OTO ZONE

NEWS!

鈴木宗男氏への回答「政治家だからこそ、弱者への心配りを」

鈴木宗男様  3月20日付のムネオ日記を拝読いたしました。同時に、とても残念な気持ちになりました。政治家というのは、弱者に対して心を寄り添わせることが必要なのではなかったでしょうか。そして、私は貴殿に対してそれができる政治家であると信じてきました。 ◆ 母親は「なんの懸念も心配もせず」わが子を預けたのか。  乙武氏と駒崎氏に言いたい。「あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか」と。    お答えします。私自身は、見ず知らずの方に自分の子供は預けません。また、おそらくは多くの方もそうすることに抵抗を覚えるでしょう。しかし、私がこの問いに対してNOと答えられるのも、「夫婦ともに健在である」「近所に頼める間柄の知人がいる」「経済的に困窮しているわけではない」などの条件を幸運にもクリアしているからです。   ですが、世の中には様々な環境で生きておられる方々がいます。当然、「ひとり親で」「近所に知人などもおらず」「経済的に困窮している」方もいらっしゃるでしょう。もし私がそうした状況下だったら、それでも子どもを見ず知らずの方に預けることなく、日々を生き抜いていくことができるのか、正直、自信がありません。  また、貴殿は「あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか」と問われていますが、事件の被害者となった母親は「なんの懸念も心配もせず」わが子を預けたとお考えなのでしょうか。もし、そうだとしたら、その浅慮に驚き、あきれます。  子どものことが愛おしく、一時も離れていたくはないけれど、それでも生きていくためにやむなく子どもを預け、仕事に出かけなければならない親がどれほど多くいるか、貴殿はご存じでしょうか。そうした人々の声を、じかに聞いたことがあるでしょうか。彼女たちの苦しみに思いを巡らせたことがあるでしょうか。 子供は宝であり、かけがえのない存在である。にもかかわらず2歳としかももう一人8ヶ月の子供を3日間も預けるなら身元やベビーシッターとしての信用等、念には念を入れて預けるのが普通で、どの親でも考えるのが当たり前でないか。    ムネオ先生、おっしゃる通りです。「一般的には」誰もがそう考えるでしょう。ですが、政治家というのは、その「当たり前」をすべての国民に押しつけ、それができなかった者を断罪することが仕事でしょうか。むしろ、「当たり前」に生きることのできない人々の事情に思いを寄せ、彼らの苦しみに耳を傾け、そこに救いの手を差し伸べることが責務なのではないでしょうか。少なくとも、鈴木宗男という政治家は、これまでそうしてきたのではなかったでしょうか。 ◆ 政治家だからこそ、弱者への心配りを。 乙武氏と駒崎氏に言いたい。ツイッターとかではなく、顔を合わせて平場で話をしようではないか。無責任な評論家的な話は懲り懲りである。    お言葉を返すようですが、駒崎弘樹氏はNPO「フローレンス」代表理事として、長年、病児保育の問題に取り組んでこられた第一人者です。また、僭越ながら私自身も3年前より、認証保育園と認可保育園という2園の経営に携わっております。そうした意味で、ふたりとも、日々、育児と仕事を両立している保護者のみなさまの努力と苦労を間近で見てきている立場から発言しております。決して「無責任な評論家」として論じているわけではないこと、ご理解ください。  長年、国政の場でご活躍されてきた氏に対し、親子ほど年の離れた私のような若輩者が物申したことでご気分を害したのであれば、お詫びいたします。ですが、弱者への心配りを忘れない政治活動を行ってきた氏だからこそ、今回の事件を「無責任な母親の愚行」で片づけてほしくなかったのです。「今回の事件は、あくまで氷山の一角であり」「同様の困難を抱えるひとり親は数多くいる」という認識に基づき、ぜひ政策面でのバックアップをお願いできれば、これほど心強いことはありません。  ご検討、ご尽力のほど、何卒よろしくお願い致します。                                    乙武洋匡


東京都教育委員としてのヒアリング・第二弾

  先日、東京都教育委員としてもっと現場の声をお聞きしたいとの思いから、私の地元である新宿区立戸塚第一小学校PTAのみなさまにご協力いただき、子育てや教育について感じていらっしゃることをお聞きするヒアリングの場を設けさせていただきました。  今回は、その第二弾。新宿区障害者福祉協会様のお声がけにより、主に障害のある子を持つ親の立場から活動するいくつかの団体の方々にお集まりいただき、教育についてお感じになっていることについて率直なご意見をいただく場を設けさせていただきました。    みなさんのお話を聞かせていただき、僕のように「見てわかる障害」についての理解や対応はずいぶんと進んできたものの、「パッと見てわからない、わかりづらい障害」については、まだまだ理解・対応が不十分であることを実感しました。しかし、その対応の遅れを現場の教師一人ひとりのマンパワーで埋めなければならないのが現状。これでは教員もつぶれてしまいます。  また、特別支援学校・学級に通っていると、なかなか通常学級や地域社会との接点を持てずに困惑しているというお話もお聞きしました。いくら学校という学びの場を分けても、その出口である“社会”はひとつ。「健常者用の社会」「障害者用の社会」と分かれているわけではありません。それぞれの能力や特性に応じた教育を受けながら、どう地域との交流を図っていくのか。大きな課題のひとつです。  行政の立場から何ができるのか――。あらためて考えさせていただく貴重な時間となりました。参加者のみなさん、本当にありがとうございました!  


「感動をありがとう」と胸を熱くしたみなさんへ

 ソチ冬季五輪が閉幕する。浅田真央選手の演技、羽生結弦選手の快挙、葛西紀明選手の奮闘――今回も様々なドラマがあった。きっと多くの人が心を動かされ、「感動をありがとう」と口にしたことだろう。そんな方にこそ、ぜひご一読いただきたいのが、下記の文章。これは、いまから2年半前、サッカー女子日本代表がW杯で初優勝に輝いた翌日に書いたブログ。「この感動を、どう次につなげるか」という視点で読んでいただければ。 「なでしこ優勝に思うこと」(2011年7月18日)  サッカー女子日本代表・なでしこJAPANが、W杯で優勝。朝から、胸が熱くなった。おめでとう。本当に、おめでとう!!  今大会、キャプテンとしてチームを牽引した澤穂希選手とは、取材でお世話になって以来、もう十年来のお付き合い。怪我で苦しんでいた時期も、渡米先で悩んでいた時期も、ずっと前を向いて頑張ってきた彼女の姿をそばで見てきたからこそ、この試合に臨む彼女の表情を見るだけで、ぐっと来た。いや、そんな背景を知らなくたって、今日の勝利は僕らに力をくれた。それだけ、彼女たちは素晴らしいスピリットを見せてくれた。  だが、“世界一”という偉業を達成した彼女たちも、日頃は驚くほど質素な生活を送っている。海外組や一部のプロ契約選手以外、ほとんどの女子サッカー選手は、サッカーを職業としていない。つまり、サッカーでは「メシが食えていない」のだ。昼間は、会社勤め。もしくは、バイトをしている。そして、夜になって、所属チームの練習に参加する。きっと、疲れているだろうに。サボりたい日もあるだろうに。  同僚のOLたちが気晴らしに飲みに行ったりしている間、彼女たちはグラウンドでサッカーボールを追いかけている。もちろん、「好きだからやっているんでしょ」の声はある。だが、恋人や友人と過ごす時間も削り、すべての空き時間をサッカーに費やす日々には、「好きだから」のひとことではとても片づけることのできないストイックさがある。  忘れてはならないと思う。今日、僕らが得た感動は、彼女たちが犠牲にしてきた多くのものに支えられているのだということを。僕らはそんな事実を忘れ、しばらくすると、また次の感動に飛びつく。そんな「感動のいいところどり」を繰り返してきた。  感動の準備段階では、「好きでやっているんでしょ」。でも、いざ感動の場面になると、「感動をありがとう」。僕らはたいした対価を払うことなく、ただ感動だけを享受してきた。あえて強い言葉を使うならば、競技者から感動を“搾取”してきた。いつも日本中を駆け巡る「感動をありがとう」の言葉は、選手たちの心の支えになっても、生活の支えにはならないのだ。  たとえば、大きな可能性を秘めた選手がいたとしても、「家族や友人と過ごす時間とお金、そのすべてを犠牲にできるか」という問題に直面したとき、その競技を断念することだってあるだろう。しかし、僕らが、社会が、その下支えとなり、競技に専念できる環境を整えることができれば、そうした選手だって競技を続けることができる。  これは、スポーツに限った話ではない。音楽にも、美術にも、伝統文化にも、ほぼ同じことが言える。いまは競技や文化が到達した“結果”にしか目が向けられていないが、それらがある地点まで到達しようとする“過程”にまで目が向けられるようになれば、そこにはきっとお金も生まれる。それは間違いなく、そのスポーツや芸術の振興につながるだろう。文化が成熟するというのは、きっと、そういうことなのではないかと思うのだ。  ただ、そうした文化が定着していない日本では、「これだけ感動したんだから対価を払え」と言っても、なかなか受け入れてもらうのは難しいように思う。だから、言い方をポジティブな表現に変えてみよう。  「感動の準備段階にもっとお金を使えば、いままでより多くの感動を得られるかもしれませんよ」  スポーツを含めた文化全般を支えていく仕組みを、いま一度、知恵を出し合って考えていきたい。あらためて、そんなことを思わせてくれた、歓喜の朝。 (引用ここまで)  引き続き、パラリンピック出場選手の健闘を祈って――。


『ワイドナショー』

2月17日(月)24:50~25:40『ワイドナショー』(フジテレビ系)に出演します! 芸能ニュースや時事問題など、さまざまな話題や人物を取り上げていくワイドショー。 松本人志さんと本音で語る教育問題・学歴社会…現代における差別とは? 是非、ご覧ください!


現場の声を聞いていきたい!

 東京都教育委員に就任して、まもなく一年が経とうとしています。就任時に強く意識したのは、「現場の教員としての経験」と「マイノリティとしての視点」という2つの点でした。しかし、私が小学校教員を退職してから、すでに4年近くが経ちます。これが本当に現場の声と言えるのだろうか。タイムラグは生じていないだろうか。ここ最近は、そうしたジレンマも感じていました。 「できるかぎり、生の声を聞いていきたい」――そんな思いから、先日、私の地元である新宿区立戸塚第一小学校PTAのみなさんにお願いして、子育てや教育について困っていること、感じていることを率直にお話していただくヒアリングの場を設けていただきました。 学校と家庭が疑心暗鬼の状態になってしまっていることや、発達障害のあるお子さんへの対応など、普段から私自身が抱く課題意識とも共通する部分が多くありましたが、新宿区では約1割のお子さんが外国人であるという現状があり、彼らをどのように受け入れていくのかという新たな課題も教えていただくことができました。 初めての試みではありましたが、私自身、多くの気付きと刺激をいただき、とても有意義な時間となりました。ぜひ、また別の地域でも開催させていただきたく思っています。ご協力いただいた早稲田・戸塚地区のみなさん、本当にありがとうございました!


羽生選手の演技が思い出させてくれた「鑑賞」とういう視点。

  本日未明に行われたフィギュアスケート男子ショートプログラムで、羽生結弦選手が素晴らしい演技を見せ、101・45点という歴代最高得点を叩きだした。TwitterやFacebookのタイムラインを見ていても、「フィギュアのことはよくわからないけれど、あの羽生選手の演技には鳥肌が立った」という書き込みが目立つ。   私自身、大学卒業後、7年間スポーツライターとして活動していた。出版社からの依頼が多かったこともあり、野球やサッカーの取材が主だったが、当時中学生だった安藤美姫選手の演技に惹かれ、フィギュアスケートの取材もするようになった。私にとっては、まったくの未知の世界。そもそも、「フィギュアやシンクロは、スポーツなのか。それとも芸術なのか」という疑問さえ抱いていた。   ところが、取材を進めていくうちに、ジャンプやスピンだけでなく、ステップなどにも細かな技術が要求されることがわかってきた。私のような素人は、どうしても「演技構成点」だけに目を向けてしまいがちだが、「技術点」で高得点を目指すために重ねる練習は、たしかにスポーツであることを感じさせた。   だが、いざフィギュアスケートの大会を取材してみると、やはり野球やサッカーなどのスポーツを取材していた時とはまるで違う感動があった。野球やサッカーは、つねにA対Bという形式で試合が行われ、多くの観客はどちらかのファンであることが多い。だから、そこでは「試合結果」が最も重要になってくる。   たとえば、Aチームがホームランを打てば、Bチームのファンは肩を落とし、Bチームが反撃に出れば、Aチームのファンは肝を冷やす。つまり、よほど日常からかけ離れたビッグプレーでも生まれないかぎり、もしくは有名選手の引退試合でもないかぎり、観客が「会場がひとつになる」という感覚を味わうことは、ほとんどない。あったとしても、本来、それは観客が望んでいたものではない。   しかし、フィギュアは違った。ドイツのドルトムントで行われた世界選手権を取材した時のことが忘れられない。もちろん、会場には誰か特定の選手を応援したくて会場に足を運んでいるファンも多くいる。そして、彼らはその選手が表彰台に上がることを強く望んでいる。だが、彼らの目的は、決してそれだけではないことに気がついた。   観客の多くは、「美しいものが見たい」という思いを抱いている。だから、自分が応援している選手ではない他国の選手の演技でも、それが素晴らしいものであれば惜しみない拍手が送られる。もっと言えば、贔屓ではない選手に対しても、「素晴らしい演技を見せてほしい」という視線が向けられる。   つまり、フィギュアスケートにおける優れた演技には、会場をひとつにする力があるのだ。これは、幼い頃から野球・サッカーの文化に慣れ親しんできた私にはとても新鮮な驚きだったし、そこには素晴らしい舞台を見終わったあとのような感動があった。これは「観戦」であり、「鑑賞」でもあると思った。   そうした意味で、今回の羽生選手の演技はまちがいなく会場をひとつにするものだったし、テレビで視聴した世界中の人々を心酔させたことだろう。開幕以来、どうしてもメダルの獲得に一喜一憂してしまう毎日だが、「応援」だけでなく「鑑賞」の視点も取り入れてみると、今回のソチ五輪をより楽しめるのではないだろうか。


佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは

 全聾の作曲家という触れこみで“現代のベートーヴェン”と持てはやされた佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏の楽曲が、じつはご本人でなく、別の方によって作曲されていたというニュースが論議を呼んでいる。この件が報道されて以来、「障害者としての意見」が気になるのか、「乙武さんはどう思いますか?」という質問が多く寄せられている。ご本人が口を閉ざしている段階で、私があれこれ語ることにためらいがないわけでもないが、私なりに感じたことをまとめてみたい。  ネットでの論調を見ていると、以下のふたつに意見が大別されるように思う。ひとつは、「誰が作曲者であろうが、作品の価値は変わらない」とする考え方。もうひとつは、「騙された。とんだ駄作を買わされてしまった」とする考え方。この両者がそれぞれ意見を戦わせているように見えるが、私自身は「どちらも正解」だと思っている。つまり、商品を購入する際に「何を重視するのか」というモノサシが異なれば、今回の報道についての感想もまるで違ったものになるだろうと思うのだ。  私自身、それほどビジネスの世界に明るいわけではないが、最近は「コンテンツからコンテクストへ」という流れがあるらしい。コンテンツとは、小説や映画、音楽の「中身」そのもの。つまり、いかに作品としてすぐれたものを生み出し、売り出していくかという努力が必要になってくる。これに対して、コンテクストとは「文脈」のこと。作品自体に、「どんな人物が」「どのように生み出したのか」という物語を付与することで、人々の関心を誘い、作品への評価を高めようとする。最近では、とくにこの手法が重視されているのだという。  佐村河内氏名義の作品は、まさにこの“コンテクスト”を重視した手法によって多くの人々に知られることとなった典型だろう。もちろん、音楽に疎い私には、彼名義の楽曲の優劣について論じる資格がない。しかし、日本では数千枚も売れれば大ヒットと言われる交響曲という分野で、彼の作品が10万枚を超えるヒットを記録したという事実は、やはり“コンテクスト”抜きにしては達成しえない快挙だったはずだ。「耳の聞こえない人が、こんな作品を書いたなんてすごい!」――そんな思いでCDを買った人々が、今回の報道によって「騙された」「裏切られた」という思いを抱くのは無理もないことだろう。  じつは、私自身、この“コンテクスト”には幼い頃から苦しめられてきた。先天性四肢欠損という障害に生まれながら、健常者とともに育ってきた私は、周囲の大人たちから事あるごとに褒められてきた。「すごいね」「よくそんなことできるね」――しかし、私がやっていることと言えば、歩く、食べる、字を書くといった、ごく基本的な動作。それを褒められるたびに、子どもながら違和感を覚えていた。みんなと同じことをしているだけなのに、どうして僕だけが褒められるのだろう、と――。   答えは、すぐに出た。私が、障害児だからだ。「どうせ、この子は何もできないだろう」という前提があるからこそ、みんなと同じことをしただけで「素晴らしいですね」と評価される。私が何をしたって、その“行為”そのものではなく、「どんな状況にある子が」それをしたのかという“文脈”がついて回った。そうした重苦しい、粘り気のある視線は、当時の私にとってあまり心地のいいものではなかったし、正当な評価を受けたいという思いはつねにあった。それによって、たとえそれまで履かせてもらっていた下駄を剥ぎ取られる結果になったとしても。  だが、その私自身もまた、“コンテクスト”の呪縛から完全に逃れられているとは言いがたい。中村中という歌手がいる。彼女の「友達の詩」という曲を初めて聴いたときには、正直、鳥肌が立った。性同一性障害であることを公表している彼女が「手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから大切な人は友達くらいでいい」と歌う姿には、涙を禁じ得なかった。しかし、そこには、「いったい彼女はどれだけつらい恋愛をしてきたのだろう」という私の勝手な推測が根底に流れている。「性同一性障害である」という彼女の境遇が、この曲に対する私の思いを高めていることは間違いない。おそらくは、彼女自身、そうした見方をされることを望んではいないだろうけれど。   幼少期からずっと“コンテクスト”に苦しめられてきた私でさえ、他者に視線を向けるときには思わず“コンテクスト”を意識してしまう。だからこそ、そこに強烈な磁力を感じるのだ。もちろん、なかには「誰がつくったのかは興味がない。大切なのは作品そのものだ」と、みずからの確固たる価値基準によって作品を評価される方もいるだろう。しかし、誰もがそのように優れた審美眼を有しているわけではない。その作品を包む“ストーリー”に惹かれて、思わず商品を手に取ったという方はけっして少なくないはずだし、そうした人々を非難することはナンセンスであるように感じる。   昨年秋、食材偽装問題が世間を賑わせたが、あれは“コンテンツ”そのものにウソがあった。今回の佐村河内氏をめぐる騒動については、“コンテクスト”に大きなウソがあったと言わざるをえない。いまの時代、販売戦略において“コンテンツ”だけでなく“コンテクスト”も重視されるのであれば、やはり佐村河内氏にも説明責任がある。そして報道が事実ならば、彼名義の作品を評価してくれた人々に対し、誠意を持って謝罪をする必要があるのではないだろうか。   なお、「佐村河内氏の耳はじつは聞こえており、障害者手帳を不正に取得しているのであれば、そもそも詐欺であり、犯罪なのでは」というご指摘もあるかと思うが、これについては代理人サイドが否定しており、真偽が定かではないので、ここでの言及は控えたい。


なぜ都知事選から、子どもたちの姿が見えないのか?

 2月9日に行われる都知事選。「しっかりとした政策論争を」との声が聞かれるが、私が最も重視する「教育」について熱く語る候補者はほとんど見受けられない。  仕方がない面もある。「この国を戦争に向かわせたのは、戦争を肯定する軍国主義教育にも責任があった」という反省を踏まえ、現在では「教育の政治的中立」が原則とされている。もちろん、教育委員や教育長の任命権は首長が有するなど、政治は教育に一切関わることができないというわけではない。だが、それでも戦後日本では、政治と教育が一体化しないよう、一定の配慮がなされてきた。  だが、政治はいつまでも教育に無関心であっていいのだろうか。私には、そうは思えない。たしかに、学校教育については各自治体が設置する教育委員会の所管となっており(東京都なら東京都教育委員会)、予算や人事を除いて、政治が介入することは許されていない。しかし、「教育」とは学校教育だけではないはずだ。  3年間、公立小学校にて教員を務めた。教師という立場で最善を尽くしたという自負はあるが、同時に教師という立場での限界も感じた。たとえば、担任するクラスの子どもたち。突然、忘れ物が多くなった、授業中におしゃべりするようになった、友達に暴力をふるうようになったなど、彼らの行動に著しい変化が表れることがある。どうしたのだろうと事情を聞いてみると、家庭において何らかの環境の変化があったというケースがほとんどだった。しかし、担任という立場では、家庭の問題に深く入り込むことができない。結果、子どもたちの悩みの根源である部分には触れられず、対処療法のようなケアしかできずに、もどかしい思いをしたという事案も少なくなかった。  子どもたちが育つ場は、学校だけではない。家庭と学校、そして地域――この三者がそれぞれの役割を果たしながら、子どもたちを見守り、育てていくことがいかに重要であるかを実感した。「教育」と言うと、すぐに学校教育を思い浮かべがちだが、家庭教育や地域教育も、同様に重要なファクターなのである。そして、この家庭と地域に対するアプローチこそ、教育委員会ではなく、政治の出番ではないかと思うのだ。  たとえば、政治にどんなことができるのか。日本でも、深刻な格差が広がっている。とくに、貧困家庭で育つ子どもの学力向上は大きな課題だ。年収1500万円以上の家庭で育った子どもと、年収200万円未満の家庭で育った子どもでは、同じテストを受けても正答率が20%近く異なるというデータがある。つまり、貧困家庭に育ったことで、子どもたちは将来の選択肢を大いに狭められてしまっているという現状があるのだ。いつまでも負の連鎖を断ち切ることができない社会を、私は望まない。  北海道釧路市や埼玉県の取り組みを取材した。これらの自治体では、生活保護を受ける世帯の子どもたちの学習支援を行っている。彼らの親は仕事のために不在であることが多く、塾通いする経済的余裕もない。家でひとり勉強するほかないが、わからない箇所があっても質問できる相手がいない。こうした状況で、学力定着が望めるはずもない。そこで、釧路市や埼玉県は、学生ボランティアや元教師などがこうした子どもたちの学習を支援する仕組みづくりに着手したのだ。埼玉県では、対象者の高校進学率が格段にアップするなど、大きな効果を見せている。  これは、ほんの一例だ。全国には、学校教育の枠組みの外で、子どもたちの学びや育ちを支援する取り組みがあちこちで行われている。首都である東京が、“教育後進地域”になるわけにはいかない。新しい都知事には、ぜひとも教育の重要性に目を向けてもらいたい。


『田勢康弘の週刊ニュース新書』

2月1日(土)11:30~12:05(テレビ東京)にて、 『田勢康弘の週刊ニュース新書』に生出演します! 「教育現場から考えるニッポンの課題とは」と題して、 小学校教員や東京都教育委員といった経験からお話させていただきます! 是非、ご覧下さい!


NHK長谷川経営委員の「女性は家で育児、男性は外で仕事」論に待った!

◆  「女性は家で子育て、男性は外で仕事」は、本当に常識だったのか  本を書き、テレビに出演し、小学校教員を経験した後に、現在は東京都教育委員を務める。「乙武さんの肩書きは、いったい何なのですか?」と聞かれることも多いが、じつはもうひとつ「保育園経営」という肩書きもある。地域との結びつきを重視した「まちの保育園」は、2011年4月に練馬区小竹向原、2012年12月に港区六本木一丁目に開園した。現在、両園あわせて80名を超える子どもたちをお預かりしている。入園当初は子どもたちがぐずり、保護者の方々も後ろ髪を引かれるような思いで職場に向かうことが多くあったが、子どもたちも園に慣れてくると、笑顔で「いってらっしゃい」と見送ることができるようになる。そんな笑顔に見送られながら仕事へと向かう保護者の方々の姿を目にすると、この事業の重要性とともに大きなやりがいを感じることができる。  だからこそ、NHK経営委員・長谷川三千子氏(埼玉大学名誉教授)が産経新聞に寄せたコラムには驚かされた。彼女の主張を要約すると、女性は家で子を産み育て、男性は外で働いて妻子を養うのが合理的であり、日本の少子化問題を解決するためには、「男女雇用機会均等法」以来進められてきた女性も働くことのできる社会を「誤りを反省して方向を転ずべき」だとしている。たしかにこの国が抱える少子化問題はかなり深刻な状態にあるが、出生率を上げていくためには、本当に長谷川氏が主張するように「女性が子育てをし、男性が外で働く」という時代に時計の針を戻すしかないのだろうか。  氏は、女性が子育てをし、男性が外で働くという社会形態を「昭和50年頃まではそれが普通だったのです」と主張しているが、本当にそうだろうか。たとえば農家では、女性も貴重な働き手であり、彼女たちが畑仕事を手伝うのはごく日常的なことだった。また町工場のような場所でも、女性は経理面でそれを支えるなど、やはり貴重な戦力として活躍してきた。長谷川氏が「普通だった」と主張する「女性は内、男性は外」という生き方は、彼女が生きてきた時代の「普通」であり、長い歴史的に見れば、必ずしも「普通」とは言い切れないのではないだろうか。彼女の個人的なノスタルジーに寄りかかって社会的課題に向き合われたのでは、この深刻な少子化問題を解決することはできない。 ◆  出生率が高い国に共通することとは  海外にヒントを探してみよう。韓国やドイツ、イタリアなどの国々は、日本同様、現在も低い出生率に悩まされている。だが、フランスやイギリス、さらにはスウェーデンやデンマークといった北欧の国々は、かなり高い出生率を保っている。じつは、これらの国々も女性の社会進出にともなって出生率が低下してきた歴史がある。しかし、1990年代以降、顕著な回復傾向を見せているのだ。これは、女性も働くことのできる社会を否定し、性別によって役割を規定する時代に逆戻りした結果、得られた成果なのだろうか。答えは、「NO」だ。  出生率の低下に危機感を覚えたこれらの国は、まずは女性が働き、仕事によって自己実現を図ることのできる社会を肯定するところからスタートした。そして、託児保育施設の拡充、給付金や税制上の優遇、産休後の地位を保証するキャリア制度など、女性が仕事と育児を両立できる社会を再構築してきたのだ。もちろん、育児を女性だけに押しつけることもない。男性も育児に参加できるよう、社会全体として長時間労働をしない・させない文化が根づいている。こうして海外を参考にしてみると、ワークライフバランスに注意が払われ、仕事も育児も両立することのできる社会において出生率が上がっていることを確認できる。 ◆  日本が成熟社会となるために  翻って、日本はどうだろうか。社会保障費は高齢者福祉が大きな割合を占め、子育て支援にはなかなか予算が配分されていない現状がある。また、最近では“保活”なる言葉が生まれるほど保育園を探すことが難しく、働く女性たちは悲鳴をあげている。産休や育休などの制度もあるにはあるが、「それを取得してしまうと、復帰後に以前のような責任ある仕事をさせてもらえなくなる」という女性の友人たちの話も聞く。結局、彼女たちは結婚や出産に対するハードルを高く感じ、躊躇してしまっているという現状がある。  つまり、日本では依然として働く女性たちが積極的に「子どもを生みたい」と思える環境になっていないことがわかる。以前に比べれば改善された部分もあるのだろうが、女性にとってはまだまだ「仕事か育児か」という二者択一を迫られるような状況にあるのだ。これでは晩婚化・未婚化が進み、出生率が下がるのも無理はない。  出生率を上げるために、まだまだ社会的に努力すべき余地は残されている。そうした側面に触れることなく、性別によって役割を固定し、人権を限定することを求めるのはあまりに愚かであると言わざるをえない。これからの私たちが目指すべきは、性別や障害の有無など、生まれついた環境や境遇によって生き方が定められることのない、成熟した社会ではないだろうか。


乙武洋匡公式サイト|OTO ZONE |
©2014 Office Unique All Rights Reserved.