲の懸念をよそに。 「超天然」の母と、おしゃれで優しい建築家の父賢二(01年死去)。「いつも、大事に思っていると伝えてくれた。そういうのがくすぐったい時期もあったけど、我が家は愛に満ちていました」 食べる、書く、ハサミを使う……無類の負けず嫌いの乙武は、何でもやってみたがり、どうしてもできないことだけ「これは、僕にはできないことなんだ」と納得した。両親は手も口も出さず、気が済むまでやらせた。 両親の希望がかない、世田谷区立小では普通学級で過ごす。担任の故・高木悦男は、乙武が車いすに乗ることを禁じ、自力で歩かせた。子どもたちにも必要以上の手伝いをしないよう教えた。子どもたちは自然と乙武が困れば手をさしのべ、例えばサッカーでは、乙武のシュートだけ3点というような「オトちゃんルール」を作り、楽しく遊ぶようになった。 中学、高校では、なんと運動部に所属。1浪して進んだ早稲田大学時代には、街づくりのサークルで先頭に立った。 ●あたたかい自己肯定感 「なぜこんな体に、と運命や周囲を恨んだりしたこと? ないですねえ」と乙武。確かに、話していると、彼が障害者であることを忘れてしまうが、疑問もよぎる。人はそれほど強くなれるのか。つらいと思わなかったんですか? 失礼を承知で何度か聞いてみた。 答えはいつも同じだった。周囲のおかげで、僕はあたたかな自己肯定感に守られてきたんですよ。 「彼は、バリアを減らしちゃうしね」。新宿・歌舞伎町でホストクラブを経営する親友・手塚真輝(33)は言う。「いつも、あらゆることを想定して、バリアになるべく遭遇しないですむように、作戦を立ててるんですよ」 街づくりの様子が報道され、乙武に注目が集まった。その縁で98年、『五体不満足』が出版されると、その後、文庫本も含め580万部に及ぶ大ベストセラーに。「重い障害を乗り越え、けなげに生きる青年」に取材が殺到した。 だが乙武は戸惑った。押し寄せた称賛は「重度障害者なのに」が前提。本人が特徴のひとつと受け止め、友人たちも忘れがちな「障害」が、突然のしかかってきた。 両親までマスコミに追いかけられた。言っていないことを書かれ、後に妻となる恋人とも会いづらくなった。一部の障害者から、「障害者と健常者の間にある問題から目をそらす口実を与える」などの声も聞こえてきた。 1年以上、吐き気がとまらず、脳のMRI検査までした。「『五体不満足』という十字架をおろしたい、と思っていました」 数々の出会いやチャンスをもたらした『五体不満足』は、乙武に、人生初にして最大の逆風も運んできたのだった。=敬称略 (魚住ゆかり)
重なれ、みんなの想い!
月曜日に、「まちの保育園」開園のお知らせをしてから、大きな反響をいただいています。朝日新聞はじめ、様々なメディアにも取りあげていただいているようで、深く感謝しています。 なんかね、報道だけを見ていると、「乙武さんがつくった!」というようなイメージを与えてしまいがちだけど、決してそんなことはないんですよ。ブログでもTwitterでもお伝えしているように、この「まちの保育園」は決して僕ひとりで準備を進めてきたわけではないんです。仲間たちと考え、実現を目指してきたものなんです。 その仲間の代表が、この「まちの保育園」の運営会社「株式会社ナチュラルスマイルジャパン」の代表取締役・松本理寿輝(りずき)です。 理寿輝と出会ったのは、教員3年目の冬。友人から「オレの仲間で保育園を作ろうと頑張っているヤツがいて、それがなかなかユニークな取り組みだから、一度会ってみない?」と紹介され、意気投合。 一橋大学在籍時から幼児教育に興味を持ち、「将来は保育園をつくりたい!」と考えていた理寿輝は、卒業後、博報堂に入社。教育関連企業のブランディングに従事することで、幼児教育への関心と見識をさらに深めていきました。 ただ、保育園の「経営」をしていくためには、もっと経営についての勉強をしなければ――と、みずから会社を立ち上げてしまったのが、理寿輝のすごいところ。コインパーキングの空中部分にリユース可能な建築を施し、テナントに提供したり、屋上部分を緑化したりといった事業を手がける株式会社フィル・カンパニーを設立。副社長に就任したのです。 この事業が世間的にも評価され、会社経営も順調。しかし、「僕の本来の目的は保育園をつくること」と、設立から3年が経ったところで退社。保育園を開設するための運営会社「株式会社ナチュラルスマイルジャパン」を立ち上げたのです。 いわば、この「まちの保育園」は、理寿輝が10年という歳月をかけて準備を進め、実現に向けて歩んできた成果が、カタチとなって表れてきたものなのです。 もちろん、理寿輝だけではありません。今回、僕らの想いを想像以上のカタチに具現化してくださった建築家の方、園長先生を始めとする現場で保育活動を行う保育士の方々、園に併設するカフェの準備を進めているスタッフ――様々な人の想いが重なって、4月1日の開園に向かっている。そのことをどうしてもみなさんに知っていただきたく、今回はこうして筆を取りました(あ、キーボードを叩きました)。 僕は、あくまで「経営者のひとり」。ひとつのピースに過ぎません。ですが、そのひとつのピースとして何ができるのかを試行錯誤しながら、子どもたちとまちの人々が笑顔になるよう、力を尽くしていきたいと思います。 ご支援、ご協力のほど、よろしくお願いします。 代表取締役社長・松本理寿輝(りずき)と
まちの保育園
今日は、みなさんにとても大事なお知らせがあります。 ご存じのとおり、僕は2007年4月~2010年3月の3年間、杉並区立杉並第四小学校教諭として小学校に勤務していました。杉並区との契約は「3年間」と当初から任期が決まっていたために、残念ながら昨年3月で退職。それでも、この一年間、また何らかの形で教育現場と関わりたいという想いは、ずっと持ち続けてきました。 そして、その準備も進めてきました。 2011年4月1日、練馬区の小竹向原に保育園を開園します。その名も、「まちの保育園」。 教員時代、僕が強く感じたのは、「やっぱり家庭が大事だ」ということ。家庭が安定していれば、子どもたちは勉強だって落ち着いて取り組めるし、何か新しいことにチャレンジしようという意欲だって生まれてくる。ところが、いざ家庭が不安定な状況に陥ると、子どもたちは途端に落ち着きを失い、学校での様子にも異変が表れるようになってくるのです。 でも、世の中には様々な家庭がある。子どもの成長に目を向ける余裕のない、自分たちのことで精いっぱいの大人たちがたくさんいる。そんな子どもたちのために、何か役に立てないだろうか、より家庭に近い位置で子どもたちのために力を尽くせないだろうか――。 そうした想いが、今回の保育園開園というチャレンジにつながっていきました。僕は保育士免許を取得してないため、今回は僕自身が保育活動を行うというわけではありません。それでも、代表取締役を務める松本理寿輝(りずき)とともに、経営者という立場で保育の現場から子どもたちの成長を支えていけたらと考えています。 僕らの想いがつまった「まちの保育園」。ご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします!
残念な歌声(笑)
みなさん、昨日は『NEWS ZERO』観ていただけましたか? 人気コーナー「ZERO CULTURE」のなかで、FUNKISTとのコラボ曲 『1/6900000000』を特集していただくことができました。 「ああ、見逃しちゃったよ (>_<)」 「もっと曲に込めた想いを知りたい!」 という方は、『1/6900000000』ができるまで――というブログを 連載したので、そちらを読んでみてくださいね! さて、曲作りの相談のため銀座の喫茶店に集まった僕と染谷西郷。 西郷が曲をつくり、僕が歌詞を担当することはすぐに決まったが、 その席で、西郷はとんでもない提案を僕に持ちかけてきた。 「そのできた曲の一部、ぜひ乙武さんにも歌ってほしいんです」 ( ̄□ ̄;)!! 「西郷……何言ってんの!?」 「いや、前に乙武さんとカラオケ行った(ギターの)ヨシロウが 『オトタケさん、歌うまかった』と言ってたし、何より乙武さんにも 歌で参加してもらったほうが、より伝わる曲になると思うんです」 「うまくないし (>_<)」 でも。 〈より伝わる曲に〉かあ。 「わかった。じゃあ、西郷。いまからカラオケに行こう」 「へっ?」 「そこで俺が歌うから、おまえがいかに無謀なことを言ってるのか、 実感してくれ(笑)」 僕らはすぐさま、銀座にあるカラオケボックスに直行。 そこで、僕が普段から友人たちと趣味でやっているバンドで 歌っている曲や、恐れ多くもFUNKISTの曲を歌わせてもらった。 「ほら、どう考えても無理だろ(笑)?」 「いや、なんか乙武さんの歌声って、しゃべってるときとはまた違う、 力強くて、すごくまっすぐで――うん、なんかイメージ湧いてきた!」 湧いてきちゃ、ダメーーーーーーー(◎o◎)!! じつは、いまから10年以上も前、『五体不満足』を出版した直後にも、 同様の話をいただいたことがあった。当時お世話になっていた テレビ局プロデューサーの結婚式で一曲歌わせていただいたら、 その翌日に、同じく出席されていた方から「CDを出さないか?」と。 僕は、その場でお断りをした。だって、「いかにも」でしょ。 本が大ヒットした大学生(当時)が、勢いに乗ってCD発売!!だなんて。 だけど、今回ははじめて「歌ってみようかな」という気になっていた。 僕のなかでは「音楽をやってる」とか「CDを出す」という感覚じゃなく、 「FUNKISTと一緒にメッセージを伝える」という感覚になれていたから。 これまでは、著作や講演会やメディアへの出演を通して、 つまり、「書く」「しゃべる」という行為を通して、メッセージを伝えてきた。 それが、今回はたまたま未体験の「音楽」というフィールドであり、 「歌う」という行為なのかなって。 まあ、ホントはそんなことは後付けの理由で、歌詞を書くだけでなく、 「あのFUNKISTと一緒に、曲に参加できる!」という衝動的な よろこびのほうが大きかったのかもしれないけれど(笑)。 そんなわけで、ファンの方には誠に申し訳ないのですが、 今回の『1/6900000000』、西郷のステキな歌声にまじって、 もれなく僕のザンネンな歌声も聞くことができます(苦笑)。 すでにラジオでのON AIRやCDを聴いてくださった方からは、 「乙武さんがどこを歌っていたのかわからなかった」という声も いただいているので、今日は特別にちょっとだけタネ明かし。 ヨシロウ君のギターソロのあと、 「Ah 初めてだよ 君を感じると 体いっぱいに パワーが 満ちてくんだ 幸せという 魔法のペンキで 僕のすべてを あっという間に 塗り変えた」 という歌詞の部分を僕が歌っています! あとは、西郷とふたりで「ありーがとう♪ ありーがとう♪」 ぜひ、CDを聴いてチェックしてみてくださいね(^O^)/
『1/6900000000』ができるまで③
昨日のブログの続き。 「誰もひとりじゃない」 FUNKISTとそんなメッセージを伝えようと、僕は曲を書き始めた。 書きあげた曲をはじめてメンバーに見せたのは、彼ら7人が Vocal・染谷西郷の母国である南アフリカツアーから帰国した直後。 銀座での打ち合わせから、2週間ほど経ったときのことだった。 大阪・梅田のポニーキャニオン会議室。 僕が書いた歌詞が印刷され、メンバー一人ひとりに配られる。 手渡されたA4サイズの紙を受け取り、無言で読み始める7人。 僕は、祈るような気持ちでその様子を見守っていた。 「すげえ」 沈黙を破ったのは、西郷だった。 「なんか、いま乙武さんが書いてくれたこの歌詞を読んで、 パッとジグソーパズルが頭に思い浮かんだんですよね。 みんな一人ひとり、形は違うけど、でもそのすべてが必要で。 それぞれ得意なこと、苦手なことは違うけど、みんなでつながって。 なんか、ジグソーパズルみたいだなって」 その言葉に、僕は目を丸くし、部屋のすみに座っていた 事務所スタッフと顔を見合わせた。 「西郷、あのね。俺がいつも講演会で必ず話すのが、そのことなんだ。 まさにジグソーパズルの例えを使って、『みんなちがって、みんないい』 って」 「えっ、ホントですか?いや、そんなことまったく知らなかったけど、 この歌詞を読んで、本当にジグソーパズルが頭に浮かんだんですよ」 やっぱり、ふたりが見ているのは、同じ景色だったんだ――。 僕は、全身に鳥肌が立つようなよろこびと興奮を覚えていた。 歌詞は決まった。あとは、この曲にタイトルをつけなければならない。 「たしか、前に乙武さんが話してくれましたよね。小学校で先生を やっていたとき、模造紙にデカデカと書いたメッセージを教室に 貼っていたって」 「ああ、『1/6800000000』というやつね。みんなは、この地球上に 68億人もいるうちの、たった一人でしかないけれど、その一人の 代わりを務められる人なんて誰もいない、一人ひとりがかけがえの ない存在なんだってことを伝えたくて」 「タイトル、それをそのまま持ってくるんじゃダメですかね? なんか、この曲のメッセージを伝えるのに、乙武さんが教室に 貼っていたその言葉をタイトルにするのが、いちばんいいんじゃないか と思って」 「じゃあ、あれから人口が増えているから、『69億人』に。 『1/6900000000』に、僕らのメッセージを託していこうか!」 他のメンバーも、口々に賛同してくれた。 こうして、僕らの友情と大切な想いが詰まった曲『1/6900000000』が 完成した。 ****************************************************** 本日2月2日(水)、僕が作詞&サブボーカルとして参加した FUNKISTとのコラボ曲『1/6900000000』を収録した FUNKISTのNewアルバム『Pieceful』が発売されます。 また、今夜、日本テレビ系『NEWS ZERO』(22:54~23:58)の 人気コーナー「ZERO CULTURE」にて、『1/6900000000』が 特集される予定です。 レコーディングの様子や先日出演した渋谷O-WESTでのライブ映像、 さらには染谷西郷×乙武洋匡がこの「1/6900000000」に込めた 想いをたっぷり語った独占インタビューなど、見どころが満載。 ウルトラ必見&完全保存版です!! ※放送日は、予告なく変更になることがあります。
『1/6900000000』ができるまで②
昨日のブログの続き。 「メッセージを伝える曲を一緒につくりたいんです」 電話口の向こうでそう言ってくれたFUNKIST・染谷西郷の言葉に、 僕は何の迷いもなくうなずいていた。 その2日後、銀座の喫茶店で待ち合わせた僕らは、 すぐに具体的な曲づくりの話に移った。 西郷「僕が先に曲をつくって、そこに乙武さんが歌詞を書くのと、 乙武さんが先に歌詞を書いて、そこから僕が曲をつくるのと、 どっちのほうがやりやすいですか?」 乙武「じゃあ、西郷がやりにくくなければ、先に曲をつくってよ。 その曲を聴いて、そのあとで俺が詩を考えるから。 ちなみに、どんな感じの曲にする? テーマというか……」 西郷「とくに決めてるものはないんです。ただ、これまでFUNKISTが 伝えてきたことと、乙武さんが伝えてきたことが重なっている部分、 それをひとつの曲に込められたら、十分にメッセージ性のある、 みんなに伝わる曲になるのかなって」 その言葉に、僕はとても安心したのを覚えている。 それまで6年近くともに歩んできて、「僕とFUNKISTの重なる部分」は 心の底で十分に感じていたから。 その日から、僕はずっと曲づくりのことばかり考えていた。 そのとき、ちょうどあのニュースが飛び込んできた。 群馬県桐生市で、小学6年生の女児が首をつって自殺したという。 その原因は、間違いなく学校で受けていた「いじめ」にあった。 「学校はいじめに気づかなかったのか」「親は何をしてたんだ」――。 自分には何の責任もないと信じ込む人々の非難する声に、 「いじめはなかった」と心ない言葉を平気で口にする校長に、 何も力になってあげられなかった自分の無力さに、ただ腹が立った。 情けなくて、申し訳なくて、「ごめんね、ごめんね」と何度も思った。 僕は、このときの心境をつづったブログのなかで、最後にこう書いた。 「君のような苦しい思いで、この世を去っていく子どもが、 一人でもいなくなるように――。 僕にできる精いっぱいのこと、力を尽くしていくからね」 それが、この曲なんじゃないか。強く、そう思った。 「誰もひとりじゃないぞ!」 西郷が、ステージ上からそう叫ぶシーンを何度も観てきた。 そう、僕らはひとりなんかじゃない。 いまは孤独で、さみしくて、誰にも理解されていない―― そう思っている人もいるかもしれない。 だけど、どこかに必ず、君のことを受け止め、理解し、 ありのままの君でいることを認めてくれる人がいる。 きっと、いるはずだから――。 そんなメッセージを社会全体で発信していくことができたら、 いま孤独感にさいなまれている若い世代を、 みずから命を奪ってしまうような子どもたちを、 救ってあげられるんじゃないだろうか。 西郷の言葉が、耳の奥によみがえった。 「音楽で世界を変えよう」 僕は、猛烈な勢いでパソコンのキーボードを叩きはじめた。