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佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは

 全聾の作曲家という触れこみで“現代のベートーヴェン”と持てはやされた佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏の楽曲が、じつはご本人でなく、別の方によって作曲されていたというニュースが論議を呼んでいる。この件が報道されて以来、「障害者としての意見」が気になるのか、「乙武さんはどう思いますか?」という質問が多く寄せられている。ご本人が口を閉ざしている段階で、私があれこれ語ることにためらいがないわけでもないが、私なりに感じたことをまとめてみたい。  ネットでの論調を見ていると、以下のふたつに意見が大別されるように思う。ひとつは、「誰が作曲者であろうが、作品の価値は変わらない」とする考え方。もうひとつは、「騙された。とんだ駄作を買わされてしまった」とする考え方。この両者がそれぞれ意見を戦わせているように見えるが、私自身は「どちらも正解」だと思っている。つまり、商品を購入する際に「何を重視するのか」というモノサシが異なれば、今回の報道についての感想もまるで違ったものになるだろうと思うのだ。  私自身、それほどビジネスの世界に明るいわけではないが、最近は「コンテンツからコンテクストへ」という流れがあるらしい。コンテンツとは、小説や映画、音楽の「中身」そのもの。つまり、いかに作品としてすぐれたものを生み出し、売り出していくかという努力が必要になってくる。これに対して、コンテクストとは「文脈」のこと。作品自体に、「どんな人物が」「どのように生み出したのか」という物語を付与することで、人々の関心を誘い、作品への評価を高めようとする。最近では、とくにこの手法が重視されているのだという。  佐村河内氏名義の作品は、まさにこの“コンテクスト”を重視した手法によって多くの人々に知られることとなった典型だろう。もちろん、音楽に疎い私には、彼名義の楽曲の優劣について論じる資格がない。しかし、日本では数千枚も売れれば大ヒットと言われる交響曲という分野で、彼の作品が10万枚を超えるヒットを記録したという事実は、やはり“コンテクスト”抜きにしては達成しえない快挙だったはずだ。「耳の聞こえない人が、こんな作品を書いたなんてすごい!」――そんな思いでCDを買った人々が、今回の報道によって「騙された」「裏切られた」という思いを抱くのは無理もないことだろう。  じつは、私自身、この“コンテクスト”には幼い頃から苦しめられてきた。先天性四肢欠損という障害に生まれながら、健常者とともに育ってきた私は、周囲の大人たちから事あるごとに褒められてきた。「すごいね」「よくそんなことできるね」――しかし、私がやっていることと言えば、歩く、食べる、字を書くといった、ごく基本的な動作。それを褒められるたびに、子どもながら違和感を覚えていた。みんなと同じことをしているだけなのに、どうして僕だけが褒められるのだろう、と――。   答えは、すぐに出た。私が、障害児だからだ。「どうせ、この子は何もできないだろう」という前提があるからこそ、みんなと同じことをしただけで「素晴らしいですね」と評価される。私が何をしたって、その“行為”そのものではなく、「どんな状況にある子が」それをしたのかという“文脈”がついて回った。そうした重苦しい、粘り気のある視線は、当時の私にとってあまり心地のいいものではなかったし、正当な評価を受けたいという思いはつねにあった。それによって、たとえそれまで履かせてもらっていた下駄を剥ぎ取られる結果になったとしても。  だが、その私自身もまた、“コンテクスト”の呪縛から完全に逃れられているとは言いがたい。中村中という歌手がいる。彼女の「友達の詩」という曲を初めて聴いたときには、正直、鳥肌が立った。性同一性障害であることを公表している彼女が「手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから大切な人は友達くらいでいい」と歌う姿には、涙を禁じ得なかった。しかし、そこには、「いったい彼女はどれだけつらい恋愛をしてきたのだろう」という私の勝手な推測が根底に流れている。「性同一性障害である」という彼女の境遇が、この曲に対する私の思いを高めていることは間違いない。おそらくは、彼女自身、そうした見方をされることを望んではいないだろうけれど。   幼少期からずっと“コンテクスト”に苦しめられてきた私でさえ、他者に視線を向けるときには思わず“コンテクスト”を意識してしまう。だからこそ、そこに強烈な磁力を感じるのだ。もちろん、なかには「誰がつくったのかは興味がない。大切なのは作品そのものだ」と、みずからの確固たる価値基準によって作品を評価される方もいるだろう。しかし、誰もがそのように優れた審美眼を有しているわけではない。その作品を包む“ストーリー”に惹かれて、思わず商品を手に取ったという方はけっして少なくないはずだし、そうした人々を非難することはナンセンスであるように感じる。   昨年秋、食材偽装問題が世間を賑わせたが、あれは“コンテンツ”そのものにウソがあった。今回の佐村河内氏をめぐる騒動については、“コンテクスト”に大きなウソがあったと言わざるをえない。いまの時代、販売戦略において“コンテンツ”だけでなく“コンテクスト”も重視されるのであれば、やはり佐村河内氏にも説明責任がある。そして報道が事実ならば、彼名義の作品を評価してくれた人々に対し、誠意を持って謝罪をする必要があるのではないだろうか。   なお、「佐村河内氏の耳はじつは聞こえており、障害者手帳を不正に取得しているのであれば、そもそも詐欺であり、犯罪なのでは」というご指摘もあるかと思うが、これについては代理人サイドが否定しており、真偽が定かではないので、ここでの言及は控えたい。


なぜ都知事選から、子どもたちの姿が見えないのか?

 2月9日に行われる都知事選。「しっかりとした政策論争を」との声が聞かれるが、私が最も重視する「教育」について熱く語る候補者はほとんど見受けられない。  仕方がない面もある。「この国を戦争に向かわせたのは、戦争を肯定する軍国主義教育にも責任があった」という反省を踏まえ、現在では「教育の政治的中立」が原則とされている。もちろん、教育委員や教育長の任命権は首長が有するなど、政治は教育に一切関わることができないというわけではない。だが、それでも戦後日本では、政治と教育が一体化しないよう、一定の配慮がなされてきた。  だが、政治はいつまでも教育に無関心であっていいのだろうか。私には、そうは思えない。たしかに、学校教育については各自治体が設置する教育委員会の所管となっており(東京都なら東京都教育委員会)、予算や人事を除いて、政治が介入することは許されていない。しかし、「教育」とは学校教育だけではないはずだ。  3年間、公立小学校にて教員を務めた。教師という立場で最善を尽くしたという自負はあるが、同時に教師という立場での限界も感じた。たとえば、担任するクラスの子どもたち。突然、忘れ物が多くなった、授業中におしゃべりするようになった、友達に暴力をふるうようになったなど、彼らの行動に著しい変化が表れることがある。どうしたのだろうと事情を聞いてみると、家庭において何らかの環境の変化があったというケースがほとんどだった。しかし、担任という立場では、家庭の問題に深く入り込むことができない。結果、子どもたちの悩みの根源である部分には触れられず、対処療法のようなケアしかできずに、もどかしい思いをしたという事案も少なくなかった。  子どもたちが育つ場は、学校だけではない。家庭と学校、そして地域――この三者がそれぞれの役割を果たしながら、子どもたちを見守り、育てていくことがいかに重要であるかを実感した。「教育」と言うと、すぐに学校教育を思い浮かべがちだが、家庭教育や地域教育も、同様に重要なファクターなのである。そして、この家庭と地域に対するアプローチこそ、教育委員会ではなく、政治の出番ではないかと思うのだ。  たとえば、政治にどんなことができるのか。日本でも、深刻な格差が広がっている。とくに、貧困家庭で育つ子どもの学力向上は大きな課題だ。年収1500万円以上の家庭で育った子どもと、年収200万円未満の家庭で育った子どもでは、同じテストを受けても正答率が20%近く異なるというデータがある。つまり、貧困家庭に育ったことで、子どもたちは将来の選択肢を大いに狭められてしまっているという現状があるのだ。いつまでも負の連鎖を断ち切ることができない社会を、私は望まない。  北海道釧路市や埼玉県の取り組みを取材した。これらの自治体では、生活保護を受ける世帯の子どもたちの学習支援を行っている。彼らの親は仕事のために不在であることが多く、塾通いする経済的余裕もない。家でひとり勉強するほかないが、わからない箇所があっても質問できる相手がいない。こうした状況で、学力定着が望めるはずもない。そこで、釧路市や埼玉県は、学生ボランティアや元教師などがこうした子どもたちの学習を支援する仕組みづくりに着手したのだ。埼玉県では、対象者の高校進学率が格段にアップするなど、大きな効果を見せている。  これは、ほんの一例だ。全国には、学校教育の枠組みの外で、子どもたちの学びや育ちを支援する取り組みがあちこちで行われている。首都である東京が、“教育後進地域”になるわけにはいかない。新しい都知事には、ぜひとも教育の重要性に目を向けてもらいたい。


『田勢康弘の週刊ニュース新書』

2月1日(土)11:30~12:05(テレビ東京)にて、 『田勢康弘の週刊ニュース新書』に生出演します! 「教育現場から考えるニッポンの課題とは」と題して、 小学校教員や東京都教育委員といった経験からお話させていただきます! 是非、ご覧下さい!


NHK長谷川経営委員の「女性は家で育児、男性は外で仕事」論に待った!

◆  「女性は家で子育て、男性は外で仕事」は、本当に常識だったのか  本を書き、テレビに出演し、小学校教員を経験した後に、現在は東京都教育委員を務める。「乙武さんの肩書きは、いったい何なのですか?」と聞かれることも多いが、じつはもうひとつ「保育園経営」という肩書きもある。地域との結びつきを重視した「まちの保育園」は、2011年4月に練馬区小竹向原、2012年12月に港区六本木一丁目に開園した。現在、両園あわせて80名を超える子どもたちをお預かりしている。入園当初は子どもたちがぐずり、保護者の方々も後ろ髪を引かれるような思いで職場に向かうことが多くあったが、子どもたちも園に慣れてくると、笑顔で「いってらっしゃい」と見送ることができるようになる。そんな笑顔に見送られながら仕事へと向かう保護者の方々の姿を目にすると、この事業の重要性とともに大きなやりがいを感じることができる。  だからこそ、NHK経営委員・長谷川三千子氏(埼玉大学名誉教授)が産経新聞に寄せたコラムには驚かされた。彼女の主張を要約すると、女性は家で子を産み育て、男性は外で働いて妻子を養うのが合理的であり、日本の少子化問題を解決するためには、「男女雇用機会均等法」以来進められてきた女性も働くことのできる社会を「誤りを反省して方向を転ずべき」だとしている。たしかにこの国が抱える少子化問題はかなり深刻な状態にあるが、出生率を上げていくためには、本当に長谷川氏が主張するように「女性が子育てをし、男性が外で働く」という時代に時計の針を戻すしかないのだろうか。  氏は、女性が子育てをし、男性が外で働くという社会形態を「昭和50年頃まではそれが普通だったのです」と主張しているが、本当にそうだろうか。たとえば農家では、女性も貴重な働き手であり、彼女たちが畑仕事を手伝うのはごく日常的なことだった。また町工場のような場所でも、女性は経理面でそれを支えるなど、やはり貴重な戦力として活躍してきた。長谷川氏が「普通だった」と主張する「女性は内、男性は外」という生き方は、彼女が生きてきた時代の「普通」であり、長い歴史的に見れば、必ずしも「普通」とは言い切れないのではないだろうか。彼女の個人的なノスタルジーに寄りかかって社会的課題に向き合われたのでは、この深刻な少子化問題を解決することはできない。 ◆  出生率が高い国に共通することとは  海外にヒントを探してみよう。韓国やドイツ、イタリアなどの国々は、日本同様、現在も低い出生率に悩まされている。だが、フランスやイギリス、さらにはスウェーデンやデンマークといった北欧の国々は、かなり高い出生率を保っている。じつは、これらの国々も女性の社会進出にともなって出生率が低下してきた歴史がある。しかし、1990年代以降、顕著な回復傾向を見せているのだ。これは、女性も働くことのできる社会を否定し、性別によって役割を規定する時代に逆戻りした結果、得られた成果なのだろうか。答えは、「NO」だ。  出生率の低下に危機感を覚えたこれらの国は、まずは女性が働き、仕事によって自己実現を図ることのできる社会を肯定するところからスタートした。そして、託児保育施設の拡充、給付金や税制上の優遇、産休後の地位を保証するキャリア制度など、女性が仕事と育児を両立できる社会を再構築してきたのだ。もちろん、育児を女性だけに押しつけることもない。男性も育児に参加できるよう、社会全体として長時間労働をしない・させない文化が根づいている。こうして海外を参考にしてみると、ワークライフバランスに注意が払われ、仕事も育児も両立することのできる社会において出生率が上がっていることを確認できる。 ◆  日本が成熟社会となるために  翻って、日本はどうだろうか。社会保障費は高齢者福祉が大きな割合を占め、子育て支援にはなかなか予算が配分されていない現状がある。また、最近では“保活”なる言葉が生まれるほど保育園を探すことが難しく、働く女性たちは悲鳴をあげている。産休や育休などの制度もあるにはあるが、「それを取得してしまうと、復帰後に以前のような責任ある仕事をさせてもらえなくなる」という女性の友人たちの話も聞く。結局、彼女たちは結婚や出産に対するハードルを高く感じ、躊躇してしまっているという現状がある。  つまり、日本では依然として働く女性たちが積極的に「子どもを生みたい」と思える環境になっていないことがわかる。以前に比べれば改善された部分もあるのだろうが、女性にとってはまだまだ「仕事か育児か」という二者択一を迫られるような状況にあるのだ。これでは晩婚化・未婚化が進み、出生率が下がるのも無理はない。  出生率を上げるために、まだまだ社会的に努力すべき余地は残されている。そうした側面に触れることなく、性別によって役割を固定し、人権を限定することを求めるのはあまりに愚かであると言わざるをえない。これからの私たちが目指すべきは、性別や障害の有無など、生まれついた環境や境遇によって生き方が定められることのない、成熟した社会ではないだろうか。


「太陽が降り注ぐ場所」(後編)

 「village safe haven」訪問3日目。この日が、僕らがここに来ることのできる最後の日となる。染谷西郷は、この日のためにとっておきのプランを用意していた。  「昨日、みんなに日本で起こった大きな災害のことを話したの、覚えてるかな。大きな地震、そして津波。たくさんの人が家を流され、家族や友達を失ってしまったことを」  子どもたちは表情を曇らせながら、ゆっくりうなずいた。  「そして、みんなは日本の子どもたちのためにメッセージを書いてくれたよね。みんなの写真と全員分のカラフルな手形と一緒に。ありがとね。本当にありがとう」  少し間を置くと、西郷はいよいよあたためていたプランを子どもたちに提案した。  「僕も自分に何ができるかいろいろ考えたんだけど、みんなが考えてくれたメッセージにメロディをつけさせてくれないかな。そうしてできた曲を、みんなで録音しよう。そして、昨日みんなが書いてくれた手紙とともに、その曲を日本の子どもたちに届けてこようと思う。もちろん、完成したCDは必ずみんなにも送るからね」  思いがけない提案に、子どもたちは目を丸くしている。  「僕らが初めて会ったとき、みんなは夢を語ってくれたよね。そのとき、『シンガーになりたい』と言ってくれた子が何人かいた。君もそうだったね。そう、君も。君たちにとっては、これがシンガーとしてのデビューになるんだよ!」  西郷が茶目っ気たっぷりにそう言うと、歌手志望の女の子たちは信じられないといった表情でぽかんと口を開け、まわりの男の子たちは彼女たちを冷やかすような、それでいて、ちょっぴりうらやましそうな視線を送った。  早速、曲作りが始まった。前日に子どもたちが書いてくれた手紙からだけでなく、あらためてその曲に盛り込みたいメッセージを募ることにした。西郷の呼びかけに、子どもたちからは続々と手が挙がる。 「God blesses you」 「God is always with you」 「Believe in God and you can proceed」  どれもがあたたかな思いにあふれた言葉なのだが、キリスト教が根ざすこの国では、どうしても神にまつわる言葉が多くなる。このままでは、いまひとつ日本の子どもたちには伝わりづらいメッセージになってしまう可能性が高い。 「みんな、たくさんの素敵な言葉をありがとう。いま、みんなは日本の子どもたちに届けたい言葉を考えてくれたよね。じゃあ、今度は少し考え方を変えてみよう。もしも、みんなが日本の東北地方に住む子どもたちで、昨日写真で見たような津波に家を流されてしまったり、家族や友達を失ってしまったり。自分がそういう立場だったとして、みんなはどんな言葉を受け取ったらうれしいかな。力をもらえるかな」  子どもたちが口にする言葉が、少しずつ変わってきた。  「Always remember you’re not forgotten.(あなたは忘れられてなんかいないということを忘れないでね)」  「there is always hope.(いつだって希望はあるよ)」  「You are not alone even though you think you are.(自分はひとりぼっちだと思っているかもしれないけど、そんなことはないからね)」  彼らがどんな境遇で育ってきたかを知らされている僕らには、涙なくしてこれらの言葉を聞くのが難しかった。その通り、その通りだよ――。彼らが口にする言葉は、まさに僕らが彼ら自身に伝えたい言葉でもあった。  たくさんの言葉が出揃った。西郷と僕、そしてギタリストのヨシロウは「15分ほど時間が欲しい」と言って庭に出ると、そこで曲作りを始めた。どの言葉をチョイスするか。どんなメロディをつけるか。それは難しくも、楽しい作業だった。  そして、ついに完成した。子どもたちが短時間でも覚えられるよう、ほんの短い曲にしたが、それはとても素敵なメッセージの詰まった、美しい曲だった。 ――西郷、この曲のタイトル、何か考えてる?  「ああ、タイトルか。何かいいのありますかね」 ――最初にここに来たとき、「太陽がいっぱいに降り注ぐ場所だね」と話してたの覚えてる? 彼らの人生にも、そして東北の子どもたちの未来にも、太陽なたくさん降り注ぐように。『太陽が降り注ぐ場所』というのはどうかな」  「ああ、いい。すごくいいですね」  こうして、タイトルは『Where the sun can shine(太陽が降り注ぐ場所)』に決まった。子どもたちを芝生の上に集めて、いま完成したばかりの曲を披露する。そのときの子どもたちの表情と言ったら、もう――。「これは、僕たちみんなでつくったオリジナルソングだからね」と西郷が言うと、子どもたちはうれしそうに何度もうなずいた。  何度か練習したのちに、僕らは録音することにした。世界中には素晴しいミュージシャンが無数に存在するけれど、しかし、ヨハネスブルグの「太陽が降り注ぐ場所」には、彼らに負けないくらい素敵な歌声を響かせてくれるミュージシャンがたしかにいた。 『Where the sun can shine(太陽が降り注ぐ場所)』              作曲:染谷西郷  作詞:「village safe haven」の子どもたち We will always be different but we are all a family. (私たちにはいろいろな違いがあるけど、私たちは家族) You are not alone even though you think you are. (自分はひとりぼっちだと思っているかもしれないけど、そんなことはないからね) Love never fails. (愛は決して裏切ったりしない) You’ve got to be happy. (幸せにならなくちゃね) Oh be happy. (幸せになろう) Love never fails. You’ve got to be happy. Oh be happy. 太陽が降り注ぐ場所(動画)


「太陽が降り注ぐ場所」(中編)

 はじめて「village safe haven」を訪れた日、子どもたちの表情は明らかに強張っていた。無理もない。いきなり見知らぬ日本人が現れ、「一緒に遊んでくれ」と言い出したのだから。子どもたちの緊張をほぐそうと、FUNKISTのメンバーは早速ギターを片手に歌いはじめた。いつもなら、すぐに観客の心を解きほぐす力を持つ彼らの音楽も、しかし、この日ばかりは苦戦していた。子どもたちは手拍子で参加する意志を示してくれていたが、その表情には依然として警戒の色がにじんでいた。  ひとりの女の子が黄色いゴムボールを抱えていた。「こっちへちょうだい」とジェスチャーで伝えると、彼女は恐る恐るボールを渡してくれた。僕はそのボールを短い腕とほっぺたの間にはさむと、体全体をひねるようにして放り投げた。子どもたちの間から、どよめきが起こる。ゆるやかな曲線を描いたボールがその女の子の手元におさまると、今度は歓声があがった。  時とともに、少しずつ彼らの表情がほぐれていった。サッカーをした。日本語を教えた。ギターの弾き方を教えた。カメラを渡して、自由に写真を撮ってもらった。いつのまにか、彼らの顔からは警戒心が消え、子どもらしい、無邪気な笑顔を見せてくれるようになった。体をぴったりと寄せ、甘えるような仕草を見せる子もいた。  みんなの夢を聞いた。「サッカー選手になりたい」「歌手になりたい」――様々な夢を語ってくれた。ほとんどの子がうつむき、はにかみながら語ってくれた夢だったが、そこにいたすべての子どもが夢を抱いていた。まだ出会ったばかりの僕らだったけれど、その夢が実現するよう、心から応援したいと思った。  翌日、僕らは彼らへのプレゼントを携えて再訪した。FUNKISTからはドラムセットやキーボード、ギターといった楽器を、僕からはサッカーボールやミニゴールなどのスポーツ用品を。彼らは目を輝かせて、そのプレゼントを受け取ってくれた。中学生の男の子たちは、早速、ドラムセットを組み立て、軽快なリズムを響かせていた。女の子たちには、キーボードが人気だった。小学生の男の子たちは、サッカー。まだ学校に通う年齢ではない小さな子どもたちは、プラスチックのバットとゴムボールで野球に興じていた。   昼食後、僕らは全員で集まることのできるコンピュータールームへと移動した。子どもたちの前で、僕がスピーチをすることになったのだ。日本ではそうした機会もよくあるが、外国の子どもたちの前でスピーチをすることなどめったにない。いったい、どんな話をしたらいいのだろう――。あれこれ考えをめぐらせてみたが、やはり伝えたいことは日本にいるときと同じだった。  まずは、僕の体のことを話した。次に、僕がどんなふうに育ってきたかを話した。毎日が幸せであること、だから手と足がないという境遇に生まれたことを何ら苦に思っていないことを話した。彼らの境遇もまた、大きなハンデを背負わされていると言える。でも、それが決して不幸だとはかぎらない。幸福な人生とするか、不幸な人生とするかは、あくまで自分自身が決めるのだと伝えたかった。  最後に、僕がいちばん好きな詩を彼らに贈ることにした。金子みすず「私と小鳥と鈴と」。人はそれぞれ違っていて、当然なのだ――。そんなメッセージを伝えてくれる、とても素敵な詩だ。僕はそんなに英語が得意ではない。でも、この詩だけは誰かに頼ることなく、自分の言葉で伝えたいと思い、自分なりに英訳してみることにした。 「Little bird, Bell, and I」  題名から丁寧に、心をこめて訳していった。拙い英語だが、子どもたちも真剣な表情で聞き入ってくれている。詩は、いよいよ最後の一行に差しかかった。「みんなちがって、みんないい」――金子みすずが、そして僕が最も伝えたかった一文だ。 「Everyone is different and everything is OK.」  うーん、どうもしっくり来ない。僕は考えに考えた末、こう訳すことにした。 「We are beautiful because we are different.」  僕らは、一人ひとり違っているから美しいのだ。人種、言語、宗教、文化、性別、障害の有無――あらゆる違いが、誰かを苦しめるために存在する社会であっては決してならない。子どもたちから、力強い拍手が沸き起こる。彼らがこの詩のメッセージを受け止めてくれたことに、僕はひとまず安堵した。  子どもたちに見送られながら建物を出る。青い芝の庭には、初めて訪れた日と同じように太陽の光がいっぱい降り注いでいた。


「太陽が降り注ぐ場所」(前編)

 ヨハネスブルグにある養護施設「village safe haven」を訪れた。ここには、2歳~16歳まで計26人の子どもたちが住んでいる。彼らは、様々な事情から親と一緒に住むことができずにいるというが、いったいどんな事情があるのだろう。この団体の代表を務めるマイケルさんに話を聞くと、彼は壁にかかった一人ひとりの顔写真を指しながら教えてくれた。    「たとえばこの子は、売春婦だった母親にホテルに置き去りにされていたところをホテルのスタッフに発見されました。この子は、ゴミ捨て場に捨てられていた。この子は、生後すぐに母親が病死してしまい、義理の父親が出勤前にこの子を箱に入れて鍵をかけ、夕方五時に帰宅すると箱を開けるという生活を一ヶ月ほど続けていたところ、異変に気づいた近所の人に発見されました」  もう、やめてくれ――。思わず耳をふさぎたくなるような過酷な生い立ちが次々と語られる。親が暴力をふるう。アルコール中毒やドラッグ依存により、まともな生活ができない。彼らが育った環境はじつに過酷だが、しかし、それが彼らの現実だ。  「この子は、手続きをして私の養子にしたんです」  マイケルさんが、ひとりの少女の写真を指さした。 ――26人もいるなかで、どうしてこの子だけ?  「親がどうしても一緒に暮らしたいと引き取りに来たんです。不安な気持ちはありましたが、やはり親と暮らせるならそれがいちばんいいだろうと引き渡した。ところが、その後、消息をたどってみると、その子はフィリピンに売り飛ばされるところだったんです。それで、あわてて私の養子にして引き取ることにしました」  その後も、「子どもを引き取りたい」と親が迎えに来たケースはある。だが、マイケルさんは子どものことを考えるからこそ、引き渡すことはできないという。引き渡しても、また同じ悲劇が繰り返されることが目に見えているからだ。 ――でも、実の親が引き取りに来ているのに、引き渡さないということは難しいのでは?   「親が更生するための2年間のプログラムがあり、それを修了しないと引き渡さないというルールがあるんです。しかし、これまでそのプログラムを修了した親は、誰もいません。10年間でひとりも、ですよ。すべての親は途中で挫折し、またどこかへ姿を消してしまうんです」  また親と一緒に暮らせるようになるかもしれない――そんな期待を抱かされては、あえなく裏切られる。子どもたちの心情を思うと、こちらまで胸が苦しくなる。  10年前にご夫婦で始めた活動。当時は、6人の子どもがようやく暮らせるほどの小さな建物しかなかった。それが10年間で少しずつ建て増しを重ね、いまでは男の子の住居棟と女の子の住居棟、さらに数台のコンピューターを備えた宿題ルームと、テラス付きの食堂が完備されるまでになった。美しい芝生が生えそろった庭には、すべり台や雲梯などの遊具、長さ15mほどの立派なプールまである。来週には未就学児のための保育所がオープンし、外部からも子どもを受け入れるという。 ――太陽の光が降り注ぐ、とても素敵な場所ですね。   「ありがとうございます。ここは、彼らにとっての家ですからね。いわゆる“施設”にはしたくないんです」   広々とした敷地にすぐれた設備が整う。とても恵まれた環境と言えるが、しかし政府からの補助などはなく、マイケルさんが働いて得たお金と有志による寄付によって運営されている。数年前から友人夫婦が手伝ってくれるようになったが、それでも大人4人で26人もの子どもたちを育てていくのは容易なことではない。また、彼らを引き取るには煩雑な手続きが待ち受けており、毎回、膨大な書類と格闘しなくてはならない。   これほどの苦労を重ねながら、マイケルさんが10年間、その歩みを止めずにいられた原動力は何だったのか。   「それは“怒り”です。彼らの親を見ていると、親になる資格がなかったとしか言いようがない。もし私が政府の役人だったら、こういう人間には親になる資格を与えないようにしたいとさえ思っています。でも、私にそんな権限はないし、そうした怒りを子どもたちにぶつけても何も始まらない。だから、私自身のそうした感情は奥にしまって、つとめて冷静に、ただ子どもたちを育てていく。それだけです」  マイケルさんには、ひとつ懸念がある。18歳になったらここを出て、自立するきまりになっているのだが、彼らの将来が楽しみでもあり、不安でもあるという。   「ここを出ても、彼らには行くところがないんです。だから、いつでも帰ってこれる環境をつくりたい。じつは、ここから少し行ったところに土地を買ってあるんです。そこに18歳以上の子どもたちが暮らせる家をつくろうと思って。場合によっては、その新しい家から仕事に出かけたり、大学に通ったり。やっぱり、彼らは家族ですからね」  気づけば、ずいぶん長い間、マイケルさんを独占してしまっていた。ついにしびれを切らした10歳くらいの男の子が、青々とした芝生の庭から大きな声でマイケルさんを呼んでいる。   「ダディ(お父さん)、早くおいでよ!」


「グランパのいたずら」

 南アフリカ第3の都市・ダーバンから車で2時間半。インド洋に面した小さな町ポート・エドワードにやってきた。ここには、僕を南アフリカに誘ってくれた染谷西郷のお祖母様が住んでいる。海と、空と、大地と――。豊かな自然に囲まれたこの町では、ずいぶんと時間がゆっくり流れているように感じられた。  今回は西郷だけでなく、日本に住んでいる西郷のお母様や、南アフリカの他の都市に住んでいる親族がこのポート・エドワードで一堂に会することになっている。昨年11月に亡くなったお祖父様の葬儀が執り行われるためだ。  日本を発つ直前、西郷から「よかったら乙武さんも葬儀に参加してください」と伝えられ、少しばかり困惑した。喪服など持っていくつもりはなかったし、何よりお祖父様に一度もお会いしたことがなかったのだ。  「だいじょうぶです。みんな普段着なので、喪服なんていりません。ただみんなで海辺に集まって、おじいちゃんの遺灰を海に撒くだけなんです。」  南アフリカの人々がすべてそのような葬られ方をするわけではない。だが、本人の意向でそのような見送られ方を希望する人も、決して少なくないという。「多くの人に見送ってもらえたほうが、おじいちゃんもよろこぶと思うから」という西郷の言葉に甘え、親族ではない僕もその場に立ち合わせていただくことになった。  夕方五時。つい一時間ほど前までは青空が広がっていたが、いまは鉛色の雲が空を覆っている。いつ降りだしてもおかしくない空模様だ。長男のデーブに支えられながら、砂浜に杖を突き刺しつつ、ゆっくり、ゆっくりと海岸を進んでいくお祖母様。僕らは黙って、そのあとに続いていく。  「このあたりにしましょう」  お祖母様は波打ち際まで20m付近のところで立ち止まると、三男のアランが用意したキャンプ用の折りたたみ椅子にゆっくりと腰を下ろした。彼女を囲むようにして、各々が砂浜に座りこむ。  「みんな、今日はグランパ(グランドファザー、お祖父様のこと)のために集まってくれてありがとう。彼は本当にやさしくて、紳士的で、ユーモアがあって――素敵な人でした」  お祖母様のあいさつが終わると、参加者みんなで、しばらくお祖父様の思い出話に花を咲かせた。誰もが「彼のジョークにいつも笑わされた」と、なつかしそうに振り返っていた。西郷がSkypeで最後に話したときにも、彼はジョークを言っておどけていたそうだ。  話が途切れた頃、西郷がギターを手に取った。波音に混じって、弦を弾く音が聞こえてくる。  「三月の終わり 季節はまためぐり――」  もう十年以上も前に、西郷が大切な人を亡くしたときにつくった『光』という曲だ。だが、その声にいつものような張りはない。くぐもるような歌声に違和感を覚えた僕は、そっと西郷のほうを振り返った。その頬は、涙で濡れていた。空からはぽつり、ぽつりと雨粒が落ちはじめ、砂浜に黒いしみをつくりだしていた。  西郷の演奏が終わると、西郷のお母様と三人の弟たちが遺灰の入った木箱を手にして、海のほうへと歩んでいった。お祖母様は折りたたみ椅子に体をうずめたまま、じっとその様子を見守っている。 波打ち際までやってきた四人だったが、膝元まである海水パンツを履いていたデーブとアランのふたりは、木箱を持ってさらに進んでいく。あっという間に膝まで浸かる位置までやってきた。そのときだった。  ザバーン――。  突然、白いしぶきを上げる波がふたりに押し寄せた。体格の良いアランは何とか持ちこたえたものの、デーブはこらえきれず、思わずもんどりうった。そこに次の波が襲いかかる。デーブはついに仰向けにひっくり返り、全身に波をかぶってしまった。自分を仰向けに押し倒した波が引いていくと、デーブは上半身だけを起こして、「OH, NO」とばかりに両手を広げてみせた。   お祖父様譲りのユニークさで冗談ばかり言っている次男のギャリー、三男のアランと違い、ヨハネスブルグで教師を務める生真面目なデーブ。そんな彼が見せる滑稽な姿に、「くっ、くっ、くっ」と最初に笑い出したのは、お祖母様だった。それにつられて、みんなが「くっ、くっ、くっ」「あっはっはっ」と笑い出す。そのハプニングをすぐとなりで見ていたアランなどは、腹を抱えて笑い転げていた。  お祖母様は折りたたみ椅子からその様子を見ていたが、手にしていたお祖父様の遺影に向かって、こうつぶやいた。  「きっと、グランパの最後のいたずらね」


「南アフリカのHIV問題」

 マーゲイトというインド洋沿いの町にある「GENESIS CARE CENTER」を訪れた。ここは12年前にHIV患者のためのホスピスとして建てられた施設で、4年前からは癌や結核などの病気に苦しむ患者も受け入れている。入所者40名に対して、60名のスタッフで対応するという手厚い体制で看護に当たっている。  南アフリカでは、エイズが社会問題となっている。15歳から49歳までの5人に1人がHIVに感染しているという統計もあり、エイズによる死は年間35万人にも上ると言われている。これがタウンシップ(旧黒人居住区)となれば、さらに感染率ははねあがる。「HIVに感染していない恋人を探すのは難しい」と言われるほどで、実際にタウンシップに住む6割前後の人々がHIVに感染しているという。さらに貧困地域では、結核も猛威をふるっている。  抗レトロウィルス薬治療により、HIVは死に直結する病気ではなくなってきたと言われる。しかし、HIVは性交渉によって感染するケースが多いことから、人々はHIV感染をスティグマ(恥辱)であるととらえ、自身が感染者であることを公表しない人々も少なくない。そのために治療が遅れてしまうことも問題のひとつだ。  また、あえて治療を拒む人々もいる。感染者には障害者手当が支給されているが、治療によって免疫が上がれば、手当は打ち切られてしまう。そのため、貧困地域の感染者たちはあえて薬を飲まず、支給される障害者手当で細々と暮らしていくことを選ぶのだという。エイズ対策は、失業者対策とも密接に結びついていることが窺える。  この施設が開所した当時は、ほぼすべての入所者が亡くなっていたが、心身におけるケアの手法が確立したいまでは、53%の人々が家族やコミュニティのもとに戻れるようになったという。だが、職員たちは決してその数字に満足しているわけではない。  「それでも47%の人々は亡くなっている。ここで働きはじめたときには『(入所者の死に)そのうち慣れるわ』と言われたけど、もう何年も経ったいまも慣れることはありません」  先ほども書いたように、感染者にはタウンシップ(旧黒人居住区)で貧しい暮らしをしている人も少なくない。感染によって稼ぎ手を失った家庭は、ただでさえ苦しい生活がさらに苦しくなる。また治療の甲斐なく患者が死を迎えれば、それまで支給されていた手当も打ち切られてしまう。遺児に支給される手当はわずかであり、十分な支援がなされているとは言いがたい。祖父母や近所の人々の世話になりながら、何とか生き延びていくしかない。  「そうした環境で育つ子どもたちのなかには、非行や妊娠などでドロップアウトしてしまうケースも少なくありません。ですから、ここにいる入所者を救うというのは、彼らの家族を救うということにもなるのです」  HIV患者の看護をするにあたって最も困難なのは、じつは心のケアなのだという。彼らのほとんどは、みずからがHIV患者となったことに大きなショックを受け、自暴自棄になる。そうして傷つけられた尊厳をどのように回復するのかが、ケアにあたっての大きな課題なのだという。  ある日、32歳の女性が入所してきた。彼女はレイプによってHIVに感染。その経緯から彼女は自分の存在を恥じ、入所後もみずからの顔を隠すようにして誰とも目を合わせることをしなかった。カウンセリングをしても、「私は生きる価値のない人間です」と口にするばかりで、なかなかカウンセラーにも心を開こうとしなかったという。  入所から10日後、彼女は職員のすすめに従って、ビーズ細工の教室に参加した。彼女はビーズをひとつ通すごとに、不安そうな表情で「これでいいの?」と教師に向かって確認した。教師はそのたびに大きくうなずいて見せた。ビーズを通しては確認、通しては確認――その作業はじつに100回以上も続いたという。ついにネックレスが完成。教師はそのネックレスを手に取り、そっと彼女の前に差し出した。  「これは、あなたが作ったのよ」  「これを……私が……作った?」  「そう、あなたは価値のない人間なんかじゃない。こんなステキな作品を作ることができる素晴らしい人間なのよ」  彼女の目には涙があふれ、入所後、はじめて笑顔を見せてくれたという。その後、彼女は積極的に治療を受け、家族のもとに戻れるまでに回復した。だが、彼女を待ち受けているのは、自分をレイプ被害者とした劣悪な環境。それでも彼女は凛とした態度で家族とともにそのコミュニティでの生活を再開させた。決して大きな金額ではないが、ビーズ細工によって収入を得られるようにまでなったという。  FUNKISTのメンバーととともに、そのホスピスでミニLIVEを行わせていただいた。ベッドの上でリズムを取ったり、ときに涙をぬぐったりと、入所者のみなさんによろこんでいただくことができた。そのなかで、僕が作詞を担当した「1/6900000000」も歌った。この世に生きるすべての人に価値があり、その一人ひとりでこの世界は成り立っているのだというメッセージを込めた曲だ。  みなさんの前でこの曲に込めた思いを説明すると、それまでずっと案内をしてくれていた女性職員が深くうなずいてくれた。  「私たちが彼らに伝えたいのは、まさにそのことなのよ」  この施設の名称にもなっている「GENESIS」とは、旧約聖書における「創世記」のことを指す。その語源となっているギリシャ語の「ゲネシス」には、「誕生、創生、開始、始まり、根源」という意味がある。この施設が多くの人々にとって終焉の地でなく、新たな人生が始まる場所として機能することを願ってやまない。


「ネルソン・マンデラが目指した“虹の国”」

 前回のブログにも書いたとおり、ケープタウンでは様々な場所を訪れることができたが、唯一の心残りがある。それは、ロベン島に行けなかったことだ。ロベン島とは、多くの観光客でにぎわうウォーターフロントから約14kmの沖合にある島で、かつては政治犯などを収容する黒人専用の刑務所が存在していたという。約30年間で3000人近くもの政治犯を収容していた刑務所は1996年に閉鎖され、現在は島全体が博物館として観光名所となっている。1999年には、世界文化遺産にも登録されたという。  僕がこのロベン島を訪れたかったのは、なにも世界遺産だからというわけではない。のちに大統領となる故ネルソン・マンデラ氏も、このロベン島に収容されていたというのだ。若くして反アパルトヘイト運動の指導者として活動してきたマンデラ氏は、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。その後、27年間にも及ぶ獄中生活を送ることになるのだが、その大半をこのロベン島で過ごしたという。マンデラ氏がどのような場所で時を過ごし、どのような思索に耽っていたのか。少しでも肌で感じたいとの思いからロベン島に渡ろうとしたが、先月のマンデラ氏逝去により訪問客が激増。来週まで予約でいっぱいだと断られてしまった。  1990年に釈放されたマンデラ氏は、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。オランダ系白人である当時のデクラーク大統領とともにアパルトヘイト撤廃に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した。さらに1994年、南アフリカで初めて全人種に選挙権が与えられた選挙において、黒人初の大統領に就任。27年間もの獄中生活を送っていた人物が、晴れて国内の最高指導者として選出されたのである。  黒人大統領が誕生したことで、南アフリカじゅうの白人たちは恐怖におののいた。これまで抑圧の対象だった黒人の側に権力が移行したのだ。今度は自分たちが同じ目に遭わされるに決まっている――。それは大統領官邸で働く白人スタッフにとっても同じことで、彼らはマンデラ氏就任と同時にクビを切られることを覚悟し、早々に荷物をまとめていた。だが、そんな彼らに向かって、マンデラ氏はこう伝えたのだという。  「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカをつくるために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」  このエピソードからもわかるように、彼は白人に報復することを選ばなかった。あくまで「憎悪より融和」「報復より許容」を掲げ、民族の和解と協調を呼びかけた。プレトリアで行われた大統領就任演説では、こんな言葉を残している。  「黒人や白人やすべての南アフリカ人が、いかなる恐怖心も抱かずに胸を張って歩くことができ、人間の尊厳が保証された社会を建設することを約束する。この国は、(多人種で構成された)“虹の国”だ」  黒人運動の指導者だった時代は、あくまで武力によって問題を解決しようと考えていた。だが、長年に渡る獄中生活でその過ちに気づいたマンデラ氏は、自分たちを支配してきた白人を許し、彼らと協調を図ることで新しい時代を築いていくべきだと考えを改める。獄中で自分たちの支配者の言語であるアフリカーンス語を学びはじめたのも、彼らと直接対話することで新時代の幕開けを図ろうとしたのだろう。  偉大なる足跡を残して昨年12月にこの世を去ったネルソン・マンデラ氏。しかし、彼の目指した“虹の国”が理想通りに実現したとは言いがたい。アパルトヘイト撤廃から20年が経ったものの、いまだ経済的に恵まれず、貧困にあえぐ黒人も少なくない。そうした黒人たちの苛立ちを反映するように、社会には白人を糾弾するメッセージが目立ちはじめ、黒人至上主義を掲げる政治家に人気が集まる傾向にあるという。  マンデラ氏が掲げた融和と許容の精神は、このまま過去のものとなってしまうのだろうか――。複雑な思いを抱きながらホテルへと戻るバスに揺られていると、山の向こうに大きな虹が架かっているのが見えた。  「“虹の国”は、過去のものとなったわけではない。まだ実現に向けた道中にあるのだ」  虹の向こうから、マンデラ氏がやさしく語りかけてくれているような気がした。


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