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「太陽が降り注ぐ場所」(中編)

 はじめて「village safe haven」を訪れた日、子どもたちの表情は明らかに強張っていた。無理もない。いきなり見知らぬ日本人が現れ、「一緒に遊んでくれ」と言い出したのだから。子どもたちの緊張をほぐそうと、FUNKISTのメンバーは早速ギターを片手に歌いはじめた。いつもなら、すぐに観客の心を解きほぐす力を持つ彼らの音楽も、しかし、この日ばかりは苦戦していた。子どもたちは手拍子で参加する意志を示してくれていたが、その表情には依然として警戒の色がにじんでいた。  ひとりの女の子が黄色いゴムボールを抱えていた。「こっちへちょうだい」とジェスチャーで伝えると、彼女は恐る恐るボールを渡してくれた。僕はそのボールを短い腕とほっぺたの間にはさむと、体全体をひねるようにして放り投げた。子どもたちの間から、どよめきが起こる。ゆるやかな曲線を描いたボールがその女の子の手元におさまると、今度は歓声があがった。  時とともに、少しずつ彼らの表情がほぐれていった。サッカーをした。日本語を教えた。ギターの弾き方を教えた。カメラを渡して、自由に写真を撮ってもらった。いつのまにか、彼らの顔からは警戒心が消え、子どもらしい、無邪気な笑顔を見せてくれるようになった。体をぴったりと寄せ、甘えるような仕草を見せる子もいた。  みんなの夢を聞いた。「サッカー選手になりたい」「歌手になりたい」――様々な夢を語ってくれた。ほとんどの子がうつむき、はにかみながら語ってくれた夢だったが、そこにいたすべての子どもが夢を抱いていた。まだ出会ったばかりの僕らだったけれど、その夢が実現するよう、心から応援したいと思った。  翌日、僕らは彼らへのプレゼントを携えて再訪した。FUNKISTからはドラムセットやキーボード、ギターといった楽器を、僕からはサッカーボールやミニゴールなどのスポーツ用品を。彼らは目を輝かせて、そのプレゼントを受け取ってくれた。中学生の男の子たちは、早速、ドラムセットを組み立て、軽快なリズムを響かせていた。女の子たちには、キーボードが人気だった。小学生の男の子たちは、サッカー。まだ学校に通う年齢ではない小さな子どもたちは、プラスチックのバットとゴムボールで野球に興じていた。   昼食後、僕らは全員で集まることのできるコンピュータールームへと移動した。子どもたちの前で、僕がスピーチをすることになったのだ。日本ではそうした機会もよくあるが、外国の子どもたちの前でスピーチをすることなどめったにない。いったい、どんな話をしたらいいのだろう――。あれこれ考えをめぐらせてみたが、やはり伝えたいことは日本にいるときと同じだった。  まずは、僕の体のことを話した。次に、僕がどんなふうに育ってきたかを話した。毎日が幸せであること、だから手と足がないという境遇に生まれたことを何ら苦に思っていないことを話した。彼らの境遇もまた、大きなハンデを背負わされていると言える。でも、それが決して不幸だとはかぎらない。幸福な人生とするか、不幸な人生とするかは、あくまで自分自身が決めるのだと伝えたかった。  最後に、僕がいちばん好きな詩を彼らに贈ることにした。金子みすず「私と小鳥と鈴と」。人はそれぞれ違っていて、当然なのだ――。そんなメッセージを伝えてくれる、とても素敵な詩だ。僕はそんなに英語が得意ではない。でも、この詩だけは誰かに頼ることなく、自分の言葉で伝えたいと思い、自分なりに英訳してみることにした。 「Little bird, Bell, and I」  題名から丁寧に、心をこめて訳していった。拙い英語だが、子どもたちも真剣な表情で聞き入ってくれている。詩は、いよいよ最後の一行に差しかかった。「みんなちがって、みんないい」――金子みすずが、そして僕が最も伝えたかった一文だ。 「Everyone is different and everything is OK.」  うーん、どうもしっくり来ない。僕は考えに考えた末、こう訳すことにした。 「We are beautiful because we are different.」  僕らは、一人ひとり違っているから美しいのだ。人種、言語、宗教、文化、性別、障害の有無――あらゆる違いが、誰かを苦しめるために存在する社会であっては決してならない。子どもたちから、力強い拍手が沸き起こる。彼らがこの詩のメッセージを受け止めてくれたことに、僕はひとまず安堵した。  子どもたちに見送られながら建物を出る。青い芝の庭には、初めて訪れた日と同じように太陽の光がいっぱい降り注いでいた。


「太陽が降り注ぐ場所」(前編)

 ヨハネスブルグにある養護施設「village safe haven」を訪れた。ここには、2歳~16歳まで計26人の子どもたちが住んでいる。彼らは、様々な事情から親と一緒に住むことができずにいるというが、いったいどんな事情があるのだろう。この団体の代表を務めるマイケルさんに話を聞くと、彼は壁にかかった一人ひとりの顔写真を指しながら教えてくれた。    「たとえばこの子は、売春婦だった母親にホテルに置き去りにされていたところをホテルのスタッフに発見されました。この子は、ゴミ捨て場に捨てられていた。この子は、生後すぐに母親が病死してしまい、義理の父親が出勤前にこの子を箱に入れて鍵をかけ、夕方五時に帰宅すると箱を開けるという生活を一ヶ月ほど続けていたところ、異変に気づいた近所の人に発見されました」  もう、やめてくれ――。思わず耳をふさぎたくなるような過酷な生い立ちが次々と語られる。親が暴力をふるう。アルコール中毒やドラッグ依存により、まともな生活ができない。彼らが育った環境はじつに過酷だが、しかし、それが彼らの現実だ。  「この子は、手続きをして私の養子にしたんです」  マイケルさんが、ひとりの少女の写真を指さした。 ――26人もいるなかで、どうしてこの子だけ?  「親がどうしても一緒に暮らしたいと引き取りに来たんです。不安な気持ちはありましたが、やはり親と暮らせるならそれがいちばんいいだろうと引き渡した。ところが、その後、消息をたどってみると、その子はフィリピンに売り飛ばされるところだったんです。それで、あわてて私の養子にして引き取ることにしました」  その後も、「子どもを引き取りたい」と親が迎えに来たケースはある。だが、マイケルさんは子どものことを考えるからこそ、引き渡すことはできないという。引き渡しても、また同じ悲劇が繰り返されることが目に見えているからだ。 ――でも、実の親が引き取りに来ているのに、引き渡さないということは難しいのでは?   「親が更生するための2年間のプログラムがあり、それを修了しないと引き渡さないというルールがあるんです。しかし、これまでそのプログラムを修了した親は、誰もいません。10年間でひとりも、ですよ。すべての親は途中で挫折し、またどこかへ姿を消してしまうんです」  また親と一緒に暮らせるようになるかもしれない――そんな期待を抱かされては、あえなく裏切られる。子どもたちの心情を思うと、こちらまで胸が苦しくなる。  10年前にご夫婦で始めた活動。当時は、6人の子どもがようやく暮らせるほどの小さな建物しかなかった。それが10年間で少しずつ建て増しを重ね、いまでは男の子の住居棟と女の子の住居棟、さらに数台のコンピューターを備えた宿題ルームと、テラス付きの食堂が完備されるまでになった。美しい芝生が生えそろった庭には、すべり台や雲梯などの遊具、長さ15mほどの立派なプールまである。来週には未就学児のための保育所がオープンし、外部からも子どもを受け入れるという。 ――太陽の光が降り注ぐ、とても素敵な場所ですね。   「ありがとうございます。ここは、彼らにとっての家ですからね。いわゆる“施設”にはしたくないんです」   広々とした敷地にすぐれた設備が整う。とても恵まれた環境と言えるが、しかし政府からの補助などはなく、マイケルさんが働いて得たお金と有志による寄付によって運営されている。数年前から友人夫婦が手伝ってくれるようになったが、それでも大人4人で26人もの子どもたちを育てていくのは容易なことではない。また、彼らを引き取るには煩雑な手続きが待ち受けており、毎回、膨大な書類と格闘しなくてはならない。   これほどの苦労を重ねながら、マイケルさんが10年間、その歩みを止めずにいられた原動力は何だったのか。   「それは“怒り”です。彼らの親を見ていると、親になる資格がなかったとしか言いようがない。もし私が政府の役人だったら、こういう人間には親になる資格を与えないようにしたいとさえ思っています。でも、私にそんな権限はないし、そうした怒りを子どもたちにぶつけても何も始まらない。だから、私自身のそうした感情は奥にしまって、つとめて冷静に、ただ子どもたちを育てていく。それだけです」  マイケルさんには、ひとつ懸念がある。18歳になったらここを出て、自立するきまりになっているのだが、彼らの将来が楽しみでもあり、不安でもあるという。   「ここを出ても、彼らには行くところがないんです。だから、いつでも帰ってこれる環境をつくりたい。じつは、ここから少し行ったところに土地を買ってあるんです。そこに18歳以上の子どもたちが暮らせる家をつくろうと思って。場合によっては、その新しい家から仕事に出かけたり、大学に通ったり。やっぱり、彼らは家族ですからね」  気づけば、ずいぶん長い間、マイケルさんを独占してしまっていた。ついにしびれを切らした10歳くらいの男の子が、青々とした芝生の庭から大きな声でマイケルさんを呼んでいる。   「ダディ(お父さん)、早くおいでよ!」


「グランパのいたずら」

 南アフリカ第3の都市・ダーバンから車で2時間半。インド洋に面した小さな町ポート・エドワードにやってきた。ここには、僕を南アフリカに誘ってくれた染谷西郷のお祖母様が住んでいる。海と、空と、大地と――。豊かな自然に囲まれたこの町では、ずいぶんと時間がゆっくり流れているように感じられた。  今回は西郷だけでなく、日本に住んでいる西郷のお母様や、南アフリカの他の都市に住んでいる親族がこのポート・エドワードで一堂に会することになっている。昨年11月に亡くなったお祖父様の葬儀が執り行われるためだ。  日本を発つ直前、西郷から「よかったら乙武さんも葬儀に参加してください」と伝えられ、少しばかり困惑した。喪服など持っていくつもりはなかったし、何よりお祖父様に一度もお会いしたことがなかったのだ。  「だいじょうぶです。みんな普段着なので、喪服なんていりません。ただみんなで海辺に集まって、おじいちゃんの遺灰を海に撒くだけなんです。」  南アフリカの人々がすべてそのような葬られ方をするわけではない。だが、本人の意向でそのような見送られ方を希望する人も、決して少なくないという。「多くの人に見送ってもらえたほうが、おじいちゃんもよろこぶと思うから」という西郷の言葉に甘え、親族ではない僕もその場に立ち合わせていただくことになった。  夕方五時。つい一時間ほど前までは青空が広がっていたが、いまは鉛色の雲が空を覆っている。いつ降りだしてもおかしくない空模様だ。長男のデーブに支えられながら、砂浜に杖を突き刺しつつ、ゆっくり、ゆっくりと海岸を進んでいくお祖母様。僕らは黙って、そのあとに続いていく。  「このあたりにしましょう」  お祖母様は波打ち際まで20m付近のところで立ち止まると、三男のアランが用意したキャンプ用の折りたたみ椅子にゆっくりと腰を下ろした。彼女を囲むようにして、各々が砂浜に座りこむ。  「みんな、今日はグランパ(グランドファザー、お祖父様のこと)のために集まってくれてありがとう。彼は本当にやさしくて、紳士的で、ユーモアがあって――素敵な人でした」  お祖母様のあいさつが終わると、参加者みんなで、しばらくお祖父様の思い出話に花を咲かせた。誰もが「彼のジョークにいつも笑わされた」と、なつかしそうに振り返っていた。西郷がSkypeで最後に話したときにも、彼はジョークを言っておどけていたそうだ。  話が途切れた頃、西郷がギターを手に取った。波音に混じって、弦を弾く音が聞こえてくる。  「三月の終わり 季節はまためぐり――」  もう十年以上も前に、西郷が大切な人を亡くしたときにつくった『光』という曲だ。だが、その声にいつものような張りはない。くぐもるような歌声に違和感を覚えた僕は、そっと西郷のほうを振り返った。その頬は、涙で濡れていた。空からはぽつり、ぽつりと雨粒が落ちはじめ、砂浜に黒いしみをつくりだしていた。  西郷の演奏が終わると、西郷のお母様と三人の弟たちが遺灰の入った木箱を手にして、海のほうへと歩んでいった。お祖母様は折りたたみ椅子に体をうずめたまま、じっとその様子を見守っている。 波打ち際までやってきた四人だったが、膝元まである海水パンツを履いていたデーブとアランのふたりは、木箱を持ってさらに進んでいく。あっという間に膝まで浸かる位置までやってきた。そのときだった。  ザバーン――。  突然、白いしぶきを上げる波がふたりに押し寄せた。体格の良いアランは何とか持ちこたえたものの、デーブはこらえきれず、思わずもんどりうった。そこに次の波が襲いかかる。デーブはついに仰向けにひっくり返り、全身に波をかぶってしまった。自分を仰向けに押し倒した波が引いていくと、デーブは上半身だけを起こして、「OH, NO」とばかりに両手を広げてみせた。   お祖父様譲りのユニークさで冗談ばかり言っている次男のギャリー、三男のアランと違い、ヨハネスブルグで教師を務める生真面目なデーブ。そんな彼が見せる滑稽な姿に、「くっ、くっ、くっ」と最初に笑い出したのは、お祖母様だった。それにつられて、みんなが「くっ、くっ、くっ」「あっはっはっ」と笑い出す。そのハプニングをすぐとなりで見ていたアランなどは、腹を抱えて笑い転げていた。  お祖母様は折りたたみ椅子からその様子を見ていたが、手にしていたお祖父様の遺影に向かって、こうつぶやいた。  「きっと、グランパの最後のいたずらね」


「南アフリカのHIV問題」

 マーゲイトというインド洋沿いの町にある「GENESIS CARE CENTER」を訪れた。ここは12年前にHIV患者のためのホスピスとして建てられた施設で、4年前からは癌や結核などの病気に苦しむ患者も受け入れている。入所者40名に対して、60名のスタッフで対応するという手厚い体制で看護に当たっている。  南アフリカでは、エイズが社会問題となっている。15歳から49歳までの5人に1人がHIVに感染しているという統計もあり、エイズによる死は年間35万人にも上ると言われている。これがタウンシップ(旧黒人居住区)となれば、さらに感染率ははねあがる。「HIVに感染していない恋人を探すのは難しい」と言われるほどで、実際にタウンシップに住む6割前後の人々がHIVに感染しているという。さらに貧困地域では、結核も猛威をふるっている。  抗レトロウィルス薬治療により、HIVは死に直結する病気ではなくなってきたと言われる。しかし、HIVは性交渉によって感染するケースが多いことから、人々はHIV感染をスティグマ(恥辱)であるととらえ、自身が感染者であることを公表しない人々も少なくない。そのために治療が遅れてしまうことも問題のひとつだ。  また、あえて治療を拒む人々もいる。感染者には障害者手当が支給されているが、治療によって免疫が上がれば、手当は打ち切られてしまう。そのため、貧困地域の感染者たちはあえて薬を飲まず、支給される障害者手当で細々と暮らしていくことを選ぶのだという。エイズ対策は、失業者対策とも密接に結びついていることが窺える。  この施設が開所した当時は、ほぼすべての入所者が亡くなっていたが、心身におけるケアの手法が確立したいまでは、53%の人々が家族やコミュニティのもとに戻れるようになったという。だが、職員たちは決してその数字に満足しているわけではない。  「それでも47%の人々は亡くなっている。ここで働きはじめたときには『(入所者の死に)そのうち慣れるわ』と言われたけど、もう何年も経ったいまも慣れることはありません」  先ほども書いたように、感染者にはタウンシップ(旧黒人居住区)で貧しい暮らしをしている人も少なくない。感染によって稼ぎ手を失った家庭は、ただでさえ苦しい生活がさらに苦しくなる。また治療の甲斐なく患者が死を迎えれば、それまで支給されていた手当も打ち切られてしまう。遺児に支給される手当はわずかであり、十分な支援がなされているとは言いがたい。祖父母や近所の人々の世話になりながら、何とか生き延びていくしかない。  「そうした環境で育つ子どもたちのなかには、非行や妊娠などでドロップアウトしてしまうケースも少なくありません。ですから、ここにいる入所者を救うというのは、彼らの家族を救うということにもなるのです」  HIV患者の看護をするにあたって最も困難なのは、じつは心のケアなのだという。彼らのほとんどは、みずからがHIV患者となったことに大きなショックを受け、自暴自棄になる。そうして傷つけられた尊厳をどのように回復するのかが、ケアにあたっての大きな課題なのだという。  ある日、32歳の女性が入所してきた。彼女はレイプによってHIVに感染。その経緯から彼女は自分の存在を恥じ、入所後もみずからの顔を隠すようにして誰とも目を合わせることをしなかった。カウンセリングをしても、「私は生きる価値のない人間です」と口にするばかりで、なかなかカウンセラーにも心を開こうとしなかったという。  入所から10日後、彼女は職員のすすめに従って、ビーズ細工の教室に参加した。彼女はビーズをひとつ通すごとに、不安そうな表情で「これでいいの?」と教師に向かって確認した。教師はそのたびに大きくうなずいて見せた。ビーズを通しては確認、通しては確認――その作業はじつに100回以上も続いたという。ついにネックレスが完成。教師はそのネックレスを手に取り、そっと彼女の前に差し出した。  「これは、あなたが作ったのよ」  「これを……私が……作った?」  「そう、あなたは価値のない人間なんかじゃない。こんなステキな作品を作ることができる素晴らしい人間なのよ」  彼女の目には涙があふれ、入所後、はじめて笑顔を見せてくれたという。その後、彼女は積極的に治療を受け、家族のもとに戻れるまでに回復した。だが、彼女を待ち受けているのは、自分をレイプ被害者とした劣悪な環境。それでも彼女は凛とした態度で家族とともにそのコミュニティでの生活を再開させた。決して大きな金額ではないが、ビーズ細工によって収入を得られるようにまでなったという。  FUNKISTのメンバーととともに、そのホスピスでミニLIVEを行わせていただいた。ベッドの上でリズムを取ったり、ときに涙をぬぐったりと、入所者のみなさんによろこんでいただくことができた。そのなかで、僕が作詞を担当した「1/6900000000」も歌った。この世に生きるすべての人に価値があり、その一人ひとりでこの世界は成り立っているのだというメッセージを込めた曲だ。  みなさんの前でこの曲に込めた思いを説明すると、それまでずっと案内をしてくれていた女性職員が深くうなずいてくれた。  「私たちが彼らに伝えたいのは、まさにそのことなのよ」  この施設の名称にもなっている「GENESIS」とは、旧約聖書における「創世記」のことを指す。その語源となっているギリシャ語の「ゲネシス」には、「誕生、創生、開始、始まり、根源」という意味がある。この施設が多くの人々にとって終焉の地でなく、新たな人生が始まる場所として機能することを願ってやまない。


「ネルソン・マンデラが目指した“虹の国”」

 前回のブログにも書いたとおり、ケープタウンでは様々な場所を訪れることができたが、唯一の心残りがある。それは、ロベン島に行けなかったことだ。ロベン島とは、多くの観光客でにぎわうウォーターフロントから約14kmの沖合にある島で、かつては政治犯などを収容する黒人専用の刑務所が存在していたという。約30年間で3000人近くもの政治犯を収容していた刑務所は1996年に閉鎖され、現在は島全体が博物館として観光名所となっている。1999年には、世界文化遺産にも登録されたという。  僕がこのロベン島を訪れたかったのは、なにも世界遺産だからというわけではない。のちに大統領となる故ネルソン・マンデラ氏も、このロベン島に収容されていたというのだ。若くして反アパルトヘイト運動の指導者として活動してきたマンデラ氏は、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。その後、27年間にも及ぶ獄中生活を送ることになるのだが、その大半をこのロベン島で過ごしたという。マンデラ氏がどのような場所で時を過ごし、どのような思索に耽っていたのか。少しでも肌で感じたいとの思いからロベン島に渡ろうとしたが、先月のマンデラ氏逝去により訪問客が激増。来週まで予約でいっぱいだと断られてしまった。  1990年に釈放されたマンデラ氏は、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。オランダ系白人である当時のデクラーク大統領とともにアパルトヘイト撤廃に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した。さらに1994年、南アフリカで初めて全人種に選挙権が与えられた選挙において、黒人初の大統領に就任。27年間もの獄中生活を送っていた人物が、晴れて国内の最高指導者として選出されたのである。  黒人大統領が誕生したことで、南アフリカじゅうの白人たちは恐怖におののいた。これまで抑圧の対象だった黒人の側に権力が移行したのだ。今度は自分たちが同じ目に遭わされるに決まっている――。それは大統領官邸で働く白人スタッフにとっても同じことで、彼らはマンデラ氏就任と同時にクビを切られることを覚悟し、早々に荷物をまとめていた。だが、そんな彼らに向かって、マンデラ氏はこう伝えたのだという。  「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカをつくるために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」  このエピソードからもわかるように、彼は白人に報復することを選ばなかった。あくまで「憎悪より融和」「報復より許容」を掲げ、民族の和解と協調を呼びかけた。プレトリアで行われた大統領就任演説では、こんな言葉を残している。  「黒人や白人やすべての南アフリカ人が、いかなる恐怖心も抱かずに胸を張って歩くことができ、人間の尊厳が保証された社会を建設することを約束する。この国は、(多人種で構成された)“虹の国”だ」  黒人運動の指導者だった時代は、あくまで武力によって問題を解決しようと考えていた。だが、長年に渡る獄中生活でその過ちに気づいたマンデラ氏は、自分たちを支配してきた白人を許し、彼らと協調を図ることで新しい時代を築いていくべきだと考えを改める。獄中で自分たちの支配者の言語であるアフリカーンス語を学びはじめたのも、彼らと直接対話することで新時代の幕開けを図ろうとしたのだろう。  偉大なる足跡を残して昨年12月にこの世を去ったネルソン・マンデラ氏。しかし、彼の目指した“虹の国”が理想通りに実現したとは言いがたい。アパルトヘイト撤廃から20年が経ったものの、いまだ経済的に恵まれず、貧困にあえぐ黒人も少なくない。そうした黒人たちの苛立ちを反映するように、社会には白人を糾弾するメッセージが目立ちはじめ、黒人至上主義を掲げる政治家に人気が集まる傾向にあるという。  マンデラ氏が掲げた融和と許容の精神は、このまま過去のものとなってしまうのだろうか――。複雑な思いを抱きながらホテルへと戻るバスに揺られていると、山の向こうに大きな虹が架かっているのが見えた。  「“虹の国”は、過去のものとなったわけではない。まだ実現に向けた道中にあるのだ」  虹の向こうから、マンデラ氏がやさしく語りかけてくれているような気がした。


「南アフリカの持つ魅力」

 どんな国を旅しても、だいたい2~3日も歩き回れば、何となくその国の雰囲気や感覚というものが肌を通して伝わってくる。だが、ここ南アフリカでは、それが難しい。ケープタウンという都市をずいぶん見て回ったが、いまだ「この国のカタチ」というものがつかめずにいる。  たとえば、テーブルマウンテン。頂上がナイフで切ったように平らな形をしていることからこの名がついたダイナミックな山は、この町の象徴。ロープウェイで頂上まで登れば、ケープタウン市街地やテーブル湾を一望する絶景が楽しめる――はずだったが、この日は頂上一帯に雲がかかり、あたり一面真っ白。パンフレットにあった眺望を楽しむことはできなかったが、普段はなかなか経験することのできない「雲のなかにいる」感覚を味わうことができた。    ウォーターフロントは、旧港を再開発したエリア。水族館やショピングセンター、ホテルやレストランが並ぶ、ケープタウンを訪れた観光客なら誰もが訪れるスポットだ。治安が悪いと言われる南アフリカだが、このウォーターフロントは家族連れでも安心して散策することができる。明るい陽光を浴びながら、港を横目にそぞろ歩きを楽しみ、気に入ったレストランに立ち寄り美味しいシーフードに舌鼓を打っていると、まるでヨーロッパのリゾート地に来たかのような錯覚に陥る。   17世紀にオランダ領マレーから奴隷として連れて来られた人々の子孫が暮らすマレークォーターには、かわいらしいパステルカラーの家々が建ち並ぶ。なかには18世紀に建てられた古い家もあるそうだが、すべて明るい色調に塗り替えられているので、まったく古さを感じさせない。ピンクやスカイブルーなど色とりどりの邸宅が並ぶ通りを歩いていると、まるで絵本の世界に迷い込んだよう。だが、彼らの先祖がこの地に移り住むようになった経緯を考えると、複雑な気分にさせられる。     テーブルマウンテンの南側にあるタウンシップ(旧黒人居住区)。アパルトヘイト時代は人種によって居住区域を定められていたが、いまはどの人種でも自由に住む土地を決めることができる。とはいえ、仕事もなく、いまだに貧しい暮らしを強いられている黒人は多く、彼らは依然としてタウンシップに住み続けている。なかにはレンガ造りで電気・水道のある家もあるが、そのほとんどは集めてきた廃材を利用して建てた小さな家で、大雨が降れば家中が水浸しになってしまうという暮らし。何とか職を探そうとするがうまくいかず、アルコールやドラッグに溺れてしまう人も少なくない。     ケープタウンで訪れたこれらのスポットに共通項を見つけることは難しい。自然や歴史、景観や娯楽――様々な切り口からとらえようとも、これらをひとつの枠内におさめることはできそうにない。だが、見方を変えれば、それこそが南アフリカという国なのかもしれない。あまりに様々な、そしてときには相反するような要素を併せ持つこの国を、「南アフリカとは、こんな国である」とたったひと言で説明するには無理がある。だが、まったく異なる様々な要素がモザイク状に集まって成り立つ国なのだと理解すれば、これまで見てきたすべてのエリアがこの国を構成する重要なファクターなのだと合点がいく。  そんなことを考えていると、僕はごく身近に似たような都市があることに気がついた。僕の育った町・新宿だ。新宿西口には高層ビルが建ち並ぶビジネス街があり、東口には歌舞伎町という日本一の歓楽街もある。新宿二丁目にはLGBTの人々が集い、大久保界隈には韓国人をはじめとする多くの外国人が暮らしている。早稲田大学など多くの大学や専門学校が集まる高田馬場は学生街としてにぎわい、神楽坂には昔ながらの情緒ある店が多く残っている。  日本にも個性ある町はいくつも存在するが、これだけバラエティに富んだ要素が詰まった町は、新宿をおいてほかにないのではないだろうか。そして、僕の感じる都市の魅力とは、まさにこうしたところにあるのだと気づかされた。一面的ではなく、様々な要素によって構成される多文化共生の町。それだけに摩擦や衝突、格差や偏見というものも生まれやすいのかもしれないが、そうした違いを乗り越えてひとつになることに、僕は大きな魅力を感じるのだ。  明日はケープタウンを離れ、マーゲートという海辺の小さな町へと移動する。そこにはどんな魅力が詰まっているのか、期待に胸をふくらませている。


「カラードの主張」

成田空港を出発してから26時間。南アフリカで最も風光明媚な都市として知られるケープタウンに到着した。空港からホテルへと向かうシャトルバスのなかで、同乗したドイツ人夫婦から、「今日はカーニバルがあるから、街はずいぶんにぎやかになるようだ」と聞かされた。「どうりでホテルの料金がべらぼうに高かったわけだ」と苦笑しながらも、部屋に荷物を置くと、早速、外へと飛び出した。   シャトルバスの車窓から見えた、いちばんにぎやかなエリアへ。ケープタウン駅の南側に広がるグラン・パレードという広場には露天がずらりと並び、雑貨やみやげものを売っている。祭り特有の浮ついた空気に胸踊らせながら進んでいくと、やがて大通りに行き着く。左手には、刑務所から釈放されたばかりのネルソン・マンデラ元大統領がスピーチしたことで知られる、イタリア様式の美しい市役所が見える。   大通りの両側はフェンスが設けられ、カーニバルの始まりを今か今かと待ちかまえる人々でごった返していた。なかには折りたたみ式の椅子を持ち込んでフェンス際に陣取っている家族連れの姿もある。何とか人垣の少ないポイントを探し、車いすで進んでいく。首尾よく最前列を確保。フェンスにしっかりと捕まりながら、僕は視線を遠くにやった。ちょうど市役所の前で、やけにカラフルな一団が待機している。まもなく始まりそうだ。 このカーニバルは、「Minstrel Carnival(吟遊詩人フェスティバル)」と呼ばれるもので、毎年1月2日~4日にかけてケープタウンで開催されている。3日間で1万3000人を超すパフォーマーが登場し、彼らはこの日のために数ヶ月も前から準備に勤しむのだとか。この「Minstrel Carnival」は、子どもたちだけでなく、大人たちをも熱狂させる一大イベントなのだ。だが、このカーニバルが開催されるようになった経緯を知ると、少し見方が変わってくる。   17世紀以降、オランダ領マレーから多くの奴隷や流刑者がケープ植民地に送られてきた。彼らは主に白人の奴隷として扱われていたが、新年の休日として1月2日だけは休みを与えられていた。そこで、その日にマレー系移民の人々が集い、政治的な抗議をするという意味合いでパレードが行われるようになったのだという。これが、いまではケープタウンの風物詩にまでなった「Minstrel Carnival」の始まりだ。   20世紀に入ると、オランダ系白人の政権によるアパルトヘイト政策が開始された。アパルトヘイトというと、「白人が黒人を抑圧していた」というイメージが強いが、その表現は正確ではない。南アフリカには白人と黒人以外にも様々な人種が存在しており、彼らを明確に分類することで、住む場所や職業、婚姻の自由など、人間として生きる権利を著しく制限する政策――それがアパルトヘイトだったのだ。   マレー系移民の人々は、インド系移民や、黒人と白人の混血の人々と同じく「カラード」として分類された。わかりやすく言いかえるならば、白人でも黒人でもない「第三の存在」という分類だ。彼らもまた居住区が決められ、婚姻もカラード同士でなければならないとされた。やはり黒人同様、生きる権利を大きく制限されたのだ。こうした経緯から、かつてマレー系の人々が行っていたパレードは、カラード全体のお祭りへと発展していったのだという。   男性の声でアナウンスが流れると、沿道に集まった人々から歓声があがる。フェンスから身を乗り出すようにして周囲をうかがうと、先ほどまで待機していた一団がこちらに近づいてくる。楽団による華々しい音楽が、耳に心地いい。このカーニバルには80を超えるグループが参加しているというが、この一団は赤を基調とした衣装に身を包み、顔には派手なペインティング、手にはそれぞれ傘や楽器を持っている。 アパルトヘイトが撤廃されて20年。しかし、社会の状況が劇的に変わったとは言いがたい。法律上の差別や制限はなくなったが、いまだ住環境や職業などにおける格差は大きく、白人のように恵まれた生活を送っているわけではない。少なからず抑圧を感じながら生きているだろう彼らだが、しかし派手な衣装で着飾り、陽気に楽器を打ち鳴らすその姿は、生きているよろこびを爆発させ、自分たちの存在を誇らしげに主張しているかのようにも見えた。   このカーニバルを見ながら、僕は昨年5月に参加した「東京レインボープライド2013」のことを思い出していた。このパレードはLGBTへの理解を求める趣旨で行われたものだが、僕にもLGBTの友人がいることから参加させてもらった。青空のもと代々木公園を出発し、渋谷の繁華街を抜けて明治通りへ。カラフルな衣装や飾りつけをした一団のにぎやかなパレードに、沿道の人々も笑顔で手を振ってくれた。 そのとき、僕のとなりにいた女性参加者のひとりが、ポツリとつぶやいた。「大通りでこんなことができちゃうなんてねえ」――その言葉に、僕はハッとさせられた。普段は自身の境遇を隠したり、カミングアウトしていてもどこか肩身の狭い思いをしたり。そうして生きてきた人々が、いま渋谷の喧騒のなか、「主人公となって」歩んでいるのだ。彼女が感慨深げにつぶやいたその言葉に、彼らがかみしめている解放感や達成感というものを、わずかながら共有することができた。   そして、いま僕の目の前ではカラードと呼ばれる人々が主役となり、熱狂しながら大通りを闊歩している。笑顔、笑顔、笑顔――。彼らの底抜けに明るい表情と、思わず踊りだしたくなってしまうほど楽しげな音楽は、しかし、その裏側にある南アフリカという国の歴史が生み出した悲劇を思い起こさせた。南アフリカ到着から数時間、いきなり強烈な体験を味わった夜。これから10日間、まだまだ多くのことを考えさせられる旅となりそうだ。


「バナナトレイン」

染谷西郷と出会ったのは、9年前。マカオの地だった。FUNKISTというバンドでボーカルを務める彼は、異国のステージ上で激しいパフォーマンスを繰り広げ、熱のこもったメッセージを伝えていた。言葉が通じないはずの観客たちはそれでも熱狂し、となりの観客と肩を組んで踊り、彼の歌声に耳を傾けた。それまで会ったこともない、その存在すら知らなかった彼らのステージに圧倒された僕は、ライブ後すぐに物販コーナーに向かい、彼らのCDを買い求めた。 伝えたいメッセージに多くの共通項を持つ僕らは、すぐに意気投合。交流が始まった。はじめはメンバーが住むアパートで鍋パーティーをしたり、僕の趣味である落語を一緒に聴きに行ったりと、いわゆる友人としての付き合いだったが、やがて一緒に曲作りをしたり、被災地を訪れたりと活動をともにするようになった。彼との付き合いが長く、そして深くなっていくほど、彼の慈愛に満ちた人間性に魅了され、彼のファンになっていった。だから、南アフリカという国が、ずっと気になっていた。   西郷の父は、日本人。母は、イギリス系の南アフリカ人。彼らが出会った当時、南アフリカはアパルトヘイト政策下にあった。黒人に比べればまだ優遇されていたとはいえ、それでもアジア人との交際・結婚が許される環境ではなかった。彼らは意を決してスペインに移り住み、そして日本へと渡った。そこで生まれたのが西郷だった。日本だけでなく、「西にある故郷を忘れないように」というのが、彼の名の由来だ。   彼らの曲のなかには、南アフリカをモチーフにしたものが多い。『バナナトレイン』も、そのひとつだ。西郷は19歳で南アフリカを訪れたとき、祖母にすすめられるままに、「バナナトレイン」と呼ばれる列車に乗った。列車はバナナ畑を抜けていくと、やがて黒人たちが暮らす村に差しかかった。線路脇に群がる子どもたち。その衣服は汚れ、破れている。列車のなかの白人たちは、そのタイミングに合わせて車内販売されるお菓子を窓から投げる。黒人の子どもたちは、それをよろこんで拾い集める。その無邪気な子どもたちの姿に、白人たちはひとつ、またひとつとお菓子を投げていく――。   西郷のポケットには、キャンディが入っていた。だが、彼は周囲の白人たちがそうするように、それを窓から投げることが“正解”なのかわからずにいた。どうしたらいいか戸惑っていると、ふと線路脇に佇むひとりの黒人少女と目が合った。彼女は、幼い弟を抱えていた。西郷はポケットに手を入れた。だが、それを取り出し、窓の外に投げることへのためらいを最後まで拭いきることができなかった。そんな西郷に、少女はとびきりの笑顔を向ける。その笑顔に、西郷は涙を流すことしかできなかった。   そんな経験をもとに書かれたのが、『バナナトレイン』という曲だ。初めてこの曲を聞いたとき、僕は強い衝撃を受けた。他の乗客たちと同じく、線路脇の子どもたちに菓子を投げることが「善」なのか。その行為を「偽善である」と断罪し、何もしないことが「道徳的」なのか。これまで机の上で勉強してきた知識では、まるで太刀打ちすることのできない難問だった。「僕だったら、どうしただろう」――その問いが、しばらく頭のなかから離れなかった。   あれから9年。いまだ、僕のなかで答えは出ていない。だが、この難問に答えを出すための貴重な経験をようやく得ることができる。2014年1月、僕は初めて南アフリカ共和国に降り立った。ここで多くのものを目にし、多くの人と出会い、考える糧としたい。もちろん、たった10日間の経験だけでは、この問題に答えを出すことはできないかもしれない。それでもこの旅は、僕の人生を大いに豊かなものにしてくれると信じている。


『タカトシ最強論』

1月2日(木)23:40~24:35関西テレビ系にて、『タカトシ最強論』に出演します。 「不遇の天才アスリート」と題して、あのアスリートをプレゼンします。 是非、ご覧下さい!


親愛なる「おまえら」へ

 Twitter上では、不思議とアニメアイコンの若者たちから話しかけられることが多い。そのほとんどは、およそ面識のない相手に向けられたとは思えない口汚い言葉や、僕の身体的特徴をあげつらった発言であることが多い。だけど、なんとなくスルーできなくて、返信をすることも少なくない。  「あいつクソまじめにリプしてくるぞ」と面白がられたのか、昨夜は一時間に200~300近いリプライが寄せられた。そのほとんどが、アニメアイコンの若者たちだった。昨晩はどうしても仕上げなければいけない仕事があったのに、なぜか無視することができず、可能なかぎりリプライし続けていた。  初めのうちは僕のことをからかうようなコメントばかりだったのが、そのうち相談めいた内容のものが交じるようになってきた。「僕、いじめられてるんです」「学校で(ひとり)ぼっちで、いつも便所で昼飯食ってます」――どこまで本当かはわからないと思いつつも、僕はできるだけリプライを続けた。  一夜明けて、朝になると、彼らが続々とコメントをくれた。「おはよー」。僕も返した。「おはよー」。夕刻、仕事のために大阪へ向かう新幹線のなかで、僕はなぜだか彼らのことばかり考えていた。「今日は、みんなと昼食食べられたかな」「あいつ今日テストって言ってたけど、ちゃんとできたかな」「昨日の夕飯、あいつはコンビニのパンだけだったけど、今日はちゃんと食べられるのかな」  そう、不思議なことに、彼らとの間に奇妙な友情のようなものが芽生えていたのだ。いや、彼らは僕のことをからかっているだけだろうから、僕の一方的な片思いなのかもしれない。でも、息子を思う母のような、教え子を思う教師のような――とにかく、僕のなかでうまく説明のつかない感情が生まれていたのだ。  ただ、そうした僕の対応を見て、「あんな心ない言葉をぶつけてくる相手に、いちいち反応する必要はない」と顔をしかめる“良識ある”大人たちも少なくない。なかには、僕のことを心配してそう言ってくださる方もいる。だけど、僕はそうした良識ある方たちにこそ、どうしても伝えたいことがある。  彼らは「アニメアイコン」という生き物じゃない。一人ひとりに感情があり、悩みもある、血の通った若者たちなのだ。勉強ができる子もいれば、できない子もいる。家族とうまくいっている子もいれば、いってない子もいる。ただ、どの子も、「どのアイコンも」、それぞれに、必死に、生きているのだ。  僕が子どもの頃、『うちの子にかぎって…』というドラマがあった。田村正和扮する小学校教師が主人公で、クラスの子どもたちは様々な苦悩やトラブルを抱えているのだが、親は「うちの子はちゃんとしてる」と思い込み、向き合おうとすらしない。もう三十年近く前のドラマだが、現代にも共通するテーマであると思う。  彼らは、決して異世界に住んでいるわけじゃない。誰かの、いや、僕らのすごく身近なところに存在しているはずだ。「あんなやつら」と眉をしかめる大人たちは、それがもしかしたら自分の息子や娘かもしれない――という想像を、わずかながらでも抱いたことがあるだろうか。  子どもたちが仮面の奥でつぶやく言葉に耳を澄ませられる大人でありたい。注意深く耳を傾けていれば、「うるせえ、クソババア」という言葉が、「母ちゃん、助けて」と聞こえるかもしれない。「はい、頑張ります」という強がりも、「もうこれ以上、頑張れないよ」と聞こえるかもしれない。  おい、おまえら。正直、カチンと来ることもあるけど、オレ……けっしておまえらのこと嫌いじゃないからな。宿題やれよ。歯磨けよ。PCでエロ画像見たまま寝こけて、母ちゃんに見つかるなよ。明日もちゃんと学校行けよ。でも、どうしても行けない日があったら、またここに帰ってこいよ。


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